女の子孫の勝利 2011年8月28日(日曜 夕方の礼拝)

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女の子孫の勝利

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 3章14節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」創世記 3章14節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 神様は取って食べるなと命じた木から食べたアダムと女にそれぞれ弁明の機会を与えられましたが、女をだました蛇に対しては弁明の機会を与えずに刑罰を言い渡します。14節をお読みします。

 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。」

 ここでの蛇は堕落した天使である悪魔とかサタンとか呼ばれる者の道具としての蛇であります。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と女をだました蛇であります。そして、「このようなこと」のゆえに、神様は蛇に呪いを宣言されるのです。第3章1節に、「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」とありましたが、その蛇が今や最も呪われたものとなったのです。

 神様は「お前は、生涯這いまわり、塵を食らう」と言われましたが、これは最も低い、卑しめられた状態を表しています。蛇は足もないのに腹で這いまわり、舌をチョロチョロ出して、まるで塵を食べているかのように見えますが、そのような蛇の姿は神の呪いによるものであると聖書は語るのです。これは蛇の不思議な姿の原因を説明するものであると言われますけれども、大切なことは自分を神様と等しい者、さらには神様よりも偉大なものであるかのように振る舞った蛇が、神様によって生涯這いまわり、塵を食らうという最も低い卑しいものとされたということであります。女をだました蛇は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われたものとして、生涯這いまわり、塵を食らうのです。

 さらに神様は蛇に言われます。15節をお読みします。

 「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」

 神様は「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く」と言われました。これは神様の一方的な恵みであります。蛇と女はいわば共犯者でありました。女は蛇を従わせる立場にありながら、蛇の言葉に従って禁じられていた木の実を食べました。主なる神様の御言葉にではなく、蛇の言葉に従って、神のように善悪を知りたいという欲望から、禁じられていた木の実を食べたのです。そのようにして、女は神様の支配下から、蛇の支配下へと自ら入ってしまったのです。蛇と女は親しい関係に生きるものとなってしまったわけであります。けれども、神様は「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く」と言われるのです。神様は蛇と女の間に敵意を置くことによって、女を蛇の仲間とせず、御自分のもとへと引き戻されるのです。そして、神様はこの敵意を蛇の子孫と女の子孫の間にも置いてくださるのです。ここで神様は、蛇というよりも、その蛇の背後にいる悪魔とかサタンとか呼ばれる者に対して語っておられます。神様の蛇に対する言葉は、その背後にいる悪魔とかサタンとか呼ばれる者に対する言葉でもあるのです。ですから、「お前の子孫」とは「蛇の子孫」というよりも「悪魔とかサタンとか呼ばれる者の子孫」のことであります。しかし、堕落した天使である悪魔は、めとることも、嫁ぐこともないので、「お前の子孫」とは世代を越えて働く悪霊たちと理解するのがよいと思います。また、「女の子孫」とは、女から生まれてくる全人類を指します。20節に、「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである」と書いてあるとおりです。神様は、蛇の子孫である悪霊と女の子孫である全人類の間に敵意を置かれました。そして、さらには神様は女の子孫が悪魔に勝利することを宣言されるのです。「彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」。ここでは「頭」と「かかと」が対照的に記されています。彼はかかとを砕かれるという傷を負いますけれども、蛇である悪魔の頭を砕くという決定的な勝利をおさめるのです。神様は蛇に向かって語っておりますけれども、この言葉は男と女に聞かせるための言葉でもありました。男と女は、神様の蛇に対する呪い、蛇と女、蛇の子孫と女の子孫の間に置かれた敵意、さらには女の子孫が蛇の頭を砕くという勝利の約束を聞くことにより、もう一度神様に従って生きる者とされたのです。

 15節は、キリスト教会の歴史において、最初の福音、原福音と呼ばれてきました。確かに、15節は神様の最初の救いの約束という意味で、原福音と呼ぶことができます。しかし、このところをすぐイエス・キリストと結びつけて読むのは短絡的と言えます。ここで神様から示されたことは、女の子孫である全人類の中から悪魔の頭を砕く者が生まれるということであります。それがやがて、アブラハムの子孫であるイスラエルとなり、イスラエルの中のユダ族となり、ユダ族の中のダビデの家と狭まっていくわけです。神の救いの歴史である救済史の進展に伴い、焦点が絞られていくわけであります。そして最終的に、この神様の約束、「彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」という言葉はイエス・キリストにおいて実現したのです。新約聖書のヘブライ人への手紙第2章14節、15節にこう記されています。

 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態になった者たちを解放なさるためでした。

 またヨハネの手紙一の第3章7節、8節にはこう記されています。

 子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。

 このように、聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、お生まれになったイエス・キリストこそ、悪魔の頭を砕く女の子孫であったのです。イエス・キリストは十字架に磔にされることにより、かかとを砕かれましたけれども、十字架の死によって悪魔の頭を砕かれたのです。それゆえ、イエス・キリストにあるすべての者は、悪魔に勝利することができるのです。ローマの信徒への手紙の第16章20節で、パウロはこのように記しています。

 平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。

 このように、私たちは女の子孫であるイエス・キリストにあって、悪魔に勝利する者であるのです。

 女の子孫が、啓示の歴史の進展によって、全人類から、アブラハムの子孫であるイスラエル、さらにはイスラエルの中のユダ族、さらにはユダ族の中のダビデの家と焦点が絞られていくことにより、蛇の子孫がだれであるかも明らかとされてゆきます。すなわち、世代を越えた悪霊から、その悪霊に従う者たち、具体的には神の民イスラエルを滅ぼそうとする異邦人へと、さらにはイエス・キリストを信じない者たちへと焦点が絞られていくのです。このような啓示の進展を踏まえて、私たちはイエス様のユダヤ人たちに対する言葉を読まなくてはなりません。イエス様はヨハネによる福音書の第8章43節、44節でこうおっしゃいました。

 わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。

 啓示の歴史の進展により、悪魔の頭を砕く女の子孫がイエス・キリストであることが示されました。そして同時に悪魔の子孫がイエス・キリストに敵対する者たちであることも示されたのです。

 ヨハネの黙示録は、世の終わりにおける年を経た蛇である巨大な竜と女の子孫との戦いを第12章で描いておりますが、その17節にこう記されています。 

 竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。

 このように、神の掟を守り、イエスの証しを守る者たちこそが女の子孫であるのです。それゆえ、悪魔はイエス・キリストを信じる者たちを滅ぼそうと今も戦いを挑んでくるのです。女を誘惑したように、与えられている神の恵みよりも与えられていないものに目を向けさせ、神の言葉は実現しない無力なものであるかのように私たちを誘惑するのです。そのようにして私たちの信仰を骨抜きにし、私たちをイエス・キリストのもとから引き離そうとするのです。

 イエス・キリストは十字架によって悪魔に勝利されました。しかし、今も悪魔は吠えたける獅子のように誰かを食いつくそうと探し回っています。それゆえ私たちは、「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」という御言葉が、イエス・キリストにおいて実現したこと、イエス・キリストを信じる者こそが救いにあずかる女の子孫であることを覚えて歩んでゆきたいと願います。

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