安息日の祝福 2011年7月10日(日曜 夕方の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

安息日の祝福

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 2章1節~4節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 天地万物は完成された。
2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
2:4 これが天地創造の由来である。創世記 2章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は、第七の日について御一緒に学びたいと思います。

 第2章1節に、「天地万物は完成された」と記されています。神様は第六の日に、御自分のかたちに似せて人をお造りになり、被造世界の支配をおゆだねになりました。第1章31節には、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と記されておりました。ですから、第六の日に、「天地万物は完成された」のです。しかし、聖書は第七の日について言及し、第七の日に、神は御自分の仕事を完成されたと記すのです。

 2節をお読みします。

 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。

 ここでの神様の「御自分の仕事」とは、3節にありますように「創造の仕事」のことであります。神様の御業は創造と摂理の二つに大きく分けることができますが、第七の日に、神様は創造の御業を完成されたのです。聖書はなぜ第七の日に、神は御自分の仕事を完成されたと記すのでしょうか?ある注解書に次のような言葉が記されておりました。「創造の御業自体は六日で終了したが、創造の秩序は七日目の安息をもって完成する」。六つの日に渡って、天地万物を完成された神様は、第七の日の安息をもって、創造の仕事を完成されたのです。第七の日に、神様が御自分の仕事を離れ、安息なさったことは、創造の仕事を完成されたことを表す積極的な意味を持っているのです。ここで「安息なさった」と訳されているヘブライ語はシャバットという言葉です。シャバットは「止める」という意味も持ちます。神様はすべてのものを極めて良く造られたがゆえに、仕事を止められたのです。途中で止められたのではなくて、極めてよく完成されたがゆえに、神様は御自分の仕事を離れ、安息なさったのでありました。

 3節をお読みします。

 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を祝福し、聖別された。

 神様はこれまで、海の生き物と空の鳥を祝福されました(1:22)。また人間を、男と女を祝福されました(1:28)。そして、ここでは第七の日を祝福されるのです。第七の日は、神様によって祝福の日とされたのです。さらに神様は、第七の日を聖別されました。聖別するとは、神様のために取り分けることを意味します。神様は第七日を特別に御自分の日として聖別されたのです。神様がすべての創造の仕事を離れ、安息なさった第七の日は、祝福の日であり、神様の日であるのです。そして第七の日の祝福と聖別をもって、聖書は「これが天地創造の由来である」と記すのであります。この4節で、「由来」と訳されているヘブライ語はトーレドートという言葉です。トーレドートは「系図」とも訳され、創世記を記すのに用いられた資料を表す見出しと考えられています。例えば第5章1節に、「これはアダムの系図の書である」と記されています。創世記の著者は、「アダムの系図の書」を資料として用いているわけです。通常、トーレドートは、最初に来るのですが、第1章1節は「初めに、神は天地を創造された」という厳かな宣言で記されておりますので、ここでは例外として、最後に記されたと考えられています。創世記の著者は、イスラエルにおいて長い年月を掛けて形成されていった資料を用いて、天地創造の由来を記したのです。ここで、ドイツの旧約聖書学者であるゲルハルト・フォン・ラートの言葉をご紹介したいと思います。フォン・ラートは彼の注解書の中で次のように述べています。

 神の世界創造についてのこのテキストは、われわれが普通用いるような意味での著者を持たない。それは、その本質について見れば、神話でも伝説でもなく、祭司的な教理、すなわち、太古から伝わる聖なる知識なのであり、多くの世代の祭司の手によって保存され、伝達され、繰り返し新たに考えられ、教えられ、作り直され、信仰の新しい省察や体験によって、このうえなく慎重かつ集約的な仕方で拡大されてきたものなのである。これらの三十五節を書き上げるために、イスラエルの信仰は何百年間もかけて集められた熟慮を必要とした。古代イスラエルにおいて、このような宇宙論的・神学的知識は、諸聖所で管理・育成された。今日われわれが見るようなその最終形態が出来上がったのが、ようやく捕囚時代であるにしても、その根と端緒は、最古のヤハウェの共同体の母体の中に隠されているにちがいない。

