人間は何ものなのでしょう 2019年11月24日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

人間は何ものなのでしょう

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 8編1節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:1 【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
8:2 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
8:3 幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。
8:4 あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
8:5 そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
8:6 神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
8:7 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
8:8 羊も牛も、野の獣も
8:9 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
8:10 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。詩編 8編1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、詩編第8編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節に、「指揮者によって。ギティトに合わせて。賛歌。ダビデの詩」とありますように、詩編第8編は、ダビデによって記された詩編であります。この詩編は、神さまの創造の御業をほめたたえる詩編であります。神さまが力ある御言葉によって、天地万物を造られたことは、創世記の第1章と第2章に記されています。その創世記の記述を前提にして詩編第8編は記されています。ダビデは、神さまがすべてのものを造られたという信仰をもって、この詩編を記しているのです。そのことを念頭において、読み進めて行きたいと思います。

 2節の前半をお読みします。

 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。

 ダビデは、「主よ、わたしたちの主よ」と呼びかけています。「主」という言葉が2回でてきますが、元のヘブライ語では違う言葉です。「主よ」の「主」はヤハウェと発音されたであろう神さまのお名前であります。また、「わたしたちの主よ」の「主」は主人とも訳されるアドナイという言葉です。「主」ヤハウェというお名前は、その昔、神さまがモーセにホレブの山で示されたお名前であります。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と神さまはモーセに言われました。このヤハウェというお名前は、「わたしは必ずあなたと共にいる」という約束を含み持つお名前であるのです。そのヤハウェというお名前をダビデは、呼んでいるのです。「ヤハウェよ、私たちの主よ」とダビデは、主の御名を呼ぶのです。続けて、ダビデは、「あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」と記します。このダビデの言葉の背後には、神さまが全地に満ちるすべてのものを造られたという信仰があります。全地に満ちるものはすべて神さまが造られたものであります。美しい草花や愛らしい動物たちも、私たちが食べている物、私たちが用いている家具なども、すべて神さまが造られたものであるのです。そのことを知るとき、私たちは、ダビデと共に、「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう」と賛美することができるのです。

 2節後半から3節までをお読みします。

 天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を立ち滅ぼされます。

 ダビデは、「主の御名は力強く全地に満ちている」と記しましたが、その主が天におられること、天においてこそ、主の威光は輝いていると記します。「威光」とは「おのずから人をおそれさせ、従わせる力」の意味です。ダビデは、神さまが造られたものをたたえるのではなく、天におられる神さまの輝く威光をほめたたえるのです。

 3節に「幼子、乳飲み子の口によって」とありますが、これは前の文にも、うしろの文にもつなげて読むことができます。前の文につなげると、「幼子、乳飲み子の口によっても、天に輝くあなたの威光はたたえられている」と読むことができます。言葉を話すことができない赤ちゃんの泣き声(ホンギャーホンギャー)も、創造主である神さまの威光をたたえているとダビデは歌うのです。

 また、「幼子、乳飲み子の口によって」を後ろの文につなげて読むと、神さまの刃向かう者に向かって築かれた砦が、幼子、乳飲み子の口によって築かれたということになります。ここで「砦を築き」と訳されている言葉は、ヘブライ語のギリシャ語訳では「賛美を用意された」と記されています。「幼子、乳飲み子の口によって、あなたは刃向かう者に向かって賛美を用意された」。この御言葉を、イエスさまは、マタイによる福音書の第21章で引用されています。マタイによる福音書の21章14節から16節までをお読みします。新約の40ページです。

 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉を読んだことがないのか。」

 イエスさまが神殿から商人を追い出された騒ぎに乗じて、神殿に入ることを禁じられていた目の見えない人や足の不自由な人がイエスさまのそばに寄って来ました。そして、彼らの願いどおりに、イエスさまは、これらの人々を癒されたのです。この驚くべき御業を見て、子供たちは、「ダビデの子にホサナ」と言って、イエスさまを賛美したのでした。イエスさまがエルサレムに入られたとき、群衆は「ダビデの子にホサナ」と叫びましたが、ここでは子供たちまで「ダビデの子にホサナ」と叫んだのです。他方、祭司長たちや律法学者たちは、イエスさまの驚くべき業を見ながら驚くことはありませんでした。それどころか、子供たちの賛美に腹を立てて、イエスさまにこう言うのです。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」。その心は、「聞こえているなら、子供たちを黙らせなさい。あなたは、ダビデの子(メシア)ではないのだから」ということです。それに対して、イエスさまは、今朝の御言葉、詩編第8編の御言葉を引用されるのです。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」。このように、イエスさまは、ダビデの子として、子供たちの賛美を受け入れられたのです。また、イエスさまに刃向かう祭司長たちや律法学者たちは、子供たちの賛美によって、言葉を失ってしまうのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の840ページです。

