メルキゼデクと同じような祭司 2018年4月29日(日曜 朝の礼拝)

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メルキゼデクと同じような祭司

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 7章1節~19節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:1 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。
7:2 アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。
7:3 彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。
7:4 この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。
7:5 ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、律法によって命じられています。
7:6 それなのに、レビ族の血統以外の者が、アブラハムから十分の一を受け取って、約束を受けている者を祝福したのです。
7:7 さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。
7:8 更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。
7:9 そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。
7:10 なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。
7:11 ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、――というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから――いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。
7:12 祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。
7:13 このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。
7:14 というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。
7:15 このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。
7:16 この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。
7:17 なぜなら、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。
7:18 その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。――
7:19 律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。ヘブライ人への手紙 7章1節~19節

原稿のアイコンメッセージ

序 20節との関係

 今朝の御言葉の直前の6章20節に、こう記されています。「イエスは、わたしたちのための先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」。キリストは、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられた。このことについて、いよいよヘブライ人への手紙はたくさんのことを話し出すのです(5:11参照)。

1 メルキゼデク

 7章1節から3節までをお読みします。

 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。

 ここで、ヘブライ人への手紙は、創世記14章に基づいて、メルキゼデクについて記しています。実際に開いて読んでみたいと思います。旧約の18ページです。創世記の14章17節から24節までをお読みします。

 アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを打ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャべの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と言ったが、アブラムはソドムの王に言った。「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。わたしは何も要りません。ただ、若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々、すなわち、アネルとエシュコルとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください。」

 メルキゼデクはいと高き神の祭司であり、サレムの王でありました。メルキゼデクは、王たちを打ち破って帰って来たアブラム(後のアブラハム)を祝福します。そして、アブラムは、すべてのものの十分の一を、メルキゼデクに送るのです。メルキゼデクが歴史上の人物として登場してくるのは、ここだけです。メルキゼデクの消息については何も記されていません。そのことを背景として、ヘブライ人への手紙は、「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」と記すのです。ヘブライ人への手紙は創世記に記されていないことに基づいても、メルキゼデクについて記しているのです。確かに、創世記の14章には、メルキゼデクの父も、母も、系図も、生涯の初めも、命の終わりも記されていません。なぜ、記されていないのか?ヘブライ人への手紙は、メルキゼデクが神の子に似た者であって、永遠に祭司であるからだと言うのです。これはいささか強引な解釈であると思われるかもしれませんが、ヘブライ人への手紙がこのように解釈したのは、詩編110編で、神様の右の座に上げられた主が、「とこしえの祭司メルキゼデク(わたしの正しい王)」と呼ばれているからです。このところも開いて読みたいと思います。旧約の952ページです。詩編110編全体をお読みします。

 わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ。あなたの民は進んであなたを迎える/聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ/曙の胎から若さの露があなたに降るとき。主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」主はあなたの右に立ち/怒りの日に諸王を打たれる。主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち/広大な地をしかばねで覆われる。彼はその道にあって、大河から水を飲み/頭を高く上げる。

 ヘブライ人への手紙は、神様の右の座に上げられた主イエスが、神様の誓いによって、「とこしえの祭司メルキゼデク(わたしの正しい王)」とされたことを前提にして、創世記14章の記述を読み、そこに記されていないことに基づいて、「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」と記しているのです。神の子に似た者であるメルキゼデクは、神の子であるイエス様を指し示す者であるのです。メルキゼデクという名前の意味は「義(ツェデク)の王(メレク)」であります。また、「サレムの王」であることから「平和(シャローム)の王」であります。メルキゼデクの名前が意味する、義と平和の王こそ、神の御子イエス・キリストであるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の407ページです。

 

2 偉大な人物

 4節から10節までをお読みします。

 この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、律法によって命じられています。それなのに、レビ族の血統以外の者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けている者を祝福したのです。さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。