フォン・ラートによれば、「天地創造のトーレドート」は何百年に渡るイスラエルの祭司たちの神学的熟慮によって育成されたものであるのです。 

 創世記は、神様が六つの日にわたって、すべてのものをお造りになり、第七の日に御自分の仕事を完成され、安息なさったと記しておりますが、これは私たち人間が見倣うべき模範としての意味をもつのです。人間は神様のかたちに似せて造られたがゆえに、安息なさった神様に倣うことが求められるのです。このことがはっきりと語られるのが、イスラエルの民がシナイ山で与えられた十戒においてであります。出エジプト記の第20章8節から11節までをお読みします。

 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

 なぜ、神様は第七日目に休まれたのでしょうか?お疲れになったからでしょうか?もちろんそうではありません。では、なぜ神様は仕事を離れて休まれたのか?それは私たち人間が安息し、私たちが神様の日の祝福にあずかるためであります。神様は私たちに安息日を祝福として与えられたのです。神様は第七の日に安息することにより、私たち人間を御自分の安息へと招かれるのです。古代教父のアウグスティヌスは、著書『告白』の中で、「あなたは私たちを、御自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」と言っておりますが、私たちは安息日に神様を礼拝することによって、まことの安息を得ることができるのです。六日の間、さまざまなことに追い立てられ忙しくしていても、第七日は神様の日として、神様を礼拝し、神様の祝福にあずかることができるのです。

 第七の日は、今で言えば週の最後の日である土曜日であります。ユダヤ教では土曜日を安息日として守っておりますが、私たちは、土曜日ではなく、日曜日をキリスト教安息日として守っております。私たちの教会が採用しているウェストミンスター信仰基準は小教理問答の問59で次のように告白しています。

 問59 七日のうちどの日を、神は週ごとの安息日と指定されましたか。

 答 神は、世の初めからキリストの復活までは、週の第七日を週ごとの安息日と指定されました。そして、キリストの復活からは、週の第一日を世の終わりまで指摘されました。これがキリスト教安息日です。

 教会が週の初めの日である日曜日に礼拝を守るようになったのは、主イエス・キリストが週の初めの日に復活され、弟子たちに現れてくださったからでありました。もちろん、当時、日曜日は休みの日ではありませんでした。日曜日が休みとなったのは、キリスト教がローマ帝国において国教になった4世紀からです。ですから、初代教会のキリスト者たちは、仕事が始まる前の朝早く、あるいは仕事を終えた夜に集まって礼拝をささげていのです。そして、その礼拝において、彼らは主イエス・キリストの安息にあずかったのです。肉体的には疲れていたはずでありますけれども、彼らは主の日の礼拝において、主の安息にあずかったのであります。

 現代の日本においてもカレンダーでは日曜日が休日となっておりますが、必ずしも、日曜日は休みであるわけではありません。日曜日にも働かなければならないという人もおられます。そのような人をも、主はわたしの安息にあずかりなさいと招いておられるのです。その主の安息をいかにして提供することができるか?これは私たちの教会に託された課題であると思います。先月から夕べの礼拝を始めましたけれども、この夕べの礼拝もそのための一つの試みであると言えるのです。 

 最後に、第七の日にだけ「夕べがあり、朝があった」という言葉が記されていないことに言及しておきたいと思います。第七の日はまだ終わっていない。すべての人がイエス・キリストにあってこの神様の安息にあずかることができるのです(ヘブライ人への手紙4:1~11参照)。主イエス・キリストを信じる私たちが週の初めの日に神様を礼拝していることはこのことを表しているとも言えます。私たちは安息日を目指して一週間を歩むのではなくて、安息日から一週間を歩み出します。それは私たちが主イエス・キリストにおいて神の安息にあずかっていることを示しているのです。イエス様は、マルコによる福音書第2章28節で、「人の子は安息日の主である」と言いましたけれども、私たちは安息日の主であるイエス・キリストにおいて安息にあずかるのです。そのような意味で、私たちにとって主の日は安息日であると言えるのです(コロサイ2:16、17参照)。

関連する説教を探す関連する説教を探す