永遠の贖い 2018年5月27日(日曜 朝の礼拝)

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永遠の贖い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 9章1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:1 さて、最初の契約にも、礼拝の規定と上の聖所とがありました。
9:2 すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。
9:3 また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。
9:4 そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、
9:5 また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。
9:6 以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。
9:7 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。
9:8 このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。
9:9 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。
9:10 これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。
9:11 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、
9:12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、
9:14 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。ヘブライ人への手紙 9章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の御言葉の直前、8章13節に、こう記されています。「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます」。今朝の御言葉には、間もなく消え失せる古びたものが具体的に記されています。

1 最初の契約の礼拝の規定と地上の聖所

 9章1節から5節までをお読みします。

 さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供えのパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石版があり、また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。

 ここでの「最初の契約」とは、神様がシナイ山において、イスラエルの民と結ばれたシナイ契約のことであります。神様は、イスラエルの人々をエジプトの奴隷状態から導き出され、シナイ山において、契約を結び、ご自分の宝の民とされたのです。神様は、イスラエルの民の只中に住むために、地上の聖所を造るよう命じられました。また、どのようにご自分を礼拝すべきかを定められました。旧約聖書の出エジプト記の24章に、「契約の締結」が記されています。それに続く25章で、「幕屋建設の指示」が記されており、「箱」「机」「燭台」「幕屋を覆う幕」と、何をどのように作るべきかが命じられます。29章に、「祭司聖別の儀式」、「日ごとの献げ物」と、誰がどのように神様を礼拝すべきかが記されています。礼拝の規定については、レビ記を読むとさらに詳しく記されています。このような礼拝の規定と地上の聖所について、ヘブライ人への手紙は、ごく簡単に記しているのです。

 最初の契約の地上の聖所には、聖所と至聖所がありました。垂れ幕を通って、幕屋に入るとそこが聖所であります。さらに、聖所の第二の垂れ幕を通ると至聖所があるのです。聖所には、燭台(ランプスタンド)、机が置かれていました。燭台は純金で造られ、机も純金で覆われていました。この机に、供えのパンを置いたのです。祭司たちは、安息日ごとに、12個のパンを6個づつ2列に置いて、神様の供え物としたのです。至聖所には、金の香壇(香をたく祭壇)と、すっかり金で覆われた契約の箱とがありました。香壇と契約の箱が金で覆われたことは、神様が尊いお方であることを示しています。ヘブライ人への手紙は、「至聖所に金の香壇があった」と記していますが、出エジプト記の30章を見ますと、聖所に置かれていたようです(出エジプト30:6「それを掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に置く」参照)。また、ヘブライ人への手紙は、「契約の箱の中に、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があった」と記されていますが、旧約聖書を読みますと、契約の箱の中にあったのは、契約の石板だけでありました(列王上8:9「箱の中には石の板二枚のほか何もなかった」参照)。「契約の石板」とは、神様がシナイ山でモーセに与えられた、十戒が刻まれている二枚の石の板のことであります。そもそも、神様は、掟の板を納めさせるために、箱を作るよう命じられたのです(出エジプト25:16参照)。旧約聖書を読みますと、「マンナの入っている壺と芽を出したアロンの杖は、契約の箱の前に置いた」と記されています(出エジプト16:34「それを掟の箱の前に置いて蓄えた」、民数17:25「アロンの杖を掟の箱の前に戻し、反逆した物たちに対する警告のしるしとして保管しなさい」参照)。更に細かいことを申しますと、「マンナの入っている壺」が「金」であったと記されていますが、これはヘブライ語聖書のギリシャ語訳、いわゆる七十人訳聖書に由来します。契約の石板が納められている箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座(贖いの座)を覆っていました。ケルビムとは、頭が人間、体が獣で翼のある天使のような存在のことです。償いの座は、契約の箱の蓋であります。神様は、一対のケルビムの間に臨在されたのです。聖所の奥の部屋には契約の箱があり、その蓋である贖いの座のケルビムの間に神様が臨在されたゆえに、そこは至聖所(聖所の中の聖所)と呼ばれたのです。ヘブライ人への手紙は、「こういうことについては、今はいちいち語ることはできません」と記しています。こういうことを一つ一つ取り上げて、その意味を解き明かすならば、到底時間が足りないというのです。ヘブライ人への手紙の関心は、地上の聖所そのものにあるのではなく、それが指し示すものにあるからです。

