永遠の大祭司 2018年5月06日(日曜 朝の礼拝)

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永遠の大祭司

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 7章20節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:20 また、これは誓いによらないで行われたのではありません。レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、
7:21 この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方に対してこう言われました。「主はこう誓われ、/その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』」
7:22 このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。
7:23 また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。
7:24 しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。
7:25 それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
7:26 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。
7:27 この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。
7:28 律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。

ヘブライ人への手紙 7章20節~28節

原稿のアイコンメッセージ

序 神の出来事を神の言葉によって解釈する

 前回、私たちは、神様が命の力によって、イエス・キリストをメルキゼデクのような大祭司として立てられたこと。それによって、レビの子らの祭司職に基づく律法(儀式律法)が廃止されたことを学びました。これらは、イエス・キリストの出来事の意味を聖書から説き明かしたものであります。ヘブライ人への手紙は、イエス・キリストがメルキゼデクのような祭司であると教えていますが、その前に、神様がイエス・キリストを十字架の死から復活させられ、天に上げられたという事実があるわけです。ヘブライ人への手紙は、1章1節から3節で次のように記しておりました。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」。この1章1節から3節の御言葉は、この手紙の大前提であります。神の御子であるイエス・キリストが十字架の死によって人々の罪を清められ、復活し、天にあげられ、神様の右の座でとりなしておられる。この神様の出来事を、どのように理解したらよいのか?ヘブライ人への手紙は、この神様の出来事をメルキゼデクという人物に注目し、永遠の大祭司として説き明かすのです。ヘブライ人への手紙は、神様の出来事を神様の言葉である聖書によって説き明かしている、まさに説教であるのです(13:22「勧めの言葉」参照)。

 イエス・キリストにおいて起こった神様の出来事を神様の言葉である聖書によって説き明かす。そのような事例はたくさんあります。イエス様御自身が、御自分の十字架と復活の出来事について、聖書から説き明かされました。ルカによる福音書の24章で、復活されたイエス様は弟子たちにこう言われました。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」。さらにイエス様は弟子たちの心を開いてこう言われました。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と」。ここで、イエス様は御自分の十字架の死と復活が聖書に預言されていた出来事であり、御自分を信じる者たちに、罪の赦しをもたらす出来事であると説き明かしておられます。また、使徒言行録の2章に、天にあげられたイエス様から弟子たちに聖霊が与えられたことが記されています。聖霊を与えられた弟子たちは、さまざまな国の言葉で神様の偉大な御業をほめたたえました。この出来事の意味を、使徒ペトロは、ヨエル書に記されている預言の成就として説き明かしています。使徒パウロは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を「神の裁きと義」という視点で、聖書から説き明かしました。パウロはファリサイ派の一員であったので、その関心からイエス・キリストの十字架と復活を、聖書から説き明かしたのです。パウロは、「イエス・キリストを信じる者は義とされる」という真理を、聖書から論証し、説き明かしました。パウロが目をつけたのは、アブラハムが信仰によって義とされた事例と、ハバクク書の「正しい者は信仰によって生きる」という御言葉でありました。ガラテヤ書やローマ書を読むと、そのことがよく分かります。それに対して、ヘブライ人への手紙は、(サドカイ派の)祭司職という視点から、「イエス・キリストを信じることによってすべての罪が赦され、神様との完全な交わりにあずかることができる」という真理を説き明かしているのです。ヘブライ人への手紙が目をつけたのは、アブラハムを祝福したメルキゼデクという謎の人物と、詩編110編4節の「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って、あなたはとこしえに祭司メルキゼデク(わたしの正しい王)」という御言葉であります。詩編110編は、「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」という御言葉によって始まるメシア詩編であります。詩編110編で主なる神様は、御自分の右の座に着かれた主イエスに、「あなたはとこしえの祭司メルキゼデク(わたしの正しい王)」と言われているのです。このことは、神様が誓いによって、イエス様を永遠の祭司とされたことを教えているわけです。しかし、そうは言っても、律法に定められており、地上で祭司として仕えているレビの子らとの関係はどうなるのか?そのことを前回の御言葉と今朝の御言葉で、ヘブライ人への手紙は記しているのです。

1 誓いによって祭司となられた

 7章20節から22節までをお読みします。

 また、これは誓いによらないで行われたのではありません。レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方に対してこう言われました。「主はこう誓われ、その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』」このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。

