どこにいるのか 2011年8月21日(日曜 夕方の礼拝)

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どこにいるのか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 3章8節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」創世記 3章8節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 アダムと女が住むエデンの園には、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木が生えておりました。また、園の中央には命の木と善悪の知識の木が生えておりました。まだ女が造られる前、主なる神はアダムをエデンの園に連れてこう命じられました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。その後、神様はアダムに向き合う助ける者として、アダムのあばら骨の一部から女を造られました。アダムは女を見て、「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに男(イシュ)から取られたものだから」と喜びの声を挙げたのです。アダムと女は二人とも裸でありましたが、恥ずかしがりはしませんでした。何も隠すことのない裸の付き合いであったのです。けれども、そのアダムと女が自分が裸であることを知り、恥の感情を抱くようになります。それは神様によって禁じられていた善悪を知る木の実を食べることによってでありました。蛇は女を「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のようになる善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と言いました。確かに禁じられた木の実を食べることによって二人の目は開けましたけれども、そこで二人が知ったことは自分たちが賢くなったことではなくて、裸であったということであったのです。二人はいちじくの葉をつづり合わせて、腰を覆うものとしましたけれども、二人が互いに恥の感情を抱くようになったことは、人間と人間の関係に歪みが生じたことを象徴的に教えているのです。それでは、創造主である神様と人間との関係はどのように変わったのでしょうか?

 8節をお読みします。

 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえたので、アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れた。

 私たちが用いております新共同訳聖書は、8節の終わりを「園の木の間に隠れると、」と9節に続くように翻訳しておりますが、もとの言葉を見ますと、8節は一つの文であります。ですから、新改訳聖書は「園の木の間に身を隠した。」と訳しています。「その日」とは、「アダムと女が禁じられた木の実を食べた日」のことであります。「風の吹くころ」とは夕暮れ時のことで、その時間にイスラエルの人々は散歩をしたと言われます。そのことがここにも反映されているのかも知れません。「主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」とありますが、ここでは神様が人間の姿をとって歩まれているかのように記されています。しかし、主なる神様は目に見ることのできない霊であられますから、擬人法的な表現がされていると理解するのがよいと思います。主なる神様が、涼しくなった夕暮れ時に、園の中を行き巡ることは、おそらくいつもどおりのことであったと思います。しかし、アダムと女の行動はいつもどおりではありませんでした。その日、アダムと女は、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れたのです。「主なる神の顔」とは、これも擬人法的な表現で、「主なる神の臨在」を表します。いつもならば、アダムと女は主なる神様の御前に出て行きその交わり喜んだはずでありますが、その日は、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れたのです。

 9節をお読みします。

 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」

 新共同訳聖書は、「どこにいるのか」と翻訳していますが、元の言葉を見ますと、「あなたは、どこにいるのか」と記されています(新改訳聖書参照)。主なる神はアダムに「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけたのです。主なる神様はアダムの居場所が分からなかったので、このように呼びかけられたのではありません。人間は神様の御前に自分の身を隠すことなど不可能なことであります(詩編139:1~12参照)。では、なぜ、主なる神様はアダムに「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられたのでしょうか?それはアダム自身に、自分が今どのような状態にあるのかを考えさせるためでありました。また、アダムが主なる神様の御前に出て来るきっかけを与えるためであったのです。主なる神様は、御自分を避けて、身を隠すアダムに、「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけてくださるお方であるのです。

 10節をお読みします。

 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

 ここに、神の掟に背いて罪を犯した人間と神様の関係がそれまでとはまったく違ったものになってしまったことが言い表されています。アダムは神様を恐れるものとなってしまったのです。アダムはその理由を「わたしは裸ですから」と述べています。自分は裸なので、主なる神様の御前に出るのは恐ろしいというのです。しかし、これまでもアダムは裸でした。裸で主なる神様の御前に出て、主なる神様のとの交わりを楽しんでいたのです。それゆえ、主なる神様はこう言われたのです。

