レメクの歌 2011年10月09日(日曜 夕方の礼拝)

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レメクの歌

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 4章17節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:17 カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。
4:18 エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。
4:19 レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。
4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。
4:21 その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。
4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。
4:23 さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。
4:24 カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」創世記 4章17節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は創世記第4章17節から24節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 17節、18節をお読みします。

 カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。

 「カインは妻を知った」とありますから、このときカインはすでに結婚していたようであります。カインは妻と一緒に、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだのです。カインの妻はどこから出て来たのかがしばしば問題とされますが、おそらくアダムとエバの間に生まれた娘、すなわちカインの妹であったと思われます。第5章4節に「アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた」とありますから、聖書に名前が記されていない娘が生まれており、その娘がカインの妻となったと考えられるのです。彼女は身ごもってエノク(=dicated)を産みますが、「エノク」とは「奉献する」「献げる」という意味であります。カインは町を建てていたとありますが、これは神様の刑罰に反することでありました。カインに対する刑罰は、地上をさまよう放浪者になるということでしたが、カインは町を建てて定住生活をしようとしていたのです。そして、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けたのです。カインが自分の建てた町を主に献げるつもりでエノクと名付けたのかは分かりませんが、そのような推測も可能であります。カインは主によってしるしをつけられ、命を保護されることにより、主が自分とその献げ物にも目を留めておられたことを知ったのではないでしょうか?そのことを知ったゆえに、カインは息子と自分の建てた町を主に献げたと推測できるのです。そして、エノクはイラド(=fleet)の父となり、イラドはメフヤエル(=smitten by God)の父となり、メフヤエルはメトシャエル(=who is of God)の父となり、メトシャエルはレメク(=powerful)の父となりました。このようにして、主の前を去ったカインとその子孫によっても、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」という神様の御命令は実現されていったのです。

 19節から22節までをお読みします。

 レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。

 レメクとは「力ある者」という意味であります。「レメクは二人の妻をめとった」とありますが、これは一夫一婦制に反するものであります。第2章24節に「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とありましたが、レメクはアダ(=ornament)とツィラ(=shade)という二人の妻をめとったのです。

 これまで、カイン、エノク、イラド、メフヤエル、メフシャエル、レメクと6代に渡って系図が記されておりましたが、7代目として、レメクの三人の息子たちについて記されています。レメクの一人の妻アダは、ヤバル(=stream)を産みました。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となったと記されています。これを読みますと、カインに殺されたアベルも羊を飼う者であったではないかと思うかも知れませんが、ここでの家畜はラクダやロバを含む大きなもので、その数も膨大であります。それゆえ、ヤバルは家畜を飼い天幕に住む遊牧民の先祖となったと言えるのです。また、その弟ユバル(=stream)は、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となりました。もう一人の妻ツィラもトバル・カイン(=thou will be brought of Cain)を産みましたが、彼は青銅や鉄でさまざまな道具を作る者となりました。このように カインによって町が作られ、カインの子孫たちによって楽器や道具が作られ、文化が発展していったのです。神様はギリシャを通して芸術と哲学を発展させ、さらにはローマを通して法律や政治制度を発展させたように、カインとその子孫を通して、文化を発展させられたとのあります。私たちはここに神の一般恩恵(common grace)を見ることができるのです。

 文化の発展により、人々の生活は快適になり向上したはずですが、しかしそこには暗い側面もありました。それを教えてくれるのが、23節、24節に記されているレメクの歌であります。

 さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」

 イスラエルにおいては、「目には目を、歯には歯を」という同害報復法が定められていました。レビ記第24章19節にこう記されています。「人に障害を加えた者は、それと同一の障害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ障害を受けねばならない」。これは報復を制限するための掟でありまして、決して報復を促す掟ではありません。目をつぶされても、加害者の命まで取ってはならない。同じ障害を負わせることでよしとしなければならない。これがこの掟の言わんとしていることであります。しかし、レメクは、傷の報いとして男を殺し、打ち傷の報いとして若者を殺すというのです。ここでの「若者」は「子供」とも訳すことができます。レメクは若者であろうが、子供であろうが容赦しないと息まくのです。私たちはここに人間の罪の増大を見ることができます。そして、このことは文明の発展とも関係があるわけです。22節に、トバル・カインは「青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった」とありましたけれども、作られたのは農業道具(鋤や鍬)だけではなかったと思います。人を殺すための道具(武器)も作られたはずです。文化の進展の背後には人間の欲望があり、人間の欲望は争いを産むわけであります(ヤコブ4:1、2参照)。私たちは文化の発展と共に人間の罪も増大していったようすをレメクの歌から教えられるのであります。しかも、レメクはこのような豪語する理由として、主がカインにお与えになったしるしの伝承を持ちだしています。レメクが、傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺すのは、カインの復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍の復讐を主がなされるからだと言うのです。カインのしるしのことが、六代後のレメクにも伝えられていたようでありますけれども、レメクはカインのしるしについて自分に都合のよい解釈をしているわけです。確かに主は、「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」と言われ、カインに出会う者がだれも彼を撃つことがないように、しるしをつけられました。しかし、それはカインが自分で復讐してよいということではないのです。復讐をされるのは、カインにしるしをつけられた主であります。しかし、レメクはそれを自ら復讐してよい許可として理解したのです。そして、勝手に七倍を十倍して、さらに七倍を加えて、七十七倍としたのであります。よって、自分は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺すのだと言うのです。このようにレメクは、主の言葉を自分の都合のいいように利用し、主の言葉によって自分の罪を正当化するのであります。しかし、それは決して主の御心ではありません。主の御心は報復することではなく赦すことであります。それも徹底的に赦すことです。マタイによる福音書第18章21節、22節にこう記されています。

 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。

 主イエスがペトロに、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われたとき、レメクの言葉が念頭にあったのかも知れません。主はこの御言葉のとおりに、十字架のうえで、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。そのようにして、私たちに罪の赦しを与えてくださったのです。私たちはこの主の赦しに生きる者たちでありたいと願います。

 

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