主よ、癒してください 2019年9月22日(日曜 朝の礼拝)

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主よ、癒してください

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 6編1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:1 【指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。】
6:2 主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。
6:3 主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ
6:4 わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。
6:5 主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。
6:6 死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。
6:7 わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。
6:8 苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました。
6:9 悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き
6:10 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
6:11 敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる。詩編 6編1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 週報や月報でお知らせしたとおり、原則として第四週の主の日の礼拝では、旧約聖書の詩編からお話をいたします。今朝は、詩編第6編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。詩編第6編は、1節にありますように「ダビデの詩」であります。このダビデの詩は、伴奏付きで、イスラエルの民によって、賛歌として歌われました。詩編は、神の民であるイスラエルの祈りであり、賛美であるのです。それゆえ、詩編は、主イエス・キリストにあって神の民とされた私たちの祈りであり、賛美であるのです。そのことを心に留めて、詩編第6編を読み進めていきたいと思います。

 2節から4節までをお読みします。

 主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ/わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。

 ダビデは、イスラエルの神を「主よ」と呼びかけます。「主」とは「ヤハウェ」と発音されたであろう神さまのお名前であります。出エジプト記3章に、ホレブの山で、神さまがモーセに出会われたことが記されています。そのとき、神さまは、モーセに、主、ヤハウェというお名前を示されたのです。主、ヤハウェというお名前の意味は、「わたしはあなたと共にいる」という意味であります(出エジプト3:12「わたしは必ずあなたと共にいる」参照)。「わたしはある。わたしはあるという者だ」とは、「わたしはあなたと共にいる」という約束を含み持つお名前であるのです(出エジプト3:14参照)。

 ダビデは、「主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください」と祈ります。ダビデは、神さまの御怒りを招き、責められるようなことをしたようです。ダビデは神さまの掟に背いて罪を犯したのでしょう。それで、ダビデは、「主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます」と祈るのです。「憐れんでください」とは、罪を赦してくださいということです。ダビデは、自分の罪を嘆き悲しむ者として、罪を赦してくださいと祈るのです。

 3節の後半に、「主よ、癒してください」とあります。ダビデはこのとき、大きな病を患っていたようです。「わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています」とありますように、体も心も恐れの中にあったのです。ここで、ダビデは、病を主からの責め、また、主からの懲らしめとして理解しています。ダビデにとって、罪の赦しと病の癒しは一つのことであるのです。そして、罪の赦しと病の癒しは、どちらも主によって与えられるものであるのです。それゆえ、ダビデは、「主よ、いつまでなのでしょう」と問うのです。骨も魂も恐れおののく病を患いつつ、「主よ、いつまでわたしは嘆き悲しまなければならないのでしょうか」と問うのです。

 このような祈りを、私たちも祈ったことがあるかも知れません。骨も魂も恐れおののくような病を患いながら、「主よ、怒ってわたしを責めないでください」と祈る。それは、私たちが病を含めたすべてのことが、神さまから来ると信じているからです。また、私たちは神さまが癒し主であることを信じて、「主よ、癒してください」と祈るのです。出エジプト記15章26節に、「わたしはあなたをいやす主である」とあるように、主こそ、癒し主(ぬし)であるのです。癒し主(ぬし)である主は、お医者さんの手や薬を用いて、私たちを今も癒してくださる御方であるのです。

 5節と6節をお読みします。

 主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。死の国に行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。

 ダビデは、「主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください」と祈ります。「主、ヤハウェ」は、「わたしはあなたと共にいる」という意味であると申しました。しかし、ここでは、その主が共におられないのです。少なくとも、ダビデには、主が共におられるとは思えないわけです。それゆえ、ダビデは、「主よ、立ち帰ってください」と祈るのです。立ち帰って、わたしの魂を助け出してくださいと祈るのです。このように、ダビデが祈ることができる根拠は、ただ主が慈しみ深いお方であるからです。「あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください」。ここで「慈しみ」と訳されているヘブライ語は、「ヘセド」です。ヘセドは、「契約に誠実な愛」を表します。主は、慈しみ深いお方である。このことは、かつて、主がモーセに示されたことでありました。出エジプト記34章6節と7節をお読みします。旧約の151ページです。

 主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまこととに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」

 このように、主は慈しみとまことに満ちておられる御方であるのです。その主の慈しみにふさわしく、わたしを救ってくださいとダビデは祈るのです。ダビデは、自分が主に救っていただけるのにふさわしいから、このようなことを祈るのではありません。ダビデの自己認識によれば、自分は罪を犯して、神さまの怒りの責めを受けているのです。その具体的な現れとして、病を患っているのです。そのような自分が、主に救ってくださいと祈ることができるのは、ただ主が慈しみに満ちておられる、契約に誠実な愛の御方であるからなのです。

