深く憐れむイエス 2019年12月29日(日曜 朝の礼拝)

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深く憐れむイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章40節~45節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
1:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
1:45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

マルコによる福音書 1章40節~45節

原稿のアイコンメッセージ

序 前回の振り返り

 前回(12月1日)、私たちは、イエスさまがシモンのしゅうとめを癒されたこと。また、イエスさまがいろいろな病気にかかっている大勢の人を癒されたことを学びました。イエスさまの癒やしの御業、それはイエスさまにおいて神の国が到来していることのしるしであります。人々の関心は、そのしるしへと向けられていました。その翌朝も大勢の人がイエスさまの癒やしの業を求めて、シモンの家に押しかけて来たのです。しかし、イエスさまはこう言われました。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。このように、イエスさまは祈りの中で、御自分の第一の使命が何であるかを確認されたのです。イエスさまは、神の国の福音を宣べ伝えるために、来られたのです。そして、ここに、私たちキリスト教会が何を第一の使命とすべきかが教えられています。私たちは、イエス・キリストにおいて到来している神の国の福音を宣教するために、この地上に存在しているのです。

 今朝の御言葉は、その続きとなります。

1 重い皮膚病を患っている人

 40節をお読みします。

 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

 「重い皮膚病を患っている人」とありますが、1997年より前の版の新共同訳聖書では、「らい病」と翻訳されていました。1997年以降、「らい病」から「重い皮膚病」へと翻訳が変わったのです。そこには、大きく2つの理由があります。一つは、日本の社会において、1996年に、らい予防法が廃止されたことです。らい病、ハンセン病の人への社会的関心が高まったことを受けてのことです。二つ目は、ここで「重い皮膚病」と訳されている「レプラ」という言葉が、ハンセン病の症状よりも広い皮膚病を意味しているということです。「レプラ」というギリシャ語は、「ツァラアト」というヘブライ語の翻訳であります。「ツァラアト」というヘブライ語がどこで出てくるかと言いますと、レビ記の13章に出て来るのです。ヘブライ語聖書のギリシャ語訳である七十人聖書を見ますと、「ツァラアト」の訳語として「レプラ」と記されています。ですから、「レプラ」は、レビ記13章に規定されている病のことを指しているのです。

 レビ記13章1節から8節までをお読みします。旧約の179ページです。

 主はモーセとアロンに仰せになった。もし、皮膚に湿疹、斑点、疱疹が生じて、皮膚病の疑いがある場合、その人を祭司アロンのところか彼の家系の祭司の一人のところに連れて行く。祭司はその人の皮膚の患部を調べる。患部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいるならば、それは重い皮膚病である。しかし、皮膚の疱疹が白くて症状が皮下組織に深く及んではおらず、患部の毛も白くなっていなければ、祭司は患者を一週間隔離する。七日目に祭司が調べて、患部が以前のままで、広がっていなければ、もう一週間隔離する。七日目に再び調べ、症状が治まっていて、広がっていなければ、祭司はその人に「あなたは清い」と言い渡す。それは発疹にすぎない。その人は衣服を水洗いし、清くなる。しかし、祭司に見てもらい、清いと言い渡された後に、その発疹が皮膚に広がったならば、その人はもう一度祭司のところに行く。祭司が調べて、確かに発疹が皮膚に広がっているならば、その人に「あなたは汚れている」と言い渡す。それは重い皮膚病だからである。

 3節と8節に「重い皮膚病」とありますが、もとのヘブライ語は「ツァラアト」であり、そのギリシャ語訳は「レプラ」であります。新共同訳聖書は、レビ記の言葉に合わせて、「重い皮膚病」と翻訳しているのです。しかし、この「重い皮膚病」という翻訳も難点がないわけではありません。皮膚病に苦しんでいる人はたくさんいるからです。3節を見ますと、「患部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいるならば、それは重い皮膚病(ツァラアト)である」と記されています。症状が限定されているわけです。それで、新しい翻訳聖書、聖書協会共同訳では、「規定の病」と翻訳しています。また、新改訳2017では、原語をカタカナ表記して、「ツァラアト」と翻訳しています。それは、今となっては、どのような病を指すのかがよく分からないからです。けれども、重い皮膚病を患っている人が社会からどのような扱いを受けたかということを考えるならば、ハンