罪を赦す権威を持つイエス 2020年2月02日(日曜 朝の礼拝)

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罪を赦す権威を持つイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 2章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。
2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
2:6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
2:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。マルコによる福音書 2章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(12月29日)、私たちは、イエスさまが重い皮膚病を患っている人を清められたお話を御一緒に学びました。イエスさまは、重い皮膚病を患っている人を深く憐れまれて、御心として、清くされたのです。当時、重い皮膚病を癒すことができるのは、神さまだけであると考えられていました。イエスさまは、重い皮膚病を患っている人を癒すことによって、御自分が神さまと等しい御方であることを示されたのです。

 今朝の御言葉はその続きであります。

1 彼らの信仰

 イエスさまは、カファルナウムに留まることなく、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されました(1:38、39参照)。そして数日後、再びカファルナウムに戻って来られました。「家におられることが知れ渡り」とあります、この家がだれの家であったかは記されていません。第1章29節に、イエスさま一行がシモンとアンデレの家に行ったことが記されていましたから、シモンとアンデレの家であったかも知れません。ともかく、イエスさまは、集まって来た大勢の人たちに、御言葉を語っておられたのです。イエスさまは、神の国の福音を宣べ伝えていたのです(1:14、15参照)。そのイエスさまのもとに、四人の男が中風の人を運んで来ました。「中風の人」とは「体の麻痺した人」のことです(聖書協会共同訳参照)。「中風の人」は、体が麻痺して動かすことができない、いわゆる寝たきりの状態であったのです。中風の人は、横になったまま、床ごと四人の男によって運ばれて来たのです。しかし、彼らは群衆に阻まれてイエスさまのもとに行くことができませんでした。家は大勢の人で戸口まですきまもないほどであったのです。それで彼らは、屋根に登って、イエスさまがおられる辺りの屋根に穴を開けて、中風の人の寝ている床をつり降ろしたのです。当時の屋根は、木の枠組みに枝をのせて、粘土で固めたものでした。ですから、屋根に穴を開けることは、それほど大変なことではなかったようです。けれども、彼らの行為はずいぶん乱暴な行為であります。彼らの非常識な行為に腹を立てた人もいたかも知れません。しかし、イエスさまは、その彼らの行為に、御自分への信仰を御覧になるのです。5節に、「イエスはその人たちの信仰を見て」と記されていますが、「その人たちの信仰」とは直訳すると「彼らの信仰」となります。「彼ら」とは誰のことでしょうか。それは、中風の人と中風の人を運んで来た四人のことです。イエスさまは、第1章29節以下に記されているように、カファルナウムで多くの病人を癒されました。そのうわさを聞いた人たちが、中風の人に知らせた。そして、中風の人は、ぜひイエスさまにお会いして、癒していただきたいと願った。しかし、問題がある。それは、彼の体が麻痺していて、寝たきりであるということです。それで、彼は四人の男たちに、自分をイエスさまのもとへ運んで欲しいと願った。また、四人の男たちも、ぜひ中風の人をイエスさまのもとに連れて行き、癒していただきたいと願った。イエスさまは、中風の人を癒すことができる。この点において、中風の人も、四人の男たちも、一致していたわけです。私は、このお話を読んだとき、また他の日に来ればよいのではないか。屋根に穴を開けてまで、イエスさまのもとに連れて行く必要はなかったのではないかと思いました。けれども、彼らにしてみれば、イエスさまが、いつまたカファルナウムに来てくださるかは分からないわけです。想像を膨らませるならば、四人の男は、中風の人を運んで、シモンとアンデレの家に行ったことがあったかも知れません。けれども、そのとき、もうイエスさまはカファルナウムから立ち去っておられた。その彼らのもとに、イエスさまが、再びカファルナウムに来られたという知らせが届いたとのです。「今度こそは」という思いで、四人の男は中風の人を運んで来た。けれども、人垣に阻まれて、イエスさまのもとへ連れて行くことはできない。それで、彼らは、屋根に穴をあけて、中風の人を床ごとつり降ろすという荒技に出たのです。その彼らの姿に、イエスさまは、御自分に対する「彼らの信仰」を御覧になったのです。以前(2004年)、ルカによる福音書の並行箇所からお話したときに、私は、「信仰のチームワーク」ということを申しました。私たちは、信仰を個人の持ち物のように考えてしまう。けれども、私たちは信仰を共有することができる。そして、私たちが信仰を共有するとき、私たちの信仰は屋根に穴をあけてしまうほどの熱心なものとなるのです。私たちは、信仰を共有して、一緒にイエスさまを礼拝しています。その私たちの信仰は、やはり、一人で聖書を読んでお祈りしているときよりも、熱心なものとなっているのです。イエスさまは、その私たちの信仰を見ておられるのです。