 11節をお読みします。

 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」。

 ここまで来ると、「裸」がただ衣服を付けていない状態を指すのではなくて、もっと深い意味を持っていることが分かります。すなわち、裸とは神様の御前に立ち、神様との交わりに生きるのにふさわしくないみすぼらしい状態を言うのです。アダムと女が禁じられた木の実を食べて知ったことは、神のようになるどころか、神の御前に立つこともはばかられるみすぼらしい者であるということでありました。人間はこれまで神様の御前に恥じることなく立つことができました。しかし、禁じられた木の実を食べ、目が開かれた今となっては、自分が神様の御前に立つにはあまりもみずぼらしい者であることを知ったのです。そして、その裸意識は、取って食べるなと命じられていた木の実を食べたという罪意識と一つのものであったのです。アダムが神様を恐れ、身を隠したのは、何よりも取って食べるなと命じられていた木の実を食べるという罪を犯したことによるのです。

 12節をお読みします。

 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

 ここでアダムが言っていることは、そのとおりであります。確かに女は、神様がアダムと共にいるようにしてくださいました。また、女が木から取って与えたのでアダムはその実を食べたのです。しかし、このアダムの言葉には自分の罪を悔い改める言葉がありません。このアダムの言葉は自己弁護の言葉であり、さらには責任転嫁の言葉であります。アダムは、女だけではなく、神様にさえ罪の責任をなすりつけようとするのです。ここには、「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」という花婿の喜びはもはやありません。また、ふさわしい助け手を与えてくださった神様のへの感謝もありません。アダムは、「あなたがわたしを女と共にさえしなければ、わたしは食べなかったのに」と言って、責任を転嫁し、自分を正当化しようとするのです。

 13節をお読みします。

 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

 主なる神様は女に向かって、「何ということをしたのか」と言いましたけれども、これは女がアダムの助ける者であったことと関係していると思われます。アダムを助ける者である女が、ここでは禁じられた木の実を食べることを助ける者となってしまったのです。それは主なる神様の御心とはまったく逆のことであったのです。ここでの女の言葉もそのとおりであります。女は蛇にだまされて、食べてしまったのです。しかし、ここでも女は自分のしたことに対する悔い改めの言葉はありません。女は「蛇」に責任転嫁するわけです。この蛇は「主なる神が造られた野の生き物」の一つでありましたから、ここでも間接的に主なる神様にも責任を転嫁していると読むことができます。

 「あなたがたわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」というアダムの言葉も、また、「蛇がだましたので、食べてしまいました」という女の言葉も、ウソではなく、事実をそのまま告げております。しかし、肝心なことが抜けているのではないでしょうか?それは、アダムは直接神様から、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と命じられていたことです。また、女も、細かいところは不確かでありましたが、「園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない」と神様が言われていたことを知っていたのです。ですから、禁じられていた木の実を食べる過程がどのようなものであれ、二人は主なる神様の命令に背くという罪を犯したということです。そうであれば、罪を詫びて赦しを乞うのが当然ではないでしょうか?しかし、アダムとエバは罪を詫び、赦しをこうことはしませんでした。彼らの言葉は自己弁護と責任転嫁だけであったのです。そして、ここに罪に堕ちてしまった人間の姿があるのです。罪人の罪人たる所以は何か?それは自分の罪が分からないということです。食べるなと命じられた木の実を食べたという罪を犯しながら、それを罪として嘆き悲しむことはできない。むしろ、罪を犯しながら、自分は悪くないと考えてしまうのです。ですから、アダムと女は自己弁護でも責任転嫁でもなく、本気でそう思っていたのではないでしょうか?彼らは自分たちこそ、被害者であると本気で考えていたと思います。そのような人間が、神様の御前に罪を告白し、赦しを乞うて生きることできるならば、それは奇跡であります。私たちが神様の御前に自分の罪を告白し、赦しを乞うて歩んでいることは、これはイエス・キリストの聖霊による神の御業によるものなのです。イエス・キリストは全人類の罪のために十字架にかかって死んでくださり、そして、信じる者たちに正しい者とするために三日目に復活してくださいました。このイエス・キリストにあって、私たちは自分の罪を告白し、赦しを願い求めて歩む者とされたのです。アダムの子孫である私たちは本来神様の御前に立つことのできないみすぼらしい者、罪に汚れた者でありますけれども、主イエス・キリストの贖いのゆえに、喜んで神様の御前に生きる者たちとされているのです。

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