モーセのとりなし 2017年12月10日(日曜 朝の礼拝)

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モーセのとりなし

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 32章15節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

32:15 モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。
32:16 その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。
32:17 ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、
32:18 モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも/敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」
32:19 宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。
32:20 そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。
32:21 モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、
32:22 アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。
32:23 彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、
32:24 わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」
32:25 モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、
32:26 宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、
32:27 彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。
32:28 レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。
32:29 モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」
32:30 翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。」
32:31 モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。
32:32 今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」
32:33 主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。
32:34 しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」
32:35 主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。

出エジプト記 32章15節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イスラエルの民が、モーセの帰りを待ちきれずに、金の子牛の像を造って、礼拝したことを学びました。古代オリエントにおいて、若い雄牛は力と豊かさを表し、しばしば、神々が若い雄牛によって表されました。また、古代オリエントの遺跡から、若い雄牛の上に立つ人の形の神々の像も発掘されています。若い雄牛の像は、神々の立つ玉座でもあったのです。おそらく、アロンは、見えない神の臨在を表す玉座として、金の子牛を造ったのだと思います。しかし、それは神様の掟に背くことでした。神様は、イスラエルの民にこう告げておられたからです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない」(出エジプト20:1~4)。イスラエルの民は、神様の栄光を金の子牛の像にささげました。それは、神様が厳しく禁じておられた偶像崇拝の罪であったのです。このようなイスラエルの民を神様は、24章で結ばれた血の契約に基づいて、滅ぼし尽くすと言われたのです。モーセは、神様の聖なる御名と約束に対する真実に訴えて、イスラエルの民にくだす災いを思い直すようなだめました。そして、神様は、御自分の聖なる御名のゆえに、また御自分の真実のゆえに、イスラエルの民にくだす災いを思い直されたのです。ここまでは、前回学んだことの振り返りであります。今朝は、その続き、15節以下をご一緒に学びたいと思います。

 主(ヤハウェ)に、災いをくだすことを思い直していただいたモーセは、身を翻して、シナイ山を下りました。そのとき彼の手には二枚の掟の板がありました。この二枚の掟の板は、石でできており、その両面に、表にも裏にも文字が書かれておりました。その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に刻み込まれておりました。この二枚の石の板には、20章で主がイスラエルの民に告げられた十の言葉、十戒が記されていたと考えられております。17節に、ヨシュアの名前が記されています。ヨシュアは、後にモーセの後継者として、イスラエルの民をカナンの地に導き入れる人物であります。ヨシュアはモーセの従者として、山のふもとでモーセを待っていたのです(24:3参照)。このことは、ヨシュアが金の子牛の罪と関わりがないことを教えています。ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、モーセはこう言いました。「これは勝利の叫び声でも/敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ」。モーセは、山の上で、主から、イスラエルの民がしていることを聞いていたのです。宿営に近づくと、モーセは若い雄牛とその周りでイスラエルの人々が踊っている姿を見ました。主から聞いていたことを目の当たりにして、モーセは激しく怒りました。それは手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕くほどであったのです。掟の板が砕かれたこと、それは、神様と結ばれた契約が無効とされたことを意味しております。山の上で、神様の怒りをなだめたモーセでありましたが、ここではモーセ自身が激しく怒ったのです。

 激しく怒ったモーセは、イスラエルの民が造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませました。このことから、私たちはモーセの怒りが聖なる怒りであったことが分かります。雄牛の像を粉々に砕いたものを水の上にまき散らせて、イスラエルの人々に飲ませたとありますが、これはよく分かりません。一つの解釈は、民数記5章に記されている姦淫の疑惑を持たれた妻が飲まされた苦い水を指すという解釈です(民数5:11~29参照)。偶像崇拝は、主に対する霊的な姦淫と見なされました。その偶像崇拝の罪を犯した者が誰であるかを明らかにするために、モーセは、イスラエルの人々に、偶像の破片の入った水を飲ませたと考えることができるのです。

 モーセはアロンにこう言いました。「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」。アロンはこう言いました。「わたしの主(アドナイ)よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです」。山の上で、モーセは主の怒りをなだめましたが、ここでは、アロンがモーセの怒りをなだめております。しかし、これはまったく違うことだと思うのですね。モーセは金の子牛の罪には一切関わっておりません。そのような者として、神様の怒りをなだめたわけです。しかし、アロンは、イスラエルの民に罪を犯させた責任者であります。アロンは、「この民が悪いことはあなたもご存じです」と、罪の責任をイスラエルの民に転嫁します。また、「わたしが金を火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです」と、自分が金の子牛を造ったのではなく、あたかも、自ずとできあがったかのように語るのです(創世3:12、13参照)。

