エデンの園からの追放 2011年9月11日(日曜 夕方の礼拝)

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エデンの園からの追放

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 3章20節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:20 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
3:21 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
3:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
3:23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
3:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
創世記 3章20節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 前回私たちは、女と男に対する神様の刑罰の御言葉を学びました。神様は禁じられた木の実を食べたアダムに、「塵にすぎないお前は塵に返る」と言われたのです。罪の刑罰としての死が語られた後で、今夕の御言葉は命について語ります。20節。

 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。

 この20節が置かれている位置については議論があります。第4章1節に、「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った」とあります。20節は、この第4章1節の後に記された方が良かったのではないかと言うのです。その方が文脈に適していると言うのであります。しかし、アダムは神様の刑罰の言葉を聞いた後で、女をエバ(命)と名付けたのです。これはアダムが神様のお語りになった救いの約束をしっかりと聞き取ったことを表しております。神様は男と女に、「蛇の頭を打ち砕く女の子孫が生まれる」ことを約束されました。そして神様は女に、はらみの苦しみは大きくなるものの、子を産む祝福が与えられていることをお語りになりました。その神様の御言葉を聞いて、アダムは信仰をもって、女をエバ(命)と名付けたのです。確かに、女はまだ子供を産んでおりませんけれども、アダムは彼女がすべての命あるものの母となることを信じ、女をエバ(命)と名付けたのです。ですから、20節は神様の救いの約束を聞いたアダムの信仰として、ここに記されているのです。

 21節をお読みします。

 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。

 7節にありましたように、アダムと女はいちじくの葉をつづり合わせて、腰を覆うものとしておりました。禁じられた木の実を食べて、自分たちが裸であることを知った二人は、自分でいちじくの葉をつづり合わせて腰を覆うものを作ったのです。しかし、ここでは神様がアダムと女に皮の衣を作って着せてくださいました。これは罪を犯した人間に対する神様の慈しみを示しております。神様は二人をエデンの園から追い出されますけれども、裸同然で追い出すようなことはいたしませんでした。茨とあざみの生える土地に耐え得る衣、体を守るための衣を作って二人に着せられたのです。皮の衣でありますから、この衣が作られるために、動物の血が流されたと思われます。動物の血が流されるのを見て、アダムと女は自分たちが犯した罪の大きさを改めて思ったのではないでしょうか?この21節は私たちに色々なことを想い巡らせます。ある人は、ここに動物犠牲の原型を見てとります。神様は動物の血を流すことにより、人間が神様との交わりに生きることを示されたと言うのです。またさらには、この動物の血をイエス・キリストの十字架の血潮の指し示すものであると解釈する人もいます。色々なことを想い巡らすことができますけれども、大切なことは、神様が罪を犯した人間に慈しみをお示しになり、その関係を完全に断ち切ることはなさらなかったということであります。アダムとエバはエデンの園を追放されますけれども、自分たちが着ている皮の衣を見るたびに神様の慈しみを覚えることができたのです。

 22節から24節までをお読みします。

 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」  主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

 神様は第1章26節で「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われましたが、ここでも神様は「我々」と言われております。これは尊厳を表す複数形であるとも言われますが、神様が父と子と聖霊なる三つにしてただひとりのお方であることを示す痕跡であると理解したいと思います。唯一の神に、父と子と聖霊の三つの位格があることは、イエス・キリストと聖霊の派遣によってはっきりと示されるのですが、その痕跡を私たちはこの「我々」という言葉に読み取ることができるのです。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった」。この神様の御言葉は、蛇が女に語った言葉とよく似ています。そうすると、蛇の言葉は正しかったのでしょうか?そもそも善悪を知る者とはどのような意味でしょうか?それは善いことと悪いことを判断する基準を自分の内に持つようになるということです。なぜ、園の中央に生えている善悪の知識の木だけは取って食べてはならなかったのか?それは神様が「決して食べてはならない」と命じられたからです。善悪の知識の木そのものには、食べてはならない理由はないのです。善悪の知識の木の実に毒が入っているとか、そういうことではないのです。善悪の知識の木の実も他の木の実と同じように、見るからに好ましく、食べるによいものであったのです。ではなぜ、食べてはいけないのか?それは主なる神様が「決して食べてはいけない」と言われたからなのです。神様が決して食べてはならないと言われたゆえに、善悪の知る木からは食べない。それがアダムに求められていたことでありました。禁じられていた木の実を食べないことによって、アダムは善悪の判断の基準が自分ではなく、神様にあることを告白していたのです。けれども、エバから聞いた蛇の言葉、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」という言葉を聞いて、彼はいろいろ考えたのです。神のようになったら、もっとエデンの園をよく管理することができるじゃないか。そのようにいろいろ考えて、女の手から禁じられた木の実を受け取り、食べてしまうのです。そのようにしてアダムは善悪の判断の基準は神様ではなく、自分としたのです。すなわち、アダムは神様ではなく自分を主人としたのです。こうして、アダムは神様のように善悪を知る者となったのであります。神様の掟に背くことによって、アダムは善悪を知る者となったのです。

