天と地と海の創造 2011年6月19日(日曜 夕方の礼拝)

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天と地と海の創造

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 1章6節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
1:8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
1:9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
1:11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
1:13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。創世記 1章6節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 前回は天地創造の第一の日について学びましたが、今夕は第二の日、第三の日の神様の創造の御業について学びたいと思います。

 6節、7節をお読みします。

 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。

 神様の創造の御業を「無からの創造」と言いますが、神様は何もないところから、天地を創造されました。私たちは何かを造るとき材料を用いて造りますけれども、神様は何もないところから天地を創造されたのであります。神様は存在していないものを呼びだして存在させるお方であるのです(ローマ4:17参照)。そのような神様の「無からの創造」については、1節に記されておりました。「はじめに神は天地を創造された」。神様は時間と共に、時間の中に天地を創造なされたのです。しかし、地はとても人が住むことのできない、無秩序な、混沌とした状態であったのです。そこで、神様は「光あれ」と言われまして、「光」をあらしめました。神様は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれました。神様は光を創造されたことにより、地の深淵の面にあった闇をやがて明ける夜とされたのです。神様は光を昼と呼び、闇を夜と呼ぶことにより、時間を秩序づけられたのです。神様が、光を昼と呼ばれたこと、また闇を夜と呼ばれたことは、昼と夜の交代という秩序が神様によって定められたことを教えております。私たちは昼と夜が当たり前のように来ると考えてしまいますが、それは神様が光を創造し、光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれたゆえであるのです。それゆえ、私たちは時を、「夕べがあり、朝があった。第一の日である」と数えることができるようになったのです。

 このように、第一の日から第六の日までの神様の創造の御業は、神様が無から創造された天地を秩序立てて、そこに生き物を満たしていく御業であるのです。神様が無から天地を造られたことだけが、神様の創造の御業なのではなくて、その天地を秩序立てて、そこに生き物を満たしていくことも創造の御業であるのです。それゆえ、聖書は第六の日を終えた第2章1節で、「天地万物は完成された」と記すのです。 先程は6節、7節をお読みしましたが、ここでは神様は「水の中に大空あれ。水と水とを分けよ」と言われました。「水の中」とありますが、これは地が濃い霧、水蒸気で覆われていたのではないかと思われます(二ペトロ3:5参照)。神様が光を創造されたゆえに、地を濃い霧、水蒸気が覆っていたのかも知れません。神様はそのような「水の中」に、「大空あれ」と言われたのです。ここで大空と訳されている言葉(ラキアー)の元々は「打ちたたいて延ばした金属の板」を意味します。これは古代のイスラエル人の世界像によるものと思われます。例えばヨブ記の第37章18節にはこう記されています。「鋳て造った鏡のような堅い大空を/あなたは、神と共に/固めることができるとでもいうのか」。天地創造の記事は、古代のイスラエル人の世界像に従って記されております。古代のイスラエル人は、どうも空を金属板を延ばして敷き詰められた丸天井、ドームのように考えていたようでありますね。もちろん、これは自然科学の知識を持つ現代の私たちとは異なる世界像でありますけれども、私たちはそのことを弁えたうえで、聖書が教える世界観を聞き取らなければならないわけです。私たちは古代イスラエル人と同じ世界像を持つ必要はありませんけれども、古代イスラエル人と同じ世界観を持つ必要があるのです。それはすなわち、神様が天地万物を創造されたという有神的世界観であります。「水の中に大空あれ」と言われた神様は、「水と水とを分けよ」と言われました。神様は大空を造り、大空の下と上に水を分けさせられたのです。そして、神様は大空を「天」と呼ばれました。なぜ、天から雨が降ってくるのだろうか?それは天のうえに水が蓄えられているからだと古代のイスラエル人は考えたわけであります(7:11参照)。このようにして、混沌であった地に上と下の区別、垂直の区別が付けられ、空間が生まれました。神様が大空を天と呼ばれたことは、天と地という空間の秩序が神様によって定められたことを教えています。このようにして第二の日の神様の創造の御業はなされたのです。

