御手に労苦と悩みをゆだねる人 2020年5月24日(日曜 朝の礼拝)

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御手に労苦と悩みをゆだねる人

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 10編1節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:1 主よ、なぜ遠く離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか。
10:2 貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて/その策略に陥ろうとしているのに。
10:3 神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。
10:4 神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。
10:5 あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い。彼の道はどのようなときにも力をもち/自分に反対する者に自分を誇示し
10:6 「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで/災いに遭うことはない」と心に思う。
10:7 口に呪い、詐欺、搾取を満たし/舌に災いと悪を隠す。
10:8 村はずれの物陰に待ち伏せし/不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺す。
10:9 茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ/貧しい人を捕えようと待ち伏せ/貧しい人を網に捕えて引いて行く。
10:10 不運な人はその手に陥り/倒れ、うずくまり
10:11 心に思う/「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。
10:12 立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。
10:13 なぜ、逆らう者は神を侮り/罰などはない、と心に思うのでしょう。
10:14 あなたは必ず御覧になって/御手に労苦と悩みをゆだねる人を/顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります。
10:15 逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き/彼の反逆を余すところなく罰してください。
10:16 主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。
10:17 主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け/その願いを聞き、彼らの心を確かにし
10:18 みなしごと虐げられている人のために/裁きをしてくださいます。この地に住む人は/再び脅かされることがないでしょう。

詩編 10編1節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、詩編第10編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。詩編第10編は、前回(3月22日)学んだ第9編とひと続きの詩編であると言われています。第9編も第10編も「アルファベットによる詩」、いわゆる「いろは歌」でありまして、ひと続きの詩編であるのです。そのことを念頭において、第10編を読み進めて行きたいと思います。

 1節と2節をお読みします。

 主よ、なぜ遠く離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか。貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて/その策略に陥ろうとしているのに。

 この詩編を記したダビデは、神さまを「主よ」と呼び、「なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」と嘆きます。「主」とは、その昔、神さまがホレブの山でモーセに示されたお名前であります(出エジプト3章参照)。主というお名前の意味は、「わたしはある」「わたしはいつもあなたと共にいる」という意味でありました。主というお名前には、「わたしはいつもあなたと共にいる」という約束が含まれているのです。けれども、主は共にいてくださらず、遠く離れておられる。また、苦難の時にこそ共にいてほしいのに、隠れておられるのです。そのようにしか、ダビデには思えないわけですね。なぜなら、貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられ、その策略に陥ろうとしているからです。「貧しい人」とは、神さまだけを拠り所として歩んでいる人です。神さまだけを頼りとしている貧しい人が神さまに逆らう悪人の傲慢によって、滅ぼされようとしている。そのような状況を見るとき、主が遠くに立っておられ、隠れておられるとしか、ダビデには思えないのです。

 3節から7節までをお読みします。

 神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い。彼の道はどのようなときにも力をもち/自分に反対する者に自分を誇示し「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで/災いに遭うことはない」と心に思う。口に呪い、詐欺、搾取を満たし/舌に災いと悪を隠す。

 ここには、悪しき者がどのような者であるかが記されています。新共同訳聖書は「神に逆らう者」と意訳していますが、元の言葉には「悪しき者」(ラシャア)と記されています(聖書協会共同訳参照)。悪しき者は自分の欲望を誇ります。「誇る」とは拠り所とすることですから、悪しき者は自分の欲望を拠り所としているのです。貧しい人が主を拠り所としているのに対して、悪しき者は、自分の欲望を拠り所としているのです。悪しき者は自分の欲望を神とする者であり、主をたたえながら、侮っているのです。悪しき者も、イスラエル共同体の一員ですから、口では主をたたえるわけですね。イスラエルの律法によれば、神を冒涜する者は死刑ですから、悪しき者も口では主をほめたたえているのです(レビ24:13~16参照)。けれども、彼らの実際は、主を侮っているのです。また、悪しき者は高慢で神を求めず、何事も神を無視してたくらみます。悪しき者は、自分の欲望を神とする高慢のゆえに、神を求めることなく、神を無視してあらゆることを企てるのです。4節後半に「何事も神を無視してたくらむ」とありますが、この所を聖書協会共同訳は、「『神などいない』とあらゆる謀(はかりごと)をたくらむ」と翻訳しています。また、新改訳2017は、「『神はいない。』これが彼の思いのすべてです」と翻訳しています。このような悪しき者の姿は、かつての私たちの姿でもあります。また、天地万物を造られた神、イエス・キリストの父なる神を信じない多くの人の姿でもあるのです。なぜ、悪しき者は「神はいない」と思うのでしょうか。ダビデは、「神さまの裁きが、悪しき者にとってはあまりにも高い」からであると記します。神さまの裁きがあまりにも高いので、悪しき者の目に入らないのです(新改訳2017参照)。それゆえ悪しき者は、力ある自分の道を誇って、心にこう思うのです。「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで/災いに遭うことはない」。そして、その口には呪い、詐欺、搾取を満たし、舌に災いと悪を隠しているのです。ヤコブの手紙に、「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」とありますが、悪しき者の舌は、災いと悪に満ちているのです(ヤコブ3:8)。それは、イエスさまが教えられたように、彼らの心が悪いからでありますね(マタイ15:18「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」参照)。「神はいない」という思い、「わたしは揺らぐことなく、代々幸せで、災いに遭うことはない」という高慢な思いが、口から呪いとして、また、詐欺、搾取として満ち溢れてくるのです。