 イエス様の祭司職とレビの子らの祭司職の違いは、イエス様が神様の誓いによって立てられたのに対して、レビの子らは誓いによらないということです。ヘブライ人への手紙は、6章13節以下で、神様がアブラハムに御自身にかけて誓われたことを記しました。神様の言葉はそれだけで確かなことでありますが、神様は御自分にかけて誓うことにより、そのことをはっきりと示され、保証されたのです。イエス様がメルキゼデクと同じような大祭司となられたことは、神様の誓いによること、神様の変わることのない御意志に基づくことであるのです。22節に、「このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです」とありますが、「いっそう優れた契約」とは、8章8節から12節に引用されている「新しい契約」のことであります。神様の誓いによって、永遠の大祭司となられたイエス様は、新しい契約の保証人であるのです。このことについては、8章を学ぶときに詳しくお話いたします。ただここでは、イエス様の永遠の祭司職と新しい契約は一組(ワンセット)であることを指摘しておきたいと思います。

2 イエスは永遠に生きている

 23節から25節までをお読みします。

 また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

 イエス様の祭司職とレビの子らの祭司職とのもう一つの違いは、イエス様はいつまでも生きておられますが、レビの子らは必ず死ぬということです。レビの子らは、死というものがあるので、いつまでも祭司の務めを続けることはできません。レビの子らの祭司たちの先頭にはモーセの兄アロンがいますが、アロンは死にました。そして、大祭司の務めは息子エルアザルへと引き継がれたのです(民数20:22~29参照)。ユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば、アロンから70年のエルサレム神殿の崩壊まで、83人もの大祭司が立てられたそうです。しかし、復活して天へと上げられ、誓いによって永遠の祭司とされたイエス様は、もはや死ぬことがありません。イエス様は永遠に生きておられるので、変わることのない祭司職をもっておられるのです。イエス様は、常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神様に近づく人たちを、完全に救うことができるのです。「神様に近づく」とは「神様を礼拝する」という意味です。イエス様の名によってささげる私たちの礼拝は、決して空しいものとはならない。なぜなら、イエス様は、常に生きていて、私たちのために執り成しておられるからです。私たちは、永遠の大祭司であるイエス・キリストの執り成しによって、神様との親しい交わりにあずかっているのです。

3 ただ一度、御自身をささげることによって

 26節から28節までをお読みします。

 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。

 イエス様が御自分を通して神に近づく人たちを完全に救うことがおできになるのは、イエス様が聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司であるからです。「罪人から離され」とありますが、これは罪人と交わりながらも罪を犯すことはなかったということです。むしろ罪人たちがイエス様との交わりを通して、神様のもとへと立ち帰ったのです。私たちが完全に救われるには、「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされてる大祭司」が必要であったのです。そのようなお方が、変わることなく祭司の務めを果たしてくださるゆえに、私たちの救いは完全であると言えるのです。

 祭司の大切な務めの一つとして、罪のためのいけにえをささげることがあります。レビの子らの祭司たちは、自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえをささげる必要があります。しかし、イエス様は、自分の罪のためにいけにえをささげる必要はありません。なぜなら、イエス様は、罪のないお方、罪を犯したことがないお方であるからです。イエス様は、私たちと同様に試練に遭われましたが、何一つ罪を犯されませんでした。イエス様は、神様の御心に完全に従われたゆえに、御自分の罪のためのいけにえをささげる必要はないのです。また、イエス様は、民のために毎日いけにえをささげる必要もありません。なぜなら、イエス様は、民のためのいけにえを、ただ一度、十字架の上で御自身をささげることによって、成し遂げられたからです。イザヤ書53章に、「主の僕の苦難と死」の預言が記されています。そこでは、主の僕が、「屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように」口を開かなかったと記されています。また、主の僕が「自らを償いの献げ物とした」こと、そのことによって、「主の望まれることは」「成し遂げられる」ことが記されています。イエス様は、この主の僕として、私たちのすべての罪を償うために、十字架の死を死んでくださったのです。イエス様は大祭司として、ただ一度、御自分をささげることによって、御自分の民の罪を償われたのです。ここに、イエス様の祭司職のユニークな点があります。それは、イエス様が大祭司であると同時に、いけにえでもあるという点です。大祭司であるイエス様は、ただ一度、御自身をささげることによって、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 28節は、今朝の御言葉のまとめであります。「律法は弱さをもった人間を大祭司に任命しますが、律法の後(のち)になされた誓いの御言葉は、永遠に完全なものとされておられる御子を大祭司としたのです」。律法はモーセの時代に与えられました(紀元前13世紀頃)。他方、誓いの言葉はダビデの時代に語られました(紀元前11世紀頃)。と言いますのも、詩編110編はダビデの詩編と考えられていたからです。律法の後(のち)に誓いの言葉が語られたのです。そして、その誓いの言葉は、罪を犯してしまう人間ではなく、永遠に完全な者とされておられる御子(神の子)を大祭司としたのです。これによって、イエス様の祭司職がレビの子らの祭司職よりも優れていることは明かとされました。神様は誓いの言葉によって、永遠に完全な者とされている御子イエス・キリストを、私たちの大祭司としてくださったのです。

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