 神様はアダムをエデン園から追い出すのですが、そのことはアダムが神のように善悪を知る者となったことの当然の結果であります。神様の御言葉を善悪の判断の基準とせず、人間が自分を善悪の判断の基準とするようになったからには、神様は人間と一緒に住むことはできません。それゆえ、神様はアダムをエデンの園から追放するのです。そして、これこそ、神様がアダムに「必ず死んでしまう」と警告しておられた「死」であるのです。神様は19節で、「塵にすぎないお前は塵に返る」と言われました。これは肉体の死を意味しておりますけれども、第5章5節を見ますと、「アダムは九百三十年生き、そして死んだ」と書いてあります。神様はアダムに、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われましたけれども、アダムはそれから930年も生きたのです。では、神様の「食べると必ず死んでしまう」という言葉は実現しない空しいものであったのでしょうか?そうではありません。アダムは、禁じられた木の実を食べたその日に、エデンの園から追い出されたのです。アダムは、禁じられた木の実を食べたその日に、神様との親しい交わりを喪失し、霊的に死んだものとなったのです。私たちが死と聞きますと、何よりも肉体の死を考えますけれども、聖書において死は、命の源である神様との交わりの喪失を意味しております。アダムは確かに、禁じられた木の実を食べたその日に死んだのです。

 続けて神様は「今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」と言われました。命の木は、善悪の知識の木と共に園の中央に生えていた木であります(2:9)。もしアダムが神様の命令に従い、善悪の知識の木から食べなかったならば、その報酬として命の木の実が与えられたと考えられています。神様はアダムが善悪の知識の木から食べないことによって、つまり神様の命令に聞き従うことによって、命が与えられることを、命の木によって教えられたわけです。けれども、アダムは神様の掟に背き、善悪の知識の木から食べてしまいました。そのアダムが、今度は命の木からも手を伸ばして食べるかも知れないと神様は言われるのです。そして、それゆえに神様はアダムをエデンの園から追い出されるのです。ある人は、このことは神様の恵みであると言っております。もし罪を犯したアダムが、命の木から取って食べ、永遠に生きる者となってしまったらどうなっていたでしょうか?それでは悪魔と同じものになってしまうと言うのです。神様は私たち人間のために、命の木を食べさせないようにされたのです。

 神様はアダムをエデンの園から追い出し、そこから取られた土を耕させることにされました。ここでもアダムから創造されたときの祝福は奪われておりません。神様は第1章28節で、男と女を祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と言われましたけれども、その祝福はエデンの園から追放された後も続いているのです。罪のゆえに労働は労苦が伴う、生産性の乏しいものとなりましたけれども、労働それ自体は今もなお神様の祝福であるのです。

 神様はアダムをエデンの園から追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれました。ケルビムとは頭が人間、体が獣で翼のある怪獣と考えられております。これは古代オリエントの神話的表象であります。また、きらめく剣の炎も古代オリエントの神話的表象であります。ここで言いたいことは、神様は人間が自分の力によって命の木に至ることができないようにされたということです。

 今夕の御言葉を読むと、命の木そのものに、人を永遠に生かす力があるように読むことができます。しかし、そうではないでありましょう。命の木は、アダムの罪によって失われてしまった命の造り主である神様との全き交わりを指し示すものであります。それゆえ、神と人との全き交わりの実現する新しいエルサレムには命の木が生えているのです。ヨハネの黙示録第22章1節から5節までをお読みします。

 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。

 このように新しいエルサレムには無数の命の木が生えていると記されています。そして、この命の木の生える、つまり神様との全き交わりが実現する新しいエルサレムに入るには、イエス・キリストという道を通らなければならないのです。イエス様はヨハネによる福音書第14章6節でこう言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」。ケルビムときらめく剣の炎によって閉ざされた命の木に至る道は、イエス・キリストにおいて開かれています。私たちは十字架と復活の主イエス・キリストを通して、神の命にあずかることができるのです。

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