男と女 2011年8月07日(日曜 夕方の礼拝)

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男と女

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 2章18節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。創世記 2章18節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は創世記の第2章18節から25節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 18節をお読みします。

 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

 これまで聖書はつくられた世界が「良い」ことを語ってきましたが(1:31参照)、ここでは「良くない」ことが語られています。それはアダムが独りでいることであります。主なる神は、アダムをエデンの園に住まわせ、耕し、守るようにされました。また、善悪の知識の木を除いたすべての木から取って食べることを命じられました。しかし、このときアダムは独りでした。神様はそのアダムを見て、「人が独りでいるのは良くない」と言われたのです。それは神様が人を交わりに生きる者として造られたからであります。人は共同体に生きる者として造られたのです。第1章27節に、「神は御自分にかたどって人を創造された」とありましたが、人は三位一体の神のかたちに似せて創造されたのです。それゆえ、神様は「彼に合う助ける者を造ろう」と言われるのです。ここで「彼に合う」と訳されているヘブライ語は、「彼の前に立つ者」「彼に向き合う者」と訳すことができます。神様はアダムの前に立つ、アダムに向き合う対等な助ける者を造ろうと言われたのです。

 19節から20節までをお読みします。

 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

 神様は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来ました。神様は人を土で形づくられたように、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥をも土で形づくりました。しかし、神様は人の鼻に命の息を吹き入れられましたが、獣や鳥についてはそのことが記されていません。人は神の息吹によって生きる特別な被造物なのです。この第2章の記述は、第1章の記述と矛盾するように思えます。第1章では人間が創造の冠として、一番最後に創造されました。けれども、第2章では、人間が先に創造されて、その助ける者として動物が創造されるのです。これは前回も申しましたように、第1章と第2章では用いている資料が異なるからです。第2章は、第2章独自の仕方で、人間中心に地の最初の状態を記しているのです。

 神様は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられました。第1章28節に、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とありましたが、これはその具体的な描写と言えます。なぜなら、古代オリエントにおいて、名前を付けることはその者を支配することであったからです。「人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった」とありますが、人は生き物に名を付けることによって、その生き物の特性を理解し、自分の生活へと組み込んだのです。実際、動物は人間にとって大きな助けとなりました。イスラエル人は畑を耕すのに、牛の助けを借り、荷物を運ぶのにロバの助けを借りたのです。しかし、アダムは自分の前に立つ、自分に向き合う助ける者を、家畜、空の鳥、野のあらゆる獣の中に見いだすことはできませんでした。アダムはたくさんの家畜や鳥や獣に囲まれながら、依然として独りであったのです。

 21節、22節をお読みします。

 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れてこられると、

 神様は、アダムを深い眠りに落とされました。そして、アダムが眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、そのあばら骨で女を造り上げられたのです。なぜ、あばら骨なのか?と疑問に思いますが、ある研究者は、あばら骨が体の上の方にだけあることを説明するためであったと記しています(フォンラート)。しかし、よく分かりません。神様はアダムのあばら骨の一部から建築家のように女を造り上げられたのです。そして、神様は眠りから目覚めたアダムのもとに、女を連れて行くのです。神様は花嫁を連れて行く介添え人のように、アダムのもとへ女を連れていくのです。

 23節をお読みします。

 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イッシュ)から取られたものだから」。 

 「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」。このアダムの言葉には、とうとう自分の前に立つ、自分に向き合う助ける者を見いだした喜びが溢れています。ある研究者は、この喜びを味あわせるために、神様は先ず野のあらゆる獣や空のあらゆる鳥を人のもとへ連れて行ったと述べています。そのようにして、神様はアダムが自分に向き合う助ける者を迎え入れる準備をさせられたと言うのです。イスラエルでは、自分の身内の者を「骨肉」と言い表しました。第29章4節で、ヤコブを迎え入れたラバンはこう言います。「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ」。ですから、「わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」というアダムの言葉は、骨肉の者の最上級、最も近い者を言い表すわけです。そして事実、神様はアダムから抜き取った骨で女を造り上げられたのです。「これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから」。ここにはヘブライ語の語呂遊びがあります。アダムは神様が連れて来られた自分に向き合う助ける者を、女(イシャー)と名付けました。それは男(イシュ)から取られたものだからと言うのです。これによって男と女の共通性の中にある相違性が見事に言い表されています。しかし、アダムは深く眠り込んだのに、自分の前に立つ助ける者が男から取られたことをいつ知ったのでしょうか?ここには記されておりませんが、神様に教えていただいたのでしょうか?そうかも知れませんが、わたしはおそらく、神様が連れてきた女を見たとき、そのことが分かったのではないでしょうか?それほど、女はアダムとそっくりな者であり、アダムの前に立って、彼の存在自体を映し出す、彼にふさわしい助ける者であったのです。

 24節をお読みします。

 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

 ここには後の時代の編集者の言葉が記されています。つまり、このアダムと女の記事から結婚の由来について説明しているのです。「二人は一体となる」とは、元の言葉を直訳すると「一つの肉となる」でありますが、これは肉体的な結び付きだけではなくて、「いかなるときも生活を共にすること」を表しています。まさしく二人は一つの命となるのです。このところから結婚は堕落前に神様によって定められた神的な制度であることが分かります。そして、それは主イエス・キリストのご理解でもありました。マタイによる福音書の第19章3節から6節までをお読みします。

 ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女にお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

 このように、夫婦とは神様が結び合わせてくださったものであり、妻は夫に向き合う助ける者であり、夫は妻に向き合う助ける者であるのです。今、すでに結婚している夫婦は、そのことを信じることが求められています。あなたの夫、あるいはあなたの妻は、神様が介添え人のように、あなたのもとに連れて来てくださった、あなたにふさわしい助ける者であります。そのことを覚えて、神様に感謝をささげていただきたいと願います。また、まだ結婚されていない方は、自分にふさわしい助ける者が与えられるように、祈り求めていただきたいと願います。また、独身の方も、教会が神の家族であることを覚えて、神様が備えてくださった豊かな交わりに生きていただきたいと願います。「人は独りでいるのは良くない」と言われた神様は、イエス・キリストにあって、御自分を父とする神の家族の交わりに私たちを生かしてくださるのです。

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