 9節、10節をお読みします。

 神は言われた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。

 第三の日でありますが、神様は「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ」と言われました。地を覆っていた濃い霧、水蒸気が大空によって、上と下に分けられたのでありますが、ここではその天の下の水を一つに集めることによって、水平的な空間の区別、こちらとあちらの空間の区別がつけられるわけです。神様は、乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれました。このことも、地と海との区別、水平的な空間の区別は神様によって定められたことを教えています。「神はこれを見て、良しとされた」とありますけれども、これは第二の日には記されておりませんでした。なぜ記されていないのかと言えば、空間を秩序づけるという第二の日の御業は、第三の日に完成されるからです。第一の日に時に秩序を定められた神様は、第二の日と第三の日に渡って、空間に秩序を定められました。私たちは時間と空間という枠組みの中で生かされておりますけれども、私たちが生きている枠組みである時間と空間はこのようにして神様が定めてくださったのです。 

 第三の日の創造の御業はこれだけで終わりませんでした。11節から13節までをお読みします。

 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。

 乾いた所を地と呼ばれた神様は、「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」と言われました。不毛であった地に、神様は植物を生えさせるよう言われるのです。ここでの創造の御業は明らかに無からの創造ではありません。神様は地を用いて、植物を芽生えさせられるのです。それもここでは「種を持つ草」と「それぞれの種を持つ実をつける果樹」とありますように、「種」がありますから、一度造られれば、自然と増えていくわけです。このように神様の創造の御業は自然と矛盾するものではなく、自然を用いて為されるのです。私たちが自然と呼ぶものは神様がそのように造られたからであるわけです。このようにして荒廃していた地が緑で覆われて行きました。そして、神様は後にこの青草を人の、さらにはすべての命あるものの食物となされるのです(1:29,30参照)。

 前回と今回に渡って、私たちは第一の日から第三の日までの創造の御業を学んできましたけれども、そこで神様がなされたことは「分ける」ということでありました。第一の日に、神様は光と闇を分けられました。第二の日に、神様は水と水を分けられました。第三の日に水を集めて乾いた所を現し、陸と海を分けられたわけです。また、第三の日には、命あるものの食物として与えられる植物を地から芽生えさせられました。続く第四の日から第六の日までには命あるものが造られるわけでありますけれども、その準備がこのようにしてちゃくちゃくと整えられているわけです。

 今回の説教を準備をしておりまして、ある研究者の言葉がわたしの心に留まりました。それは次のような言葉です。「これによって著者は、創造がどのように行われたかを図解しようとしているのではない。そのようなことは、彼に不可能であった。むしろ彼は聴衆に対し、現にある世界全体を、神の被造物として今日なお神の手のうちに保持されている一つの全体として理解させようとしているのである」。

 これはドイツの旧約学者であるクラウス・ヴェスターマンの言葉でありますが、大変示唆に富んだものであります。「創世記の著者は、創造がどのように行われたかを図解しようとしているのではない。そうではなくて、現にある世界全体、私たちが目にしている世界全体を、神の被造物として今日なお神の御手のうちに保持されている一つの全体として理解させようとしたのである」とヴェスターマンは言うのです。もちろん、その際、著者は当時の世界像、紀元前6世紀のイスラエル人が共有していた世界像を用いて記したはずです。また、語り継がれてきた口頭伝承や資料を用いて天地創造について記したはずであります。このヴェスターマンの指摘は、私たちに、もはや見ることのできない太古の世界ではなくて、現に目にしているこの世界が神の偉大さを物語る作品であることを教えてくれます。私たちは時間の秩序や空間の秩序を持つ神の作品である天と地と海によって、神様の御手の業を仰ぐことができるのです。また、地に生い茂る種をもった草花や果樹を通して、私たち人間に対する神様の愛のこもった御配慮を見ることができるのです。

 

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