試練に出会うときは 2019年9月15日(日曜 朝の礼拝)

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試練に出会うときは

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヤコブの手紙 1章1節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。
1:2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。
1:3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。
1:4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。
1:5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。
1:6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。
1:7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。
1:8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。ヤコブの手紙 1章1節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度、第三週の主の日の礼拝において、ヤコブの手紙を読み進めて行きたいと思います。今朝は、1章1節から8節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1 神と主イエス・キリストの僕ヤコブ

 1節をお読みします。

 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。

 この手紙を書き記したのは「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」であります。このヤコブは、主イエスの弟のヤコブであると考えられています。イエスさまに弟たちがいたことは、マタイによる福音書の13章に記されています。マタイによる福音書の13章53節から58節までをお読みします。新約の27ページです。

 イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

 このように、イエスさまには、同じ母親から生まれた弟たちと妹たちがいたのです。イエスさまは聖霊によっておとめマリアからお生まれになりましたので、弟たちと妹たちとは父親が異なります。けれども、同じ母親から生まれた弟たちと妹たちがいたのです。そして、イエスさまのすぐ下の弟がヤコブであったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の421ページです。

 イエスさまが、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言われたように、弟のヤコブはイエスさまを信じていませんでした(ヨハネ7:5参照)。しかし、そのヤコブがイエスさまを信じるようになるのです。それは、復活されたイエスさまがヤコブに現れてくださったからです(一コリント15:7参照)。ヤコブは十字架の死から復活されたイエスさまにまみえることによって、主イエス・キリストを信じる者となったのです。

 使徒言行録の1章を読むと、十二使徒たちと一緒に、イエスの母マリアとイエスの兄弟たちが心を合わせて熱心に祈っていたと記されています(使徒1:14参照)。ヤコブもイエス・キリストを信じて教会の一員となっていたのです。そればかりか、のちにヤコブはエルサレム教会の指導者の一人となります。使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の第2章で、エルサレム教会の柱と目されるおもだった人たちとして、ヤコブとケファ(ペトロ)とヨハネの三人の名前を挙げています。主イエスの弟であるヤコブは十二使徒のペトロとヨハネと並ぶ指導的な立場にあったのです。

 使徒言行録の15章に、エルサレムで行われた使徒たちと長老たちの会議のことが記されています。その会議を総括したのもヤコブでありました。また、使徒言行録の21章に、使徒パウロが異邦人教会の献金を携えてエルサレムに上ったことが記されています。パウロが訪ねたのもヤコブのもとであり、そこには長老たちが皆集まっていたのです。このように、ヤコブはエルサレム教会の指導者であったのです。けれども、ヤコブは、自分のことを、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」と記すのです。ヤコブは神と主イエス・キリストの僕として、この手紙を書き送るのです。

 この手紙の宛先は、「離散している十二部族の人たち」であります。これは文字通りには、「ユダヤではない外国に住んでいるイスラエルの12部族の人たち」のことです。しかし、民族としてのイスラエルの10部族は失われておりますので、これはたとえであることが分かります。ヤコブは、神のイスラエルであるすべてのキリストの教会に宛ててこの手紙を書き記したのです。ヤコブの手紙は、私たちに宛てて書き記された手紙でもあるのです。

2 試練に出会うときは

 2節から4節までをお読みします。

 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。

 ヤコブは、「わたしの兄弟たち」と呼びかけています。「わたしの兄弟たち」とは、主イエス・キリストを信じることによって、神さまを父とする兄弟姉妹ということです(マタイ12:49、50参照)。この手紙を受け取った兄弟姉妹は、イエス・キリストを信じたことによって、迫害を受けていたようです。主イエスを信じるゆえに、仲間はずれにされたり、悪口を言われたりしていたのでしょう(一ペトロ4:4参照)。そのような兄弟姉妹に、ヤコブは、「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」と記すのです。これは驚くべき言葉ですね。なぜ、ヤコブは、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思えと記すのでしょうか。その理由が3節に記されています。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」。私たちがいろいろな試練に出会うとき、信仰が試される。それは、私たちがいろいろな試練を神さまからの訓練として受け止めるからです。私たちは、イエスさまを信じているゆえに、迫害を受けてはいないかも知れません。しかし、私たちにもいろいろな試練、経済的な問題、健康の問題、人間関係の問題が与えられています。そのようないろいろな試練を、私たちは神さまの御手からいただくわけです。神さまからの訓練として、試練に出会うのです。ですから、そのとき、私たちの信仰が試される。そして、私たちの信仰が試されることによって、忍耐が生じるのです。この忍耐(粘り強さ)が、私たちが信仰者として成熟するために必要であるのです。ヤコブは4節でこう記しています。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。新共同訳は「あくまで忍耐しなさい」と訳していますが、元の言葉を直訳すると「忍耐が完全な業を持つようにしなさい」となります(辻学訳「その忍耐には完全なる行いを伴わせよ」参照)。「あくまで忍耐する」とは、試練が過ぎ去るのを何もせずにじっと待っていることではありません。「あくまで忍耐する」とは、主に希望を置いて、粘り強く試練に取り組むことであるのです。そうすれば、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になる」とヤコブは記すのです。神さまは、私たちを完全で申し分のない人間とするという目的で、試練を与えられます。それゆえ、私たちは、試練に出会うとき、喜ぶことができるのです。