 中風の人と四人の男たちが願っていたこと、それは、イエスさまに、中風という病を癒していただくことでありました。けれども、イエスさまの口から思いもよらない言葉が語られるのです。イエスさまは、彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。新共同訳は、「あなたの罪は赦される」と翻訳してますが、イエスさまは、「あなたの罪は赦された」と言われました(現在形の受動態、聖書協会共同訳参照)。「将来、赦されるであろう」と言われたのではなくて、「今、赦されている」とイエスさまは、言われたのです。そして、このイエスさまの発言が律法学者たちとの論争を引き起こすことになるのです。

2 罪を赦す権威を持つイエス

 「子よ、あなたの罪は赦された」。このイエスさまの御言葉を聞いて、そこに座っていた律法学者たちは、「この人は、・・・神を冒涜している」と考えました。なぜなら、罪を赦すことができるのは、神おひとりであるからです。律法学者たちは、イエスさまが罪の赦しを宣言することによって、自分を神と等しい者とする、冒涜者であると考えたのです。神を冒涜することは、律法によれば、死に価する罪でありました(レビ24:13~16参照)。第14章に、イエスさまが最高法院で裁判を受けるお話が記されています。その60節から64節までをお読みします。新約の93ページです。

 そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。

 64節に記されているように、イエスさまが死刑の判決を受けるのは、神を冒涜した罪によるのです。ですから、「この人は、・・・神を冒涜している」という律法学者たちの判断は、イエスさまにとって大きな危険をもたらす判断であったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の63ページです。

 罪を赦すことができるのは、神おひとりだけである。このことは、ユダヤ人ならば誰もが認めることです。ただ問題は、神さまが人の子であるイエスさまに、罪を赦す権威(権利と力)を与えられたということです。イエスさまは、10節で、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われます。「人の子」とは、イエスさまが御自分のことを言われるときの決まった言い回しです。「人の子」とは「人間」という意味です(エゼキエル2:1他参照)。私たちは、ヨハネから洗礼を受けられたイエスさまが、神の愛する独り子であることを知っております。罪を赦すことができるのは神だけであるならば、地上で罪を赦すことができるのは神の子であると考えられます。しかし、イエスさまは、「神の子」ではなくて、「人の子」(人間)と言われるのです。また、「人の子」には「人間」という意味の他に、ダニエル書第7章に預言されている、神さまから王権を受けるメシアという意味もあります(ダニエル7:13、14「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた」参照)。第14章に記されている最高法院での裁判において、イエスさまは、ダニエル書第7章に記されている「人の子」こそ、御自分であると言われたわけです。そして、それを聞いた大祭司は、衣を引き裂いて、「神を冒涜した」と言ったわけです。「人の子」という言葉には、「人間」という意味と、王権を受けるメシアという意味の大きく二つがあるのです。そして、第2章では、「人間」と理解するのがよいと思います。イエスさまは、「あなたたちと同じ人間であるわたしに、神さまが罪を赦す権威を与えられたことを知らせよう」と言われているのです。