 3節の後半に、「あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を断ち滅ぼされます」とあります。この世界は神さまに造られた世界でありますが、同時に、最初の人アダムによって良き創造の状態から堕落した世界でもあります。この詩編が堕落前のアダムによって歌われた詩編であれば、神さまに刃向かう者や報復する敵は、だれもいなかったはずです。しかし、この詩編は、アダムの最初の違反によって堕落した世界に住むダビデの詩編ですから、神さまに刃向かう者や敵がいるわけです。そのような報復する敵を、神さまは断ち滅ぼされるのです。幼子や乳飲み子の口によってもたたえられる主イエス・キリストの御名によって断ち滅ぼされるのです(黙20:1~15参照)。

 4節と5節をお読みします。

 あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

 ダビデは、神さまが造られた天を仰いで、神さまが配置された月や星々を見て、神さまの偉大さに心を打たれて、感動しています。この詩編は夜に歌われたものであるようです。私たちも、山にキャンプに行ったときなどに、満天の星空を見ることができます。そのようなときに、このダビデの気持ちがよく分かるわけです。また、美しい夜空を見上げるだけではなく、美しい風景を目にするとき、私たちが自然と呼んでいるものを造られた神さまに心を向けて、感動することがあります。

 ダビデは、夜空を仰ぎ、神さまが造られて配置された月と星々を見て、神さまの偉大さに心を振るわせるわけですが、その心が自分へと、人間へと向けられます。「月や星々を造られ、配置された神さまが、御心に留めてくださる人間とは何ものなのでしょう」と驚きつつ問うのです。創世記の1章の記述を読みますと、神さまが天地万物を六つの日に渡って造られたことが記されています。神さまは人間を第六の日に造られました。神さまは、人間が生活することのできる秩序ある世界を整えてくださって、最後に人間を造られたのです。ですから、神さまが月と星々を造られ、配置されたのは、人間のためであるのです。そのようにして、神さまは初めから人間を御心にとめてくださっているのです。ダビデは重ねて、「人の子とは何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」と記します。「人の子」とは「アダムの子」(ベン アダム)と記されています。アダムとは、神さまが人を土の塵(アダマ)から造られたことに由来します(創世2:7参照)。私たち人間は土の塵から造られ、塵に返る、そのような者たちであるのです。けれども、神さまは、そのような人間を顧みてくださるのです。ここで、ダビデは、漠然と、「人間とは何ものなのか」を問うているのではありません。ダビデが問うているのは、「神さまが顧みてくださる人間とは何ものなのか」ということです。そのような問いを抱きつつ、6節から9節までをお読みします。

 神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものすべてを治めるように/その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も/空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。

 ダビデは、「神さまは御自分に僅かに劣るものとして人を造られた」と記します。これは、神さまが人を御自分のかたちに似せて造られたことを背景としています。また、「栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました」という記述も、神さまが、人を祝福して、地を従わせるよう命じられたことを背景としています。実際に確認したいと思います。創世記第1章24節から28節までをお読みします。旧約の2ページです。

 神は言われた。「地はそれぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 ここには、神さまが御自分のかたちに人を造られたことが記されています。神さまが人を御自分のかたちに似せて造られたと言うとき、その神のかたちは、目に見える姿形というよりも、神さまと同じ心を持つ者として、人格的な存在として造られたということです。神さまは、人を男と女に創造され、彼らを祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這う生き物をすべて支配せよ」と言われました。人は、神さまのかたちに似せて造られた者として、神さまに代わって、この世界とそこに満ちる生き物を支配することが祝福として命じられているのです。そのようにして、人は神さまの王権にあずかる者とされたのです。このことを、ダビデは、「栄光と威光を冠としていただかせ」と言い表しているのですね。すべての人が、神さまのかたちに似せて造られています。ダビデの言葉で言えば、神に僅かに劣るものとして造られています。そして、神さまに代わる王として、神さまが造られた世界とそこに満ちる生き物を治めるよう、祝福として命じられているのです。誤解のないように申しますが、神さまは、人間が自分の欲望を満たすために、この世界を支配するように言われたのではありません。神さまが祝福して命じられたのは、人が神のかたちを持つ者として、神さまの御心に従って世界を支配することであったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の840ページです。

 10節をお読みします。

 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。

 10節は、2節の繰り返しであります。しかし、3節から9節までを読んだ後では、より心を込めて、全地に満ちている神さまの御名をほめたたえることができると思います。すべてのものを造り、統べ治めておられる神さまの御名は、力強く全地に満ちています。私たちは、神さまのかたちに似せて造られた者として、さらには、神さまの王権を授けられた者として、この世界を治める働きへと召されているのです。私たち人間の文化や文明は、その実現であり、私たちに与えられている日々の生活も、その実現であるのです。神さまは、主イエス・キリストを信じる私たちといつも共にいてくださいます(マタイ1:23、28:20参照)。また、人の神のかたちは、アダムによって歪められましたが、イエス・キリストにあって回復されております(エフェソ4:24参照)。ですから、私たちは、どこにおいても、「主よ、私たちの主よ。あなたは御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう」と賛美することができるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す