ただ一度の贖い 2018年6月03日(日曜 朝の礼拝)

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ただ一度の贖い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 9章15節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。
9:16 遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。
9:17 遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。
9:18 だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。
9:19 というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、
9:20 「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。
9:21 また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。
9:22 こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。
9:23 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。
9:24 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。
9:25 また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。
9:26 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。
9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
ヘブライ人への手紙 9章15節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 旧約聖書のエレミヤ書31章に、神様がイスラエルの民と新しい契約を結ぶ日が来ると預言されています。その預言を、ヘブライ人への手紙は、8章8節から12節で引用しました。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、主は言われる。『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、わたしも彼らを顧みなかった』と、主は言われる。『それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれの自分の兄弟に、「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで彼らはすべて、わたしを知るようになり、わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」』。ヘブライ人への手紙は、この新しい契約が、イエス・キリストにおいて実現したと教えています。新しい契約の仲保者であるイエス・キリストを信じるならば、誰でも、新しい契約の祝福にあずかることができるのです。私たちは、イエス・キリストにあって、新しい契約の祝福に生きる神の民とされているのです。このことを確認したうえで、今朝は、ヘブライ人への手紙9章15節から28節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1 遺言としての契約

 15節から22節までをお読みします。

 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。

 イエス・キリストは新しい契約の仲介者(仲保者)であられます。では、どのようにして、イエス・キリストは新しい契約の仲介者となられたのでしょうか?それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったことによってでありました。「最初の契約」とは、神様がイスラエルの民をエジプトから導き出して、シナイ山で結ばれた、いわゆるシナイ契約のことであります。神様はイスラエルの民に、十戒に代表される掟を与えられました。しかし、イスラエルの民は神様の掟に背いて、罪を犯してしまいました。その罪の贖いとしてキリストは死んでくださったのです。それは、イエス・キリストを信じるようにと召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためであったのです。この「召された者たち」に、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、神様を礼拝している私たちも含まれています。イエス・キリストは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして死んでくださることによって、新しい契約の仲介者となられました。そして、それは、イエス・キリストを信じる私たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためであったのです。「永遠の財産」とは、天の御国のことです。イエス・キリストを信じる私たちは、神の子として、義の宿る新しい天と新しい地を受け継ぐことになるのです(二ペトロ3:13)。

 16節、17節に、「遺言」という言葉があります。ここで「遺言」と訳されている言葉は、「契約」と訳されている言葉と同じディアセーケーというギリシャ語です。ヘブライ人への手紙は、ディアセーケーという言葉が、「契約」と「遺言」の二つの意味を持つことに着目して、新しい契約が有効となるためには、キリストの死が必要であったと記します。遺言は、遺言者が死んで初めて有効となります。それと同じように、新しい契約はキリストの死によって初めて有効となるのです。そして、このことは、最初の契約においても言えることであります。旧約聖書の出エジプト記24章3節から8節までをお読みします。旧約の134ページです。

 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民にふりかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

 このように、最初の契約であるシナイ契約も、血を流すことによって結ばれました。そして、その血とは、和解の献げ物として主にささげた雄牛の血であったのです。モーセは雄牛の血を祭壇とイスラエルの民に振りかけました。なぜ、モーセは雄牛の血を祭壇とイスラエルの民に振りかけたのでしょうか?それは、血によって祭壇とイスラエルの民を清めるためです。「血によって清める」とは、「命によって贖う」という意味です。血が命を贖うことは、レビ記17章11節に記されています。「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上で、あなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」。雄牛の血が振りかけられることにより、祭壇は清められ、イスラエルの民の命は贖われました。そのようにして最初の契約は成立したのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の411ページです。

 19節から21節は、先程お読みした、出エジプト記24章の記述を背景にして記されています。しかし、そこに記されていなかったことも、ここには記されています。例えば、「水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけた」とありますが、出エジプト記の24章には、「水や緋色の羊毛やヒソプ」は出てきません。また、「雄山羊の血」についても記されていません。さらに言えば、雄牛の血が注がれたのは、「契約の書自体」ではなく、「祭壇」と記されていました。このようなことは、ヘブライ人への手紙が、出エジプト記24章だけではなく、レビ記や民数記をも念頭において記しているからです。ヘブライ人への手紙の著者が指摘したいことは、最初の契約において、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められたということです。血を流すことなしには罪の赦しはありえないということです。最初の契約は、和解の献げ物である雄牛の血によって、祭壇(あらゆる器具の象徴)は清められ、イスラエルの民は罪から贖われることによって結ばれました。それと同じように新しい契約が成立するためにも、血が流される必要があったのです。つまり、イエス・キリストの死は、新しい契約が結ばれるために必要なことであったのです。