 8節から11節までをお読みします。

 村はずれの物陰に待ち伏せし/不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺す。茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ/貧しい人を捕らえようと待ち伏せ/貧しい人を網に捕らえて引いて行く。不運な人はその手に陥り/倒れ、うずくまり/心に思う「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。

 ここには、悪しき者の振る舞いが記されています。悪しき者は、村はずれの物陰に待ち伏せし、不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺し、その所持品を奪うのです(箴1:8~19参照)。

 11節に、「心に思う『神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない』と」とあります。新共同訳では、このように心に思うのは、悪しき者の手に陥った不運な人、罪のない貧しい人です。しかし、元の言葉を見ますと、「彼は心に思う」と記されており、その彼は「悪しき者」を指すとも解釈できるのです。例えば、新改訳2017は、10節と11節を次のように翻訳しています。「彼の強さに、不幸な人は/砕かれ、崩れ、倒れます。彼は心の中で言っています。『神は忘れているのだ。顔を隠して/永久に見ることはないのだ』」。11節の心の思いが誰の思いであるのか。不運な人の思いであるのか。それとも、悪しき者の思いであるのか。これは判断の難しいところでありますね。11節の心の思いを不運な人の思いと判断すると、12節の「貧しい人を忘れないでください」と対応していると読むことができます。また、11節の心の思いを悪しき者の思いと判断すると、13節の「なぜ、逆らう者は神を侮り/罰などはない、と心に思うのでしょう」と対応していると読むことができます。ともかく、同じ思いであっても、それが貧しい人の思いか、あるいは悪しき者の思いかによって全く意味が異なってくるのです。悪しき者を主語にすると、「神は私を忘れているから、何をやっても平気だ。御顔を隠して永久に見ていないから、罰を受けることもない」という高慢な思いを表します。他方、貧しい人を主語にすると、「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」という信仰の嘆きを表します。悪しき者にとって、神から忘れられていることは幸いですが、貧しい人にとって、神から忘れられていることは不幸なことであるのです。そして、ここに、私たち人間が悪しき者であるか、それとも貧しい者であるかを知る手がかりがあるのです。

 12節から15節までをお読みします。

 立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。なぜ、逆らう者は神を侮り/罰などはない、と心に思うのでしょう。あなたは必ず御覧になって/御手に労苦と悩みをゆだねる人を/顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります。逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き/彼の反逆を余すところなく罰してください。

 12節の「立ち上がってください、主よ」という御言葉は、第9編20節にも記されていました。第9編20節と21節にはこう記されていました。

 立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。

 ダビデは、「立ち上がってください、主よ」と呼びかけて、裁いてくださるよう願います。しかし、第9編と第10編では、裁きの対象が異なっています。第9編では、異邦の民が裁きの対象でありました。他方、第10編ではイスラエル共同体の中の悪しき者が裁きの対象であるのです。第10編の12節から15節までを読みますと、ダビデは悪しき者の主張をひっくり返す仕方で、主がどのような御方であるかを記しています。主は、いつも共におられる神として、御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。その代表的な存在として、「みなしご」のことが言われています。主はみなしごを助けられる御方であるのです(出エジプト22:21~23参照)。そして、そのことは、みなしごを苦しめる悪しき者を裁くことによって実現するのです。主の裁きは、御手に労苦と悩みをゆだねる貧しい人には救いであります。しかし、神に逆らう悪しき者にとっては滅びであるのです。主の裁きは、そのような二つの面を持っているのです。

 16節から18節までをお読みします。

 主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け/その願いを聞き、彼らの心を確かにし/みなしごと虐げられている人のために/裁きをしてくださいます。この地に住む人は/再び脅かされることがないでしょう。

 ダビデは、「主は永遠の王である」と歌います。その証拠に、主はカナンの地に住む異邦の民を滅ぼし、イスラエルを住まわせてくださいました。新共同訳聖書は、「主の地から異邦の民は消え去るでしょう」と翻訳していますが、元の言葉は完了形で記されています。聖書協会共同訳は、「国々は主の地から滅び去った」と翻訳しています。また、新改訳2017は、「国々は主の地から滅び失せました」と翻訳しています。カナンの地に、イスラエルの民が住んでいること自体が、主が永遠の王であることの証拠であるのです。古代オリエントの社会において、王さまは寄る辺のない人々の保護者でありました。それゆえ、ダビデは「永遠の王である主が、貧しい人に耳を傾け、その願いを聞き、彼らの心を確かにしてくださる。主が虐げられている人のために裁きをしてくださる」と歌うのです。このことは、私たちが今朝、心に刻むべき御言葉でありますね。永遠の王である主、私たちの罪のために十字架に死んで、私たちを正しい者とするために復活された主イエス・キリストは、私たちの願いを聞き、私たちの心を確かにしてくださるのです。そして、私たちのために、必ず正しい裁きをしてくださるのです(主イエス・キリストの再臨の日!)。

 18節の後半に、「この地に住む人は/再び脅かされることがないでしょう」とあります。このところを、新改訳2017は次のように翻訳しています。「地から生まれた人間が/もはや、彼らをおびえさせることがないように」。わたしは、第9編21節の「主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを」との御言葉との関係を考えるならば、新改訳の翻訳の方が良いと思います。18節で、「人」と訳されている言葉は「エノーシュ」で、「死すべき弱い人間」を表します。悪しき者が神はいないと心に思っても、悪しき者も土から造られた、死すべき弱い人間であるのです。そして、同じことが、すべての人間において言えるのです。私たちは自分が死すべき弱い人間であることを忘れることなく、主イエス・キリストを拠り所として歩んでいきたいと願います。

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