金の子牛 2017年12月03日(日曜 朝の礼拝)

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金の子牛

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 32章1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

32:1 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、
32:2 アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」
32:3 民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。
32:4 彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。
32:6 彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。
32:7 主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、
32:8 早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」
32:9 主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。
32:10 今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」
32:11 モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。
32:12 どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。
32:13 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」
32:14 主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。出エジプト記 32章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 先週で、ローマの信徒への手紙を学びを終えました。来年からは、ヘブライ人への手紙を学びたいと願っております。それまでの間、何回かに渡って、出エジプト記から説教したいと思います。実は、夕べの礼拝において、出エジプト記を、25章まで学びました。そのこともあって、何回かに渡って、出エジプト記を学びたいと考えた次第であります。

 1節から6節には、イスラエルが金の子牛を造って、礼拝したことが記されています。モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、イスラエルの民がアロンのもとに集まって来て、こう言いました。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」。モーセがシナイ山に上ったことは、24章15節から17節に記されておりました。「モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。主の栄光はイスラエルの人々には、山の頂で燃える火のように見えた。モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた」。ここに、モーセが山に、四十日いたと記されています。イスラエルの民は、モーセがシナイ山に上って、1ヶ月以上経っても、下りて来ないので、モーセが死んでしまったのではないかと考えたのです。神様は、モーセを通して、イスラエルの民に語りかけてこられました。ですから、彼らにとって、モーセを失うことは、神様を失うことと等しいことであったのです。それで、彼らは、「我々に先立って進む神々を造ってください」とアロンに言ったのです。新共同訳聖書は、翻訳していませんが、元の言葉では、「私たちのために」という言葉が記されています。「私たちに先立って進む神々を、私たちのために造ってください」と記されているのです。この願いは、十の言葉の第二戒に背くものであります。19章に、イスラエルの人々がシナイ山に着いたこと。そして、20章に、神様から十の言葉、いわゆる十戒が与えられたことが記されています。その第二戒において、神様は、「あなたは、あなたのためにいかなる像も造ってはならない」と禁じておられました(新共同訳聖書は、ここでも「あなたのために」という言葉を翻訳していない)。神様は、像を造って御自分を礼拝することを禁じられたのです。なぜなら、像を用いる礼拝は、結局は自分のための礼拝であるからですね。なぜ、人は像を用いて神を礼拝するのでしょうか?それは、像によって、神様の臨在を確保したいと考えるからです。もっと言えば、神様を自分の支配の下に置きたいと考えるからです。イスラエルの人々にとって、モーセが共にいることは、神様が、自分たちと共にいてくださることのしるしでありました。しかし、そのモーセが今はどうなったか分からない。それで、彼らは、神様が共におられることを確かめることができる、神々の像を造るよう、アロンに求めたのです。アロンは彼らにこう言いました。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい」。この金の耳輪は、かつてイスラエルがエジプトから脱出した際、エジプト人からぶんどった物であります(12:35参照)。神の民としての戦利品とも言える金の耳輪を、民は全員、アロンのところに持ってきました。アロンは、それを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳造を造ったのです。そして、彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言ったのです。若い雄牛の像については、二つの解釈があります。一つは、若い雄牛の像は神そのものを表すという解釈です。古代オリエントの世界において、若い雄牛は力と豊かさの象徴であり、神々はしばしば雄牛という称号を帯びていました。それゆえ、若い雄牛の像は、神そのものを表すと解釈するのです。もう一つの解釈は、若い雄牛の像は、神様が臨在される玉座であるという解釈であります。古代オリエントの遺跡から、牛の上に立つ人の形をした神の像が発掘されています。それゆえ、アロンが造った若い雄牛の像は、見えない神様の玉座であると解釈するのです(列王上12:28参照)。おそらく、アロンは、見えない神様の臨在を表す、玉座として、金の子牛を造ったのではないかと思います。しかし、それは、神様の目からすれば、金の子牛を拝んでいるのと同じであったのです。キリスト教会においても、礼拝堂の前に、十字架をかかげている教会があります。それは、十字架につけられたイエス・キリストを思い起こすためであると思いますが、危険な要素も持っているわけです。十字架を神の臨在のしるしと考えるならば、それは金の子牛の像と同じ罪を犯すことになるわけです。

 アロンは、金の子牛の像の前に祭壇を築き、「明日、主(ヤハウェ)の祭りを行う」と宣言しました(3;12、10:9参照)。ここで「主」と訳されいる言葉は、3章においてモーセに示された「ヤハウェ(YHWH)という御名前であります。ヤハウェは、「わたしはある」という意味でありました。主こそ、私たちと共におられる御方であるのです。ここでアロンは、主の御名前をみだりに唱えています。アロンは、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という第三の戒めをも破っているのです(20:7)。祭壇は、神様が御自分の名を呼ばせることを定められた場所に築かれるものであります(20:24の直訳「私が私の名を唱えさせるすべての場所で」参照)。しかし、アロンは、勝手に祭壇を築き、安息日でもない日に、主の祭りを行うと宣言したのです。主の祭りと言いながら、その場所、その時は、人間の意志によって決められております。このことからも分かりますように、彼らの行う祭りは、主のためではなく、自分たちのための祭りであるのです。彼らは、次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えました。そして、民は座って飲み食いし、立って戯れたのです。ここで「戯れた」と訳されている言葉は、性的な乱れを含む言葉であります(創世26:8「イサクが妻のリベカと戯れていた」参照)。彼らは、乱痴気騒ぎに興じたのでありました。このような有様は、異教の神々を拝む者たちと何の違いもありません。彼らがそこで求めていることは、神の栄光をあらわすことではなく、自分たちの欲望を満たすことであるのです。私たちは、主の日ごとに、礼拝をささげておりますが、その目的は、私たちの欲望を満たすことではなく、神様の栄光をほめたたえることであります。そして、そのためには、神様が定められた礼拝の仕方で、礼拝をささげる必要があるのです。神様が定められた礼拝とは、どのような礼拝でしょうか?第一にそれは、像を用いない礼拝ということであります。もっと積極的に言えば、霊と真理をもってささげる礼拝であるのです。主イエス・キリストは、ヨハネによる福音書の4章で、サマリアの女に次のように言われました。4章21節から24節までをお読みします。新約の169ページです。