2 ただ一度の贖い

 23節から26節までをお読みします。

 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。

 ヘブライ人への手紙の著者によれば、地上の幕屋は天にあるものの写しであり、影でありました。天にはオリジナルであり本体である、人間の手で造られたのではない、すなわちこの世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋があるのです。地上の幕屋や礼拝するための器具が雄牛の血によって清められ、また、地上の礼拝者の罪が雄牛の血によって贖われたのであれば、そのオリジナルであり、本体である天にあるものは、雄牛の血よりもまさったいけにえによって清められねばならないのです。そして、そのまさったいけにえこそ、イエス・キリストであるのです。キリストは御自分の血によって、私たちの罪を贖い、神様との親しい交わりを実現してくださいました。新しい契約の祝福、「小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」という祝福は、イエス・キリストの血によって実現したのです。

 24節に、「キリストは、まことの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったのです」とあります。これは、イエス・キリストの十字架と復活と昇天と着座という一連の出来事を、ヘブライ人への手紙の著者の言葉で言い表したものです。これと同じようなことを、使徒ペトロがペンテコステの日の説教において語っています。イエス様が天にあげられてから10日後の五旬祭の日、約束の聖霊は弟子たちのうえに降りました。聖霊を与えられた弟子たちは、さまざまな国の言葉で、神様の偉大な業をほめたたえました。これはどういうことでしょうか?ある人は、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざけりましたが、もちろんそうではありません。ペトロは自分たちに聖霊が注がれたのは、ヨエル書の預言の成就であり、復活されたイエス様が神の右に上げられ、メシアとされたからであると説き明かしたのです。どうして、私たちは、イエス・キリストが十字架の死から復活され、天へと上げられ、父なる神の右に座していると信じているのでしょうか?それは、父なる神の右の座におられるイエス様から聖霊を与えられているからです。聖霊によってイエス様と神様との交わりの内に生かされているからです。ヘブライ人への手紙が、「キリストは、まことのものの写しに過ぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださった」と語るのも同じ理屈です。私たちはイエス・キリストの名によって、すべての罪を赦され、神様との親しい交わりに生かされているからこそ、キリストが神様の御前に、私たちの大祭司として仕えておられることが分かるのです。

 キリストは私たちの大祭司として、私たちの罪を担い、御自身を永遠の贖いとしてささげてくださいました。しかし、それは、地上の大祭司が年ごとに、自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をささげるためではありません。ヘブライ人への手紙は、「もしそうだとすれば、天地創造の時から度々(たびたび)苦しまねばならなかったはずです」と記しています。このことは、「天地創造の時から犯されてきた人間のすべての罪が、イエス・キリストの血によって赦される」ことを教えています。最初の契約において、神様は、動物の血によって、イスラエルの罪を赦されました。しかし、その動物の血は、よりまさったいけにえであるイエス・キリストの血を指し示すものであったのです。最初の契約の民も、動物の血が指し示す、さらにまさったいけにえであるイエス・キリストの血によって罪の赦しを得ていたのです。地上の大祭司は年ごとに、雄牛と雄山羊の血をささげました。しかし、イエス様は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださったのです。これは、イエス様御自身が言われていることです。マルコによる福音書10章45節で、イエス様はこう言われています。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。口語訳聖書では、「多くの人のあがないとして、自分のいのちの与えるためである」と記されています。イエス様は、多くの人の命を贖うために、すなわち、十字架の死を死なれるために、来てくださったのです。神の永遠の御子が人になり現れてくださったのは、 ただ一度御自身をささげることによって、永遠の贖いを成し遂げるためであったのです。

3 人間の定め

 27節、28節をお読みします。

 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

 「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」。これは、聖書が教えている真理であります。多くの日本人は、人間が必ず死ぬことは認めても、その後に神様の御前に出て裁きを受けることを認めようとはしません。しかし、聖書は、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と教えているのです。神の存在を否定する無神論者であっても、死んだ後に、神様の御前に出て、裁きを受けることになるのです。なぜ、そのように断言できるのかと言えば、一度死なれたイエス様が、死ぬことのない栄光の体で復活させられたからです。神様は、イエス・キリストを正しい御方として、栄光の体で復活させられました。そのことは、人間は死んだ後に、神様によって裁かれることを教えているのです。それだけではなく、イエス・キリストを信じる者は正しい者とされ、イエス・キリストと同じように栄光の体で復活することを教えているのです。ですから、イエス・キリストを信じる者たちは、死後の裁きを恐れる必要はありません。それどころか、世を裁かれるために再び来られるイエス・キリストを待ち望むことができるのです。なぜなら、イエス・キリストは、御自分を待望している人たちに救いをもたらすために来てくださるからです。そのとき、私たちは、永遠の財産である天の御国を、受け継ぐことができるのです。

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