2 今というときの比喩

 6節から10節までをお読みします。

 以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を必ず携えて行きます。このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。

 地上の聖所は、第一の幕屋である聖所と第二の幕屋である至聖所からなっておりました。第一の幕屋である聖所には、祭司たちが礼拝を行うために、いつも入ります。しかし、第二の幕屋である至聖所には、年に一度の贖罪日に、大祭司だけが入るのです。そのとき大祭司は、自分自身の罪と民の罪のために献げる血を必ず携えて行きます。このことについては、レビ記の16章に、詳しく記されています。この所は開いて読みたいと思います。旧約の187ページです。レビ記の16章1節から5節までをお読みします。

 アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった。主はモーセに言われた。あなたの兄アロンに告げなさい。決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。わたしは贖いの座の上に、雲のうちに現れるからである。アロンが至聖所に入るときは次のようにしなさい。

 まず、贖罪の献げ物として若い雄牛一頭、焼き尽くす献げ物として雄羊一匹を用意する。彼は聖別した亜麻布の長い服を着け、その下に亜麻布のズボンをはいて肌を隠し、亜麻布の飾り帯を締め、頭に亜麻布のターバンを巻く。これらは聖なる衣服であり、彼は水で体を洗ってこれを着る。次に、イスラエルの人々の共同体から贖罪の献げ物として雄山羊二匹、焼き尽くす献げ物として雄羊一匹を受け取る。

 飛んで、11節から16節までをお読みします。

 アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。次に、主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。次いで、雄牛の血をとって、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく。

 次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と、前方に振りまく。こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う。彼は、人々のただ中にとどまり、さまざまの汚れにさらされている臨在の幕屋のためにも同じようにする。

 このように、第二の幕屋である至聖所には、年に一度だけ、大祭司だけが、自分自身の罪と民の罪のための血を携えて入ることができたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の411ページです。

 8節に、「このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます」とあります。聖書は神の言葉であり、その究極的な著者は神の霊、聖霊であります。それゆえ、ヘブライ人への手紙は、「聖霊は、示している」と記しているのです。ヘブライ人への手紙が、「聖所への道はまだ開かれていない」と記すとき、その「聖所」とは「神様が臨在される至聖所」のことであります。至聖所の前に聖所があることは、神様との交わりの道は開かれていないことを示しています。そして、このことは、今の時がどのような時であるかを象徴しているのです。祭司たちは、毎日、聖所に入りいけにえを献げます。また、大祭司は毎年、至聖所に入り贖いの儀式をいたします。このことは何を示しているのでしょうか?それは、「供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができない」ということです。幕屋において、いけにえをささげても、礼拝する者の心は、神様との交わりにふさわしいものとならないのです。ヘブライ人への手紙の著者によれば、「これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない」のです。そして、その改革を成し遂げてくださった方こそ、イエス・キリストであるのです。

3 永遠の贖い

 11節から14節までをお読みします。

 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の霊によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

