罪人を招くために来たイエス 2020年3月01日(日曜 朝の礼拝)

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罪人を招くために来たイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 2章13節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
2:14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マルコによる福音書 2章13節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(2月2日)、私たちは、イエスさまが中風の人の罪を赦されたこと。また、中風の人を癒されたことを御一緒に学びました。イエスさまは、中風の人の罪を赦されたことのしるしとして、中風の人を癒されたのです。神さまは、人間であるイエスさまに、地上で罪を赦す権威を与えられたのです。イエスさまは、地上で罪を赦す権威(権利と力)を持っている人の子であるのです。

 今朝の御言葉はその続きであります。

1.徴税人レビを弟子にするイエス

 13節と14節をお読みします。

 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

 「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」とあります。これは第1章16節を受けてものです。第1章16節以下に、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたイエスさまが四人の漁師を弟子にするお話が記されていました。イエスさまは、そのガリラヤ湖のほとりに再び出て行かれたのです。すると、群衆がイエスさまのそばに集まって来ました。イエスさまはとても人気があるのですね。そして、イエスさまはその集まって来た群衆に、神の国の福音を宣べ伝えたのです(1:14,15参照)。

 イエスさまは通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われました。「アルファイの子レビ」は、『マタイによる福音書』を記した使徒マタイと同一人物であると考えられています(マタイ9:9参照)。レビは、その名前から分かるように、生粋のユダヤ人です。しかし、彼は異邦人(ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス)のために税金を集める徴税人となっていたのです。当時、イスラエルの国はローマ帝国の支配下に置かれていました。このことは、神さまを王とするイスラエルの民にとって屈辱でありました。徴税人は、ローマ帝国の手先となって、同胞のユダヤ人から税金を集めていたのです。ですから、彼らは売国奴、裏切り者と呼ばれ、嫌われていました。また、彼らは決まった金額以上を取り立てて私腹を肥やしていたことから、泥棒と同じように考えられていました。さらに彼らは仕事柄、異邦人と接触することから汚れた者と見なされていました。ですから、当時の常識からすれば、徴税人は罪人であり、神の民失格者であったのです。そのような徴税人であるレビをイエスさまは見て、「わたしに従いなさい」と言われたのです。すると、レビは立ち上がってイエスさまに従いました。このとき、レビがどのような気持ちであったかは記されていません。しかし、レビの心は喜びで溢れていたと思います。預言者とうわさされるイエスさまが、罪人と呼ばれる自分を弟子として招いてくださった。その喜びから、彼は立ち上がってイエスさまに従ったのです。また、その喜びから、レビはイエスさまのために食事の席を設けるのです。

2.罪人と食事を共にするイエス

 15節と16節をお読みします。

 イエスがレビの家で食事の席についておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

 レビは、イエスさまの弟子とされた喜びから、自分の家で食事の席を設けました。そこには、多くの徴税人や罪人もイエス様や弟子たちと同席していました。イエスさまに従う大勢の人たちの中に、徴税人や罪人も含まれているのです。徴税人や罪人は、イエスさまが徴税人のレビを弟子にされたことを聞いて、イエスさまが自分たちを受け入れてくださる御方であることを知ったのです。「罪人」とは、神さまの掟である律法を守らない人たち、あるいは、病や障害や仕事のために、律法を守れない人たちのことです。19節に、「ファリサイ派の律法学者」が出て来ますが、ファリサイ派の人々は、律法を守らない人たち、また、守れない人たちを罪人と呼んで、蔑んでいたのです。「ファリサイ派」とは、神さまの掟である律法を熱心に守っていた、まじめな人たちのことです。ファリサイ派の人々は、律法を守らない人たちを罪人と呼び、交わりを持たないようにしていたのです。そのファリサイ派の律法学者が、イエスさまが罪人や徴税人と一緒に食事をしていることに腹を立てて、弟子たちにこう言ったのです。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。一緒に食事をすることは、親しい交わりを持つということです。ファリサイ派の律法学者は、宗教的な指導者として、民衆に、「罪人や徴税人と交わりを持ってはいけない」と教えていました。ことわざに、「朱に交われば赤くなる」とあるように、罪人と交われば、悪い影響を受けることになるわけです。けれども、イエスさまは、罪人や徴税人と一緒に食事をしておられるわけです。ファリサイ派の律法学者は、そんなことをされては、神の民としての秩序が保てなくなるではないかと文句を言ったのです。