 イエスさまは、律法学者たちにこう言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。皆さんは、どうお考えになるでしょうか。どちらも難しいのですが、言うだけなら、「あなたの罪は赦されている」と言う方が易しいと思います。と言いますのも、罪が赦されたかどうかは、目に見えるかたちで確認することができないからです。他方、「起きて、床を担いで歩け」と言うのは、目に見えるかたちで確認することができるからです。ですから、イエスさまが中風の人に、「あなたの罪は赦されている」と言っても、それは確認しようのない、でまかせであると、律法学者たちは考えたのです。そのような彼らに、イエスさまは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われたのです。そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われたのです。すると、中風の人は、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行ったのです。イエスさまが、「わたしはあなたに言う」と言われる「わたし」とは、地上で罪を赦す権威を持っている「わたし」のことです。イエスさまは、中風の人の罪が赦されているしるし(証拠)として、中風の人を癒されたのです。ここで前提にあるのは、病の原因が罪にあるという考え方です(詩103:3「主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し」参照)。このことは、病を患っている人が大きな罪を犯したということではありません(ヨハネ9:1~3「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」参照)。しかし、神さまが造られた良き世界に、なぜ、死や病気があるのかと問われるならば、それは最初の人アダムが罪を犯したからであるのです。そのような考え方を前提にして、イエスさまは、中風の人をお癒しになり、中風の人の罪が確かに赦されていることを示されたのです。また、同時に、人間である御自分が地上で罪を赦す権威を持っていることを示されたのです。

 私たちも、主の日の礼拝ごとに、父と子と聖霊の御名によって、罪の赦しの宣言を受けています。イエス・キリストを信じる私たちは、この地上で、罪の赦しを受けて、神さまを礼拝しているのです。私たちは、自分の罪が赦されるかどうか分からない、不安の中で死んでいくのではありません。イエスさまから、「子よ、あなたの罪は赦されている」との御言葉をいただき、神の国の祝福にあずかる者として、平安に死を迎えることができるのです。さらには、イエスさまが栄光の人の子として来られるときに、起き上がること(復活すること)を信じて、眠りにつくことができるのです(11節と12節の「起き上がる」は「復活する」とも訳せる)。

 

3 罪の意識からの解放

 今朝は最後に、なぜ、イエスさまが中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦されている」と言われたのかをお話したいと思います。中風の人と四人の男たちが願っていたのは、中風という病が癒されるということでした。けれども、イエスさまは、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦されている」と言われたのはなぜでしょうか。それは、中風の人に、いや、中風の人だけではなくて、私たち人間に一番必要なものが「罪の赦し」であるからです。さらに、想像を膨らませるならば、イエスさまは、中風の人の心にあることを見抜かれたのではないかと思います。イエスさまは御自分の霊によって、律法学者の心の中にあることを見抜かれたように、中風の人の心をも見抜いておられたのではないでしょうか。中風の人は、自分の体が麻痺して寝たきりになったのは、自分の罪のせいであると悩んでいたのではないかと思うのです。そのような中風の人に、イエスさまは、「子よ、あなたの罪は赦されている」と言われるのです。そのようにして、中風という病と自分の罪を結びつけて考えることを止めるようにと諭しておられるのです。私たちも、大きな病を患ったり、この世で不幸と呼ばれるような出来事に遭うと、自分の罪が原因だと考えやすいのです。けれども、そうではありません。なぜなら、私たちは、イエス・キリストによって、この地上で、罪を赦されている者たちであるからです。「子よ、あなたの罪は赦されている」。このイエスさまの御言葉は、重い言葉です。なぜなら、イエスさまは、私たちの罪を赦すために、私たちに代わって、罪の刑罰としての十字架の死を死なれるからです。「子よ、あなたの罪は赦されている」。この御言葉は、十字架に磔にされて死なれ、三日目に復活されるイエスさまの御言葉であります。それゆえ、イエスさまは、この地上で罪を赦す権威(権利と力)を持っておられるのです。

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