 メルキゼデクが偉大な人物であったことは、アブラハムを祝福したこと。アブラハムがメルキゼデクに十分の一を献げたことによって表されています。7節に、「下の者が上の者から祝福を受けるのは当然なことです」とありますように、メルキゼデクがアブラハムを祝福したことは、メルキゼデクがアブラハムよりも偉大な人物であることを表しています。ユダヤ人にとって、アブラハムは偉大な人物でありますが、メルキゼデクはさらに偉大な人物であるのです。アブラハムはメルキゼデクの祝福を受け、最上の戦利品の十分の一を送りました。このことは、アブラハムがメルキゼデクを、「天地の造り主(ぬし)、いと高き神の主(しゅ)」の祭司であると認めていることを教えています。モーセの時代に与えられた律法によれば、祭司の職に任命されたレビの子らは、嗣業の土地を与えられず、イスラエルでささげられるすべての十分の一を嗣業として与えられました(民数18:21参照)。同じようにアブラハムはいと高き神の祭司メルキゼデクに、十分の一をささげたのです。そして、このことは、十分の一を受けるはずのレビも、メルキゼデクに十分の一を献げたことを示しています。なぜなら、レビはこのとき、アブラハムの腰の中にいたからです。このことは、メルキゼデクの祭司職がレビの子らの祭司職よりも偉大であることを示しているのです。

3 メルキゼデクと同じような祭司

 11節から19節までをお読みします。

 ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、-というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから-いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明かですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明かです。この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。なぜなら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。-律法が何一つ完全なものにしなかったからです-しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。

 ヘブライ人への手紙は、「アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたのは、レビの系統の祭司制度によっては、人が完全な状態に達することができないことを教えている」と記しています。「人が完全な状態に達する」とは、「人が神様との交わりにおいて完全な状態に達する」という意味です。ヘブライ人への手紙は、「民はその祭司制度に基づいて律法を与えられている」と記しています。「その祭司制度」とは「レビの子らの祭司職」のことです(新改訳参照)。レビの子孫であるアロンとその子らが祭司職に任命されたことに基づいて、どのようにいけにえをささげればよいかという律法が与えられたわけです(出エジプト28章、29章参照)。ですから、祭司職に変更があるならば、律法にも必ず変更があるはずです。レビの子らが祭司として仕えているにも関わらず、神様はイエス・キリストをメルキゼデクと同じような別の祭司として立てられました。イエス・キリストは、レビ族の出身ではありません。祭壇の奉仕に携わったことのないユダ族の出身であります。律法によれば、ユダ族の出身であるイエス・キリストは祭司にはなれないのです。ですから、神様は、イエス・キリストを肉の掟によらず、朽ちることのない命の力によってメルキゼデクと同じような別の祭司として立てられたのです。神様は、イエス・キリストを十字架の死から三日目に復活させられ、天に上げられ、御自分の右の座に着かせられることによって、イエス・キリストを永遠に、メルキゼデクと同じような祭司とされたのです。それによって、以前の掟、レビの子らの祭司職に基づく律法は、弱く無益なものとして廃止されました。ヘブライ人への手紙が60年代後半に記されたとすれば、エルサレム神殿ではレビの子らが祭司として仕えていました。しかし、ヘブライ人への手紙は、イエス・キリストが永遠に、メルキゼデクと同じような祭司として立てられた以上、以前の掟は廃止されているというのです。ここで「廃止されました」と言われている掟は、祭司職に基づいて与えられた律法、いわゆる儀式律法のことであります(ウェストミンスター信仰告白19章「神の律法について」3節「普通に道徳律法と呼ばれるこの律法のほかに、神は未成年の教会としてのイスラエルの民に対して、儀式律法を与えることをよしとされた。これは、いくつかの予表的規程を含み、一方において、礼拝についてはキリストとその恵み・行為・苦難・祝福を予表し、また他方において、道徳的義務についての種々な教えを提示している。この儀式律法はみな、今の新約のもとでは廃棄されている」参照)。神様は、命の力によってイエス・キリストをメルキゼデクと同じような大祭司として立てることにより、祭司職に基づく律法、いわゆる儀式律法を廃止されたのです。それは、私たちが、もっと優れた希望によって神様に近づくためであります。私たちは、今や、永遠の大祭司イエス・キリストの執り成しによって、神様に近づくことができるのです。

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