3.罪人を招くために来たイエス

 17節をお読みします。

 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言うファリサイ派の律法学者の言葉に、イエスさまは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と答えられました。徴税人や罪人は、癒しを必要としている病人であるのです。ですから、魂の医者であるイエスさまは、徴税人や罪人と交わることが必要であるのです。これは、ファリサイ派の人々とまったく違う考え方ですね。ファリサイ派の人々は律法を守らない人々、また、守れない人々を罪人と呼んで、神の民の交わりから切り捨てました。しかし、イエスさまは、「自分は罪人を招くために来た」と言われるのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。この二つの文を並べて読むと、「医者」が「わたし(イエスさま)」であり、「丈夫な人」が「正しい人」であり、「病人」が「罪人」であることが分かります。このようなイエスさまの御言葉を聞いたとき、ファリサイ派の律法学者は、自分のことを丈夫な人、正しい人であると理解したと思います。なぜなら、彼らは律法を熱心に守っていたからです。では、イエスさまは、ファリサイ派の律法学者たちを丈夫な人、正しい人であると言われたのでしょうか。そうではないと思います。イエスさまは、ファリサイ派の律法学者が自分は正しいと、うぬぼれていることをご存じのうえで、皮肉を言っているのです。私たちは、自分が丈夫であると思うならば、お医者さんのもとに行きません。体調が悪いと思うときに、お医者さんのもとに行きます。それと同じように、自分は正しい人間であると考えているうちは、イエスさまのもとに行こうとはしないのです。現に、ファリサイ派の律法学者は、決して、レビの家の食卓に着こうとはしないのです。彼はただ、文句を言いに来ただけです。そのようにして、ファリサイ派の律法学者は、イエスさまにおいて到来している神の国の祝福にあずかることができないのです。「自分は律法を守っている。あの人たちは律法を守っていない」という他人との比較の上に成り立つ相対的な正しさが、イエスさまと食事を共にする恵みから彼を遠ざけてしまっているのです。しかし、聖書全体が教えていることは、人の心はとらえ難く病んでおり、すべての人が罪人であるということです(エレミヤ17:9「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」、詩14:3「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」参照)。自分と他の人とを比べて、「わたしはあの人よりも正しい」と言うことはできるでしょう。しかし、神さまの御前に、「わたしは正しい」と言える人は誰もいないのです。そのような絶対的な正しさを持っている人は誰もいないのです。それゆえ、すべての人がイエスさまという医者を必要とする病人であり、イエスさまから招かれている罪人であるのです。

 前回、私たちは、イエスさまが地上で罪を赦す権威を持っていることを学びました。そのことを、今朝のお話においても思い起こしたいと思います。イエスさまは、罪を赦す権威を持つ御方として、徴税人や罪人をそのままの姿で、神の国の祝福に入れられるのです。罪人を招くために来られたイエスさまは、その罪人の罪を担って苦難の死を遂げる御方であります。私たちは、イエスさまの十字架の贖いの死を念頭において、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という御言葉を聞かなくてはならないのです。そして、そのとき、神さまの御前に正しい者は誰もいないということが分かるのです。自分が魂の医者を必要とする病人であり、罪の赦しを必要とする罪人であることが分かるのです。このことは、ファリサイ派であった使徒パウロのことを思い起こすならばよく分かります。パウロが自分は罪人であると分かったのは、約束のメシアが律法違犯者としての呪いの死、十字架の死を死なれたことを知ったときでした。もし、私たち人間が神さまの掟を守って正しい者とされるならば、イエスさまは十字架にかかって死なれる必要はなかったのです。しかし、実際、すべての人は神さまに背いている罪人ですから、イエスさまは、御自分の民の罪を担って、十字架の死を死なねばならなかったのです。私たちは、そのことを信じて、すべての罪を赦され、罪人のままで、神の国の祝福に受け入れられたのです。イエスさまは、私たちを神の国の祝福に受け入れてくださるとき、私たちの罪を赦すという仕方で受け入れてくださるのです。

 徴税人や罪人と一緒に食事をされたイエスさまは、主の晩餐の礼典において、私たちとも一緒に食事をしてくださいます。主の晩餐の礼典において、目には見えませんが、イエスさまが聖霊において臨在してくださり、私たちにパンとぶどうジュースを振る舞ってくださるのです。私たちは信仰をもって、パンを私たちのために裂かれたイエスさまの体として食べ、また、信仰をもってぶどうジュースを私たちのために流されたイエスさまの血として飲むのです。そのようにして、私たちは罪を赦された罪人として、神の国の祝宴にあずかっているのです。

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