3 疑わず、信仰をもって願いなさい

 5節から8節までをお読みします。

 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰もって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。

 ヤコブは、「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば」と記します。このように、ヤコブは私たちに自己吟味をさせるわけです。自分は知恵があると思っている人は、祈らないわけです。けれども、自分に知恵が欠けていると思う人は祈るのです。国語辞典を引くと、知恵とは「物事の道理をよくわきまえ、すぐれた処理や判断ができる能力」を意味します(『福武国語辞典』)。聖書が教える知恵もこれとほぼ同じ意味ですが、大きく違う点が一つあります。それは、主を畏れ敬う心から、物事の道理をよくわきまえ、すぐれた処理や判断をするということです。箴言の1章7節にあるように、「主を畏れることは知恵の初め」であるのです。「主を畏れる心から物事の道理をよくわきまえ、すぐれた処理や判断ができる能力」が、聖書が教える知恵であるのです。神さまは、この知恵を、だれにでも惜しみなく、とがめだてしないで与えてくださいます(マタイ7:7参照)。神さまは、限られた人だけに知恵を与えられるのではありません。自分に知恵が欠けていることを認め、祈り求めるならば、誰にでも与えられるのです。それも神さまは、惜しみなく、とがめだてしないで知恵を与えてくださるのです。私たち人間は、出し惜しみして、小言を言いながら与えるのですが、神さまはそのような御方ではありません。神さまは願うならば惜しみなく与えてくださる、気前のよい御方であるのです(マタイ20:15参照)。もし、願っても与えられないならば、それは神さまが出し惜しみをされているのではなくて、願う私たちの方に問題があるのです。つまり、疑いながら、願っているということです。ヤコブは、疑いながら願う人を、風に吹かれて揺れ動く波に譬えています。風に吹かれている湖の水面のように、心が揺れ動いたままで祈っても、主から何もいただくことはできないのです(マタイ21:21、22参照)。8節の「心が定まらず」は、「二心」とも訳すことができます(口語訳、新改訳参照)。聖書協会共同訳は、8節を次のように訳しています。「二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠く人だからです」。二心の人、それは疑いながら祈る人のことです。神さまに知恵を与えてくださいと願いながら、心のどこかで神さまは知恵を与えてくださらないのではないかと疑い、心が2つに分かれてしまっている人です。しかし、そのような二心では、信仰者としての生き方全体に安定を欠いてしまうのです。祈りは、神さまとの最も根本的な交わりでありますね。その祈りにおいて、心が二つに分かれていると、生き方全体が不安定となってしまうのです。それゆえ、ヤコブは、「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」と言うのです。これは言い換えれば、「二心ではなく、一つの心で願いなさい」ということです。この一つの心を、私たちは、イエス・キリストの聖霊によって、与えられているのです。それは、「アッバ、父よ」と呼ぶ、神の子としての心であります(ローマ8:15参照)。ヤコブが「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」と記すとき、その「信仰」とは、「神の子としての信仰」であるのです。

 今朝は最後に、マタイによる福音書の7章7節から11節までを読んで終わりたいと思います。新約の11ページです。

 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

 ここでイエスさまが教えておられることも、「いささかも疑わず、父なる神さまを信頼して願いなさい」ということです。私たちは、地上の親を信頼しています。そうであれば、私たちはなおさら天の父なる神さまを信頼すべきであるのです。天の父なる神さまは、すべてのものを造り、すべてのものを統べ治めておられる全能の御方です。また、惜しみなくとがめだてしないで与えてくださる御方であります。ですから、私たちは、いささかも疑わず、神の子としての信仰をもって、願うことができるし、また願うべきであるのです。そのとき、私たちの生き方全体が安定するのです。それは、どのようなときも、神の子として生きるという安定であるのです。

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