新しいぶどう酒は新しい革袋に 2020年3月08日(日曜 朝の礼拝)

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新しいぶどう酒は新しい革袋に

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 2章18節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
2:19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。
2:20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
2:21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
2:22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」マルコによる福音書 2章18節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(先週)、私たちは、イエスさまが徴税人のレビを弟子にされたことを学びました。レビはイエスさまの弟子にされた喜びから食事の席を設けました。そして、イエスさまは喜んで、徴税人や罪人と一緒に食事を楽しまれたのです。イエスさまは、罪人を招くために来られた御方として、彼らと一緒に食事を楽しまれたのです。

 今朝の御言葉はその続きであります。

1.断食できない喜びのとき

 18節と19節をお読みします。

 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。

 「断食」とは「食事を断つこと」を言います。先日、テレビで断食(ファスティング)がブームになっていると言っていました。その目的は、ダイエットであったり、生活のリセットであると言っていました。けれども、聖書において断食とは、神さまの御前にへりくだる手段であり、罪を悲しみ、悔い改める表現であるのです。ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、神さまの御前にへりくだり、罪を悲しむ者として、しばしば断食していたのです。『ルカによる福音書』の第18章に記されている「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」によれば、ファリサイ派の人々は週に二度断食していました。しかし、イエスさまは徴税人や罪人たちと一緒に食べたり、飲んだりしていたわけです。人々はイエスさまのところに来て、「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と問うています。なぜ、イエスさまの弟子たちは断食しないのか。それは、先生であるイエスさまが断食されないからですね。ヨハネの弟子たちが断食したのは、先生であるヨハネが断食していたからでしょう。洗礼者ヨハネについては、第1章に記されていました。ヨハネは荒れ野で罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。また、ヨハネはらくだの毛衣を着て、いなごと野蜜を食べていました。そのようなヨハネが神さまの御前にへりくだって、罪を悲しんで断食したことはありそうなことです。また、ファリサイ派の人々は、律法を守ることに熱心な真面目な人たちですから、神さまの掟を守らない人たちの罪を悲しんで、しばしば断食していたのです。『マタイによる福音書』の第6章で、イエスさまは、ファリサイ派の人々の断食が人に見せるためのものとなっていることを指摘しています。ファリサイ派の人々にとって、断食すること自体が目的となり、功績となっていたのです。しかし、初めはそうではなかったと思います。『詩編』に、「わたしの目は川のように涙を流しています。人々があなたの律法を守らないからです」(詩119:136)とあるように、ファリサイ派の人々は、神さまの掟を守らない人々の罪を悲しんで、断食してたのです。そのような意味で、ファリサイ派の人々の断食は、イスラエルの民の罪を贖う苦行でもあったのです。しかし、イエスさまは、徴税人や罪人の罪を悲しむどころか、一緒に食事をしていたわけです。そして、イエスさまの弟子たちも一緒に食事をしていたのです。

 「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。このような問いに対して、イエスさまはこう答えられます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」。婚礼はこの上ない喜びの時であります。婚礼の客は喜びに溢れて御馳走(ごちそう)を食べ、ぶどう酒を飲みます。そのような婚礼の客に、断食させることはできないのです。ここでイエスさまは、御自分を花婿に譬えています。また、御自分の弟子たちを婚礼の客に譬えています。イエスさまと共にする食事は、婚礼の喜びの食事であるのです。なぜなら、イエスさまにおいて天の国の祝福が到来しているからです。ある研究者は、次のようなことを記していました。「ファリサイ派の人々は、旧約の預言者たちが預言した神の国が来ないのは、イスラエルの民の中に、神の掟を守らない者たちがいるからだと考えた。それで、彼らは神の掟を守らない者たちを罪人と呼んで軽蔑した。そして、ファリサイ派の人々は、自分たちだけでも神さまの掟を守ることによって、神の国が来ることを願った」。しかし、そのような彼らの考えをよそに、神の国はイエス・キリストにおいて到来したのです。神の国は神の掟を守っているかどうかに関係なく、無償の恵みとしてイエス・キリストにおいて到来した。しかし、ファリサイ派の人々は、イエス・キリストにおいて到来した神の国に入ろうとはしない。それは、彼らが自分は丈夫な人であり、正しい人であると考えているからですね。ファリサイ派の人々は花婿であるイエスさまが一緒にいる婚礼の喜びに加わることなく、なお、断食をして、自分たちの善き業によって、神の国を到来させようとしているのです。