 モーセは、イスラエルの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手な振る舞いをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見て、宿営の入り口に立ってこう言いました。「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」。ここでの「主」は「ヤハウェ」のことです。「ヤハウェ」とは、3章において、モーセに示された神様のお名前であります。「わたしはある、わたしはあると言う者だ」。そのように神様は、御自分のお名前が主、ヤハウェであることを示されたのです。そして、この御方こそ、イスラエルの民をエジプトから導き出して、シナイ山で、十戒を与え、契約を結ばれた神であるのです。「ヤハウェに属する者は、わたしのもとに集まれ」。この呼びかけに応えて、レビの子らが全員、モーセのもとに集まりました。モーセもレビ族出身でありますから、レビの子らは、金の子牛を拝まず、モーセを待ち続けていたのだと思います(2:1参照)。レビの子らも、金の子牛の罪を犯さなかったのです。モーセは彼らに、こう命じます。「イスラエルの神、主はこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」。主は、イスラエルの民全体を滅ぼし尽くすことは思い直されました。しかし、主はモーセが帰って来た後も、金の子牛を拝もうとする者たちを滅ぼされるのです。レビの子らは、モーセの命じたとおりに行い、その日、民の内で、三千人が倒れたとあります。この三千人は、モーセが帰って来た後も、金の子牛の罪から離れなかった者たちであったのです。モーセは、レビの子らにこう言いました。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける」。自分の兄弟、友、隣人を殺すことは、したくないことであります。しかし、そのしたくないことを、レビの子らはしました。それは彼らが自分の兄弟、友、隣人よりも主を重んじたからであります。彼らは誰よりも主を重んじたのです。そして、それこそ、主に仕える祭司に必要なことでありました。このようにして、レビの子らは、主の祝福を受ける祭司職に任命されたのです。イエス・キリストの使徒パウロは、キリスト教会を神のイスラエルと呼んでおります(ガラテヤ6:16参照)。神のイスラエルであるキリストの教会で、偶像を拝む者、また、兄弟姉妹に偶像を拝むように誘惑する者が出て来たら、どうするのか?もちろん、教会は、その人の生命や財産に危害を加えるようなことはいたしません。教会訓練はあくまで霊的なものであります(『政治規準』第12条参照)。ですから、もし、そのような人がいたら、訓戒を受け、聖餐にあずかることの停止、あるいは職務の停止、さらには、教会の交わりから除外されることになります。それは神様との交わりから閉め出される霊的な死を、また、天の御国から閉め出される永遠の死を意味するわけです。

 また、イエス・キリストの使徒ペトロは、キリスト者は皆、聖なる祭司であると教えております(一ペトロ2:5参照)。それゆえ、私たちには、誰よりも主を重んじること、主を愛することが求められるのです。このことは、主イエスが、求められたことでもあります。主イエスは、一緒について来た大勢の群衆にこう言われました。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14:26参照)。ここでの「憎む」とは「より少なく愛する」ということです。つまり、弟子である私たちは、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹よりも、さらには自分の命よりも、イエス様を愛することが求められているのです。私たちは、自分を含めた誰よりもイエス様を愛する者として、イエス様の弟子とされ、また神様に仕える祭司とされているのです。

 翌日になって、モーセは民にこう言いました。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない」。モーセは、シナイ山の頂において、神様の怒りをなだめ、イスラエルの民に、災いをくだすことを思い直していただきました。しかし、イスラエルの罪を目の当たりにして、彼の思いに変化が生じたようです。モーセは、主がイスラエルの民を滅ぼし尽くすと言われたのも最もだと考えるようになったのです。それで、モーセは、イスラエルの民の罪を贖うために山に登るのです。モーセは主のもとに戻り、こう言いました。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・・・・・。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書(しょ)の中から消し去ってください」。ここで、モーセは、イスラエルの指導者として、民の罪を自らの罪としております。モーセ本人は、金の子牛の罪を犯してはいません。しかし、モーセは、イスラエルの罪を贖うために、自分の命を取ってくださいと願い出るのです。アロンは、民のせいにしましたが、モーセはすべての責任を引き受けて、自分の命を差し出すわけです。しかし、主はモーセにこう言われました。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する」。主は、「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る」とモーセの願いを退けられました。そして、モーセに、イスラエルの民をカナンの地へと導くよう命じられるのです。しかし、神様はイスラエルの民の罪を赦されたわけではありません。「わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する」と言われたように、保留されたのです。

 私たちは、このモーセの姿に、イエス・キリストの姿を見ることができます。なぜなら、イエス様は、私たちの罪をすべて担って、御自分の命を捨ててくださったからです。神様は、イエス様の命を全世界の罪を償ういけにえとして、受け入れてくださいました。神様は、モーセの願いを退けられましたが、それは、モーセの願いが不可能な願いであったからです。なぜなら、モーセも罪人であるからです。2章を見ますと、成人したモーセが、エジプト人を打ち殺して、死体を砂で埋めたことが記されています。そのような罪人であるモーセは、自分の命で、イスラエルの人々の命を贖うことはできないのです。また、もしモーセに罪がなかったとしても、彼一人の命で多くの人の命を贖うことはできません。それができるのは、まことの正しい人であり、まことの神であるイエス・キリストだけであるのです。私たちも神様に背いて、罰を受けねばならない罪人であります。しかし、その私たちの罪をイエス様は、御自分の命をもって贖ってくださいました。イエス様が、私たちの罪を担って十字架の死を死んでくださり、復活してくださったゆえに、私たちは裁きの日にも平安でいることができるのです。そればかりか、私たちは、裁きの日に、公に正しい者と宣言され、受け入れられるのです。そして、それが主の御心であるのです。神様は、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じる人を、御自分の民としてくださり、天の御国に導き入れてくださるのです。イエス・キリストを信じる私たちの名は天国の住民登録簿に記されているのです。私たちの名前が天に書き記されている。そのことを私たちは、何よりの喜びとしたいと願います(ルカ10:20参照)。

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