 ヘブライ人への手紙が、「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになった」と記すとき、神の御子であるキリストが、私たちと同じ人として生まれてくださったことを指しています。イエス・キリストは、聖霊を注がれた大祭司として、御自分を、私たちの罪を償ういけにえとして十字架にささげてくださいました。イエス様は、そのようにして、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。十字架に死から復活されたイエス・キリストが天へと上げられ、父なる神の右の座に着かれたことは、そのことを教えているのです。13節に、「なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば」とあります。ここでヘブライ人への手紙の著者は、そのことを否定しているわけではありません。民数記の19章を読みますと、主が雌牛の灰を水にまぜることによって、罪を清める水が作られたこと。また、その清めの水によって、罪が清められたと記されています。また、雄山羊や雄牛の血が、ささげる者の命を贖うことは、レビ記の17章に記されています。そこには、はっきりとこう記されています。「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」。神様は、雄牛や雄山羊の血をささげる人の罪を赦し、聖なる者として受け入れてくださいました。また、雌牛の灰をまぜた水によって、汚れた者を清めてくださいました。これらのことは、最初の契約において有効であったのです。そうであれば、なおさら、永遠の霊によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝させるはずであります。「永遠の霊」とは、神の霊、聖霊のことです。イエス様は、聖霊によって、御自分をいけにえとして献げられました。イエス様が、その御生涯において、罪を犯すことなく、神様の御心に完全に従うことができたのは、なぜでしょうか?それは、聖霊なる神様がイエス様と共におられたからです。神の子であるキリストは、私たちと同じ弱い肉体を取られました。そのような意味でイエス様は罪を犯す可能性があったのです。しかし、イエス様は何一つ罪を犯しませんでした。それは、聖霊がイエス様の歩みを導き、支えられたからです。イエス様は、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、父なる神に従順であられました。それは、聖霊の助けがあったからです。イエス様は、永遠の霊によって、御自身を罪のない完全ないけにえとしてささげ、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。そのキリストの血こそが、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝させてくださるのです。

 「死んだ業」の最たる者は、神でないものを神として拝む偶像礼拝であります。私は、大学生の時に、洗礼を受けてキリスト者となりました。それまで私は、神でないものを神として拝む偶像崇拝の罪を犯していました。人間の手によって作られた石や木の像を拝んでいたのです。しかし、そのような私が、天地万物を造られた唯一の生けるまことの神様を礼拝するようになったのはなぜか?それは、キリストの血によって、わたしの良心が清められたからです。私だけではありません。私たちが、生ける神様を礼拝することができるのは、私たちの良心が、キリストの血によって、清められたからであるのです。ハイデルベルク信仰問答は、その第69問で、「水の洗いである洗礼は、キリストの血と霊によって、私の魂が罪の汚れから洗われることを約束している」と告白しています。私たちの良心はキリストの血によって清められ、生ける神を礼拝するにふさわしい者とされたのです。

 9節に、「家畜をいけにえといてささげても、礼拝をする者の良心を完全にすることができない」とありました。神様が家畜をいけにえとして献げるよう命じられたのは、神様の掟に背くことが死に価する罪であることを教えるためでありました。自分の罪のために、可愛がって育ててきた家畜を、いけにえとしてささげなければならない。それは、悲しいことですが、家畜ですから、それほどでもありません。家畜を献げることは、悲しみよりも経済的な負担となりました。マラキ書を読みますと、売り物にならない傷のある動物や病気の動物をささげていたと記されています。しかし、神の御子が人となって、私たちの罪を担い、いけにえとして死んでくださったと聞いたら、どうでしょうか?私たちが生ける神を礼拝することができるのは、イエス・キリストが、十字架の上で、御自身をいけにえとしてささげ、永遠の贖いを成し遂げたからであると聞いたら、どうでしょうか?これは、仮定の話ではなく、ローマの総督ポンテオ・ピラトの時代に、ユダヤの国で実際に起こったことです。そうであれば、私たちは、キリストの名によって日曜日ごとにささげられる礼拝を疎かにすることはできないと思います。神様は、独り子を与えられたほどに、私たち一人一人を愛してくださっています。また、イエス・キリストは、命を捨てられたほどに、私たち一人一人を愛してくださっています。その愛が、聖霊によって、私たちの心に注がれているのです。そのようにして、父と子と聖霊なる三位一体の神様は、私たちに、御自分を礼拝する心を与えてくださったのです。

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