キリスト者とは何者か 2020年11月22日(日曜 朝の礼拝)

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キリスト者とは何者か

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙一 1章1節~2節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。
1:2 あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。ペトロの手紙一 1章1節~2節

原稿のアイコンメッセージ

 主の日の礼拝では、福音書と書簡と旧約聖書から、お話ししています。先週から、書簡の説教は、『ペトロの手紙一』を学び始めました。イエス・キリストの使徒ペトロは、紀元63年頃、ローマから、小アジアに住むキリスト者たちに、この手紙を書き送りました。小アジアに住んでいるイエス・キリストを信じる者たちは、神の選びによって、天に本国を持つ、散らされた民となったのです。同じことが、イエス・キリストを信じている私たちにおいても言えます。それゆえ、『ペトロの手紙』は、私たちに宛てて記されている手紙でもあるのです。先程は、1節と2節を読みましたが、今朝は2節を御一緒に学びたいと思います。

1.選びの根拠

 2節を読みます。

 あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた計画に基づいて、霊によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

 ペトロは、1節で、小アジアに住むイエス・キリストを信じる者たちを、「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」と呼びました。2節には、その「選び」について詳しく記されています。ここには、選びの根拠と手段と目的が記されているのです。

 選びの根拠は、「父である神があらかじめ立てられた計画」であります。選びの根拠は、選ばれた私たちにあるのではありません。選びの客体である私たちにはないのです。選びの根拠は、選びの主体である父である神があらかじめ立てられた計画にあるのです。このことは、ペトロが体験として知っていたことであります。ペトロはガリラヤ湖の漁師でした。ペトロは無学な普通の人であったのです(使徒4:13参照)。しかし、イエスさまは、ペトロを弟子として召してくださいました。ガリラヤ湖で弟のアンデレと一緒に網を打っていたペトロを、イエスさまはじっと見つめて、「わたしに従いなさい。人間を捕る漁師にしよう」と言われたのです。このようにペトロは、イエスさまから一方的に選ばれて弟子とされたのです。それは、選びの客体であるペトロに根拠があるのではなく、選びの主体であるイエスさまの御計画によるのです。今朝の御言葉で言えば、「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて」であるのです。

 新共同訳聖書は、「あらかじめ立てられた御計画」と意訳していますが、元の言葉を直訳すると「予知」となります(口語訳、新改訳参照)。聖書協会共同訳では、「父なる神が予知されたことに従って」と翻訳しています。「予知」「あらかじめ知る」と言いますと、昔から一つの誤解がされてきました。それは、「神さまは、私たちがイエス・キリストを信じることを予め知っておられたので、私たちを選ばれたのだ」という誤解です。このように理解しますと、結局は、選びの根拠が私たちにあることになります。いわゆる条件的な選びであります。しかし、そうではありません。神さまは、無条件に私たちを選ばれたのです。もし、神さまがふさわしい人だけを選ぶということを言われたならば、だれも選ばれませんでした。神さまは、私たちを無条件に、すなわち、恵みによって選ばれたのです。そのことを、使徒パウロは、『エフェソの信徒への手紙』の第1章で、「神は、天地創造の前から、キリストにあって私たちを選ばれた」と言い表したのです(エフェソ1:4参照)。神さまの選びは、私たちが生まれる前から、いや天地創造の前から、キリストにある選びなのです。神さまは、私たちをキリストにあってあらかじめ知っておられたのです。それゆえ、私たちは、イエス・キリストを信じることができたのです(信仰は選びの条件ではなく、むしろ選びの結果である)。