 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っている者を礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。

 主イエスは、「神を礼拝する者は霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われました。「霊と真理をもって礼拝する」。これには、二つの解釈があります。一つは、「聖霊と真理である神の言葉をもって礼拝する」ということであります(ヨハネ17:17「あなたの御言葉は真理です」参照)。神様は、私たちに生きた神の言葉として、聖書を与えてくださいました。神様は、聖書の御言葉が読まれ、その説き明かしである説教が語られる場に聖霊において御臨在してくださるのです。また、「霊と真理をもって礼拝する」の二つの目の解釈は、「聖霊において、真理であるイエス・キリストを通して礼拝する」ということであります(ヨハネ14:6「わたしは道であり、真理であり、命である」参照)。私たちは神の霊である聖霊を与えられ、イエス・キリストを通して、主(ヤハウェ)を父として礼拝しているのです。目に見え、手で触れた像によってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、主なる神様が共にいてくださることを確認することができるのです(ヘブライ11:1参照)。

 では、今朝の御言葉に戻ります。旧約の147ページです。

 7節から14節では、お話の場面がシナイ山の頂に移っております。主(ヤハウェ)は、モーセにこう仰せになりました。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳造を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる」。ここで主は、モーセに、「あなたがエジプトの国から導き上ったあなたの民は堕落し」と言われています(新共同訳は「あなたの民」の「あなたの」を翻訳していない)。なぜなら、若い雄牛の鋳造を造り、それにひれ伏し、いけにえを献げる民は、もはや主の民と呼ぶことはできないからです。主は、19章5節、6節で、イスラエルの民について、こう言われておりました。「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」。そして、モーセからこの主の言葉を聞いた民は皆、一斉に、「わたしたちは、主が語られたことをすべて行います」と答えたのです(19:7参照)。そして、主は、そのイスラエルの民に、十の言葉(十戒)をお語りになったのです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない」と主は、イスラエルの民にお語りになったのです。その主の教えから、イスラエルの民は早くもそれて、若い雄牛の像を造り、神の栄光を偶像に帰する罪を犯したのでした。それゆえ、主は、イスラエルの民を「モーセがエジプトから導き出したモーセの民」と言われたのです。

 主(ヤハウェ)は更に、モーセにこう言われました。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする」。ここで、主は、イスラエルを滅ぼし尽くすと言われておりますが、これは、24章の契約に基づく発言であります。24章には、モーセを仲介者として、主とイスラエルの民が血の契約を結んだことが記されております。24章3節から8節までをお読みします。旧約の134ページです。

 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」。

 動物の血を振りかけて、契約を結ぶ。これは、契約を破ることがあれば、自分の血が流されてもかまわないことを誓うものであります(創世15:17、エレミヤ34:18参照)。そして、イスラエルの民は、早くもこの契約を破ったわけです。ですから、神様がイスラエルの民を滅ぼし尽くされたとしても、神様は正しかったと言えるのです。ちなみに、私たちの主であるイエス様は、御自分の血によって、新しい契約を結んでくださいました。イエス様は、主の晩餐の席において、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言われました(ルカ22:20)。イエス様は、御自分の十字架の血潮によって、私たちのために新しい契約を結んでくださったのです。私たちも神の掟を守ることができず、日ごとに罪を犯す者たちであります。しかし、私たちと神様の契約は、イエス様の十字架の血潮によって結ばれているゆえに、私たちには罪の赦しが約束されているのです。今朝は、この後、聖餐の恵みにあずかりますが、そのことを覚えて、パンとぶどう酒にあずかりたいと思います。

 では、今朝の御言葉に戻ります。旧約の147ページです。

 主のお怒りの言葉を聞いて、モーセはなだめてこう言いました。「主(ヤハウェ)よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうして、エジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいのでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民に下さす災いを思い直してください。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか」。主は、イスラエルの民を、「モーセがエジプトから導き出したモーセの民」と言われました。しかし、モーセは、イスラエルの民を、「主がエジプトから導き出した主の民である」と語ります。そして、神様の名声と約束に訴えて、イスラエルの民を滅ぼし尽くさないように説得するのです。このモーセの説得を受けて、主(ヤハウェ)は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直されたのです。すなわち、主は聖なる御名のゆえに、また、契約に対する真実のゆえに、イスラエルの民を滅ぼし尽くすことを思い直されたのです。そして、主はこれからも聖なる御名と御自分の真実のゆえに、イスラエルの民を御自分の民として導かれるのです(エゼキエル36:16〜28参照)。このことは、私たちにおいても同じことであります。私たちがイエス・キリストにあって神の民とされた背後には、主の御名に対する熱心と契約に対する真実があるのです。私たちの神の民としての歩みを支えているのは、主の御名に対する熱心と契約に対する真実であるのです。

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