2.イエスの弟子たちが断食するとき

 では、イエスさまの弟子たちは、断食とは無縁なのでしょうか。そうではありません。20節でイエスさまはこう言われます。

 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。

 「花婿が奪い取られる時」とは、「イエスさまが最高法院によって捕らえられ、十字架の死に引き渡される時」のことです。『イザヤ書』の第53章8節に、「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」とあるように、イエスさまは主の僕として、弟子たちのもとから奪い取られるのです。ここでイエスさまは御自分が受ける苦しみを予告しておられます。そして、そのとき、イエスさまも断食することになるのです。実際、イエスさまは、過越の食事を最後に、十字架の上で息を引き取られるまで、断食されたのです(マルコ11:25「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」、マルコ15:36,37「ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、『待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう』と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた」参照)。

 「花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」。弟子たちが断食することになる「その日」については、幾つかの解釈があります。一つは、イエスさまが十字架の死を死なれてから復活するまでの三日間を指すという解釈です。実際、イエスさまの弟子たちは断食したのではないかと思いますね。少なくとも御馳走(ごちそう)を食べる気持ちにはなれなかったでしょう。そして、もう一つの解釈は、イエスさまが十字架の死を死なれた金曜日に、イエスさまの弟子たちが断食するようになるという解釈です。実際、初期のキリスト教会において、イエスさまが十字架の死を死なれたことを覚えて、金曜日に断食するようなったのです(『十二使徒の教訓(ディダケー)』8参照)。「その日」を、イエスさまが十字架の死を死なれて、復活されるまでの三日間とするならば、もはや私たちには関係がないことになります。しかし、イエスさまが私の罪のために苦しまれたことを覚えて断食するのであれば、私たちにも断食する時が備えられているのです。「復活されたイエスさまは、聖霊においていつも共にいてくださる。だから、私たちは断食する必要はない」と言えるかも知れません。けれども、私たちには、神さまの御前にへりくだるために、自分の罪を悲しむために、そして、何よりもイエスさまが受けてくださった苦しみに心を向けるために、断食する時があるのです。

3.新しいぶどう酒は新しい革袋に

 21節と22節をお読みします。

 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

 織りたての布とは、まだ晒していない、水分を含んでいる、縮んでいない布のことです。そのような織りたての布切れを、古い服の継ぎに当てるならば、新しい布切れが古い服を引き裂いてしまいます。また、新しいぶどう酒は発酵する力が強いので、弾力性のない古い革袋に入れるならば、新しいぶどう酒は古い革袋を破いてしまうのです。ここでイエスさまが言われていることは、当時の人々がよく知っていたことです。しかし、そのよく知っているはずのことを、人々はしているわけですね。イエスさまによって、天の祝宴の喜びが到来しているのに、人々は、神の国がまだ来ていないかのような生活をしていたわけです。その典型的な姿がヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々に見られる断食であったのです。イエスさまにおいて到来した神の国の祝福を断食することによって拒むならば、それは古い服に新しい布切れを継ぎに当てる愚かな行為です。また、新しいぶどう酒を古い革袋に入れる愚かな行為です。イエスさまにおいて到来した神の国の祝福(躍動する命)を受け入れるには、弾力性のある新しい革袋が必要です。私たちキリスト者は、そのような新しい革袋(新しい人間)にしていただいたのです。

 私たちキリスト者は断食すべきなのか、断食すべきではないかのか。そのことも弾力性をもって、柔軟に考えるべきですね(「礼拝指針」83~85参照)。私たちはイエス・キリストにあって、神の国の祝福に既にあずかっています。そうであれば、私たちは断食する必要はないと言えるかも知れません。しかし、私たちには断食すべき時があることも事実です。『使徒言行録』を読みますと、弟子たちが断食して祈ったと記されています(使徒13:3参照)。長老たちを選挙するときも、弟子たちは断食して祈ったのです(使徒14:23参照)。そのように断食する時が、私たちにもあるのです。私たちキリスト者の断食に対する柔軟な考え方を、使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第14章に記しています。新約の293ページ。ローマ書の第14章5節と6節をお読みします。 ある日を他の日よりも尊ぶ人がいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。

 食べる人は主イエスのために食べる。また、食べない人は主イエスのために食べない。そして、どちらの人も神さまに感謝している。このような交わりが、イエス・キリストの弟子である私たちの交わりであります。断食するか、断食しないか、それは各自が自分の心の確信に基づいて判断すべきことです。そして、どちらにしても、私たちは主イエスのために生き、神さまに感謝する者であるのです。

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