2.選びの手段と目的

 次に、選びの手段と目的についてお話しします。父である神のあらかじめ立てられた御計画に基づいて選ばれた、私たちは、神の霊である聖霊によって、聖なる者とされています。「聖なる者とされている」とは、「神の民とされている」ということです。この手紙の受取人である小アジアの人々は、イエス・キリストを信じる前は、まことの神さまを知らない異邦人でありました。しかし、聖霊のお働きによって、イエス・キリストを信じて、聖なる神の民とされたのです。聖なる者とされることと、イエス・キリストに従う者とされることは、一つのことです。人は、聖霊によって、神の民とされ、イエス・キリストに従う者とされるのです。なぜなら、「キリスト」という言葉は、ヘブライ語の「メシア」のギリシャ語訳であり、その意味は、「油を注がれた王」であるからです。神さまは、十字架に死んで復活されたイエスを、メシア(キリスト)、王とされました。ですから、神の霊によって、神の民とされた人たちは、イエスをメシア(キリスト)と告白し、この方に従う者とされるのです。このことも、ペトロが体験として知っていたことであります。イエスさまは、いわゆる最後の晩餐の席で、弟子たちに、「あなたがたは皆、わたしにつまずく」と予告されました。しかし、ペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いました。また、イエスさまから「今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われると、ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。ペトロは、死をも覚悟して、イエスさまに従うことを断言したのです。しかし、どうだったでしょうか。ペトロは、捕らえられたイエスさまに従って、大祭司の中庭まで行きました。しかし、ペトロは、イエスさまが予告されていたとおり、イエスさまとの関係を三度否定してしまうのです。ペトロは、イエスさまに従うことができなかったのです。しかし、そのペトロが、復活の主イエスに出会い、主イエスから聖霊を与えられたとき、イエス・キリストに従う者とされたのです。『使徒言行録』の第3章と第4章には、最高法院の議員たちを前にして、大胆に福音を宣べ伝えるペトロの姿が記されています。聖霊を与えられたペトロは、最高法院の議員たちが十字架につけて殺したナザレの人イエスを神が復活させられてメシア、救い主とされたこと。イエス・キリストの名の他に、私たち人間が救われるべき名は与えられていないことを、大胆に語るのです。このペトロの変わりようをどのように説明できるでしょうか。それは、聖書が記しているとおり、イエス・キリストが復活され、天にあげられ、聖霊をペトロに注いでくださったからです。ペトロだけではありません。イエス・キリストは、私たちにも聖霊を注いで、御自分に従う者とし、私たちを聖なる神の民としてくださったのです。

 また、私たちは、イエス・キリストの血を注ぎかけていただくために選ばれました。このペトロの言葉の背景には、シナイ山で、主とイスラエルが契約を結んだお話しがあると考えられています。『出エジプト記』の第24章3節から8節までを読みます。旧約の134ページです。

 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」。

 7節に、イスラエルの民が「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と服従を誓ったことが記されています。それに続く8節では、雄牛の血がイスラエルの民に振りかけられて、契約が結ばれたことが記されています。この順番を背景にして、ペトロは、「イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれた」と記しているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の428ページです。

 ペトロが、「その血を注ぎかけていただくために選ばれた」と記すとき、「その血」とはイエス・キリストの血のことであります。イエス・キリストは、主が語られたことをすべて行い、守られることによって、さらには、十字架の上で、血を流されることによって、神さまとの間に、新しい契約を結ばれました(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ルカ22:20「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」参照)。『出エジプト記』の第24章に記されている場面は、古い契約の締結の場面であり、イエス・キリストにおいて結ばれる新しい契約を指し示すものであったのです(ヘブライ8章参照)。私たちは、イエス・キリストの血を注ぎかけていただき、イエス・キリストに従う、新しい契約の民とされたのです。

 「イエス・キリストの血」と聞きますと、聖餐式のぶどう酒を思い浮かべると思いますが、ここでは、洗礼の水のことを思い起こしたいと思います。なぜなら、洗礼の水は、私たちの罪がイエス・キリストの血と霊によって、洗われたことを象徴的に示しているからです。ハイデルベルク信仰問答には、次のようのに記されています。第69問「十字架におけるキリストの唯一の犠牲が、あなたの益になるということを、あなたは、どのようにして、聖なる洗礼において、想起させられ、確信させられるのですか」。答「このようにしてであります。わたしが、いつも身体(からだ)の汚(よご)れを洗い落とす水で、外面的に洗われるのと同じように確実に、キリストの血と霊によって、魂の汚(けが)れ、すなわち、わたしのすべての罪から、洗われるということです」。洗礼を受けた私たちは、イエス・キリストの血を注ぎかけられて、新しい契約の民の一員とされたのです。

3.キリスト者とは何者か

 2節で、ペトロは、父なる神、聖霊、イエス・キリストと、三位一体の神について記しています。父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊という順番ではありませんが、父なる神、聖霊、イエス・キリストの三位一体の神について記しているのです。このことは、私たちの救いが三位一体の神の業であることを示しています。そして、ここに、私たちキリスト者がどのような者であるのがよく言い表されています。私たちキリスト者は、父なる神の御計画に基づいて、聖霊によって神の民とされ、イエス・キリストに従うために選ばれた者たちであるのです。私たちは、そのような者たちとして、神さまから恵み(罪の赦し)と平和(神との和解)をいただいているのです。「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かにあるように」。この挨拶の言葉は、使徒パウロの挨拶の言葉とほとんど同じです。違う点は、ペトロが「ますます豊かに与えられるように」と記している点です。ペトロは、小アジアに住むキリスト者たちに、恵みと平和が既に与えられているゆえに、「ますます豊かに与えられるように」と記すのです。私たちが、新しい契約の民として、イエス・キリストに従って歩んで行くには、神さまからの恵みと平和がますます豊かに与えられる必要があるのです。その神さまの恵みと平和を、私たちは主の日の礼拝ごとに、「派遣と祝福」を通して、いただいているのです(「主が御顔を向けて、あなたを照らし、恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、平安(平和)を賜るように」参照)。

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