 今朝の御言葉に戻りましょう。旧約の838ページです。

 6節に、「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません」と記されています。ここには、ダビデの死生観がよく現れています。ダビデは、死んだ者は、神さまを礼拝することも、神さまに感謝をすることもないと信じていました。それゆえ、ダビデは、癒されることを願うのです。ダビデは、この地上で神さまを礼拝し、神さまに感謝することために癒してくださいと願うのです。この6節に記されている死後の世界は、イエス・キリストの復活によって明らかとなった死後の世界とは違います。イエス・キリストを信じる私たちは、死んだ後も、神さまを礼拝し、神さまに感謝をささげることができます。例えば、イエス・キリストの使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章38節と39節でこう記しています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。私たちは、今、この地上で神さまを礼拝しています。その神さまと私たちとの交わりを、死も引き離すことはできないのです。いや、むしろ、死を通して、私たちは神さまとのより親しい交わりへと入れられるのです。ですから、パウロは、フィリピの信徒への手紙でこう記すのです。「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(フィリピ2:23)。主イエス・キリストを信じる私たちは、死んだら、神さまとの交わりが絶たれ、神さまを礼拝することができなくなると心配する必要はありません。ヨハネの黙示録に記されているように、私たちは、天においても神さまを礼拝することができるのです。そして、そのような者たちであるからこそ、私たちは、この地上で神さまを礼拝することを求めるのです。死んだ後も神さまをほめたたえる者として、この地上で神さまを礼拝することをいよいよ求めるのです。そして、それは正しいことであります。なぜなら、地上で神さまを礼拝する者たちが、天上でも神さまを礼拝する者であるからです。神さまと私たちとの交わりは、死によって終わることなく、死を超えて続いていくものであるのです。

 7節と8節をお読みします。

 わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました。

 ダビデは、自分がどれだけ嘆き疲れたかを、一つの比喩をもって語ります。夜ごとに流す涙が溢れて、寝床は漂うほどであるというのです。それほどに、ダビデは、自分の犯した罪を嘆き、悲しんでいるのです。そのような苦悩を主に訴えて、ダビデは罪の赦しと病の癒しを祈り求めるのです。

 今朝の御言葉のポイントは、病を患っているダビデ本人が、その病を自分の罪と結びつけて、罪の赦しと病の癒しを祈り求めているということです。第三者がそのように言っているのではなくて、病を患っているダビデがそう理解しているということです。私たちが病を患うとき、その病を神さまとの関係においてどう位置づけ、理解するか。そこに、実は、私たちの信仰が具体的に現れてくるのです。ダビデは、病を患ったとき、その病を主からの責め、懲らしめとして理解しました。そして、自分の罪を嘆き悲しみ、主の慈しみに依り頼んだのです。このダビデの姿は、主を信じる私たちにとって、一つのモデルであると言えます。私たちは、病を患うことによって、信仰の姿勢を見直し、神さまとのいよいよ深い交わりへと導かれるのです。そして、その神さまとの祈りの交わりは、死を超えて続いていくことを、私たちは復活された主イエス・キリストにあって知っているのです。

 9節から11節までをお読みします。

 悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き/主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。敵は皆、恥に落とされて恐れおののき

/たちまち退いて、恥に落とされる。

 ここで、詩の雰囲気はがらりと変わります。ダビデは、主が自分の嘆きを聞いてくださるとの確信を得て、勝利の歌を歌うのです。このダビデの変わりようを、ある研究者は、ダビデが祭司からの託宣を受けたのではないかと推測しています(サムエル上1:17,18参照)。それはよく分かりませんが、ダビデに、「主はわたしの祈りを受け入れてくださる」との確信が与えられたことは確かなことです。このことは、ダビデだけではなく、私たちにも当てはまります。主は、慈しみにふさわしく、私たちの嘆きを聞き、私たちの祈りを受け入れてくださる。そのことは、主イエス・キリストを信じる私たちにとって、なおさら確かなことです。なぜなら、永遠の大祭司であるイエス・キリストは、私たちにこう約束しておられるからです。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何か願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ14:13、14)。このことは、イエスさまの名前によって祈れば、どんな病も癒されるということではありません。しかし、たとえ病が癒えなくても、私たちは、イエス・キリストにあって、すべての罪が赦されていることを知っているのです。私たちの病が、新しい天と新しい地において癒されることを知っているのです。東京神学大学の教授に、近藤勝彦という方がおられます。近藤先生は、その著書の中で、「イエスさまの癒しは、病や障害と共に生きる力を与えることである」という主旨のことを記しています(『キリスト教倫理学』321頁)。イエス・キリストを信じたからといって、病が癒されるわけでも障害がなくなるわけでもないかも知れません。しかし、イエスさまを信じて、病や障害と共に生きる力を与えられたならば、それは「癒された」と言えるのではないかと近藤先生は言うのです。私は、本当にそうだと思います。そして、それは主イエス・キリストを信じることによって、病や障害に対する考え方が全く変えられたからなのです。

 ヨハネによる福音書の第9章に、生まれつき目の見えない人のお話が記されています。弟子たちは、イエスさまにこう尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか」。そのような問いに対して、イエスさまはこう答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。ここに、ダビデの考え方を超えた、主イエス・キリストの考え方があります。ここでの「神の業」とは、「主イエスを信じる者となる」ということです(ヨハネ6:29「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」参照)。主イエス・キリストを信じる者となるために、病や障害が与えられている。そのような信仰に生きるとき、私たちはダビデよりも力強く、「敵は皆、・・・たちまち退いて、恥に落とされる」と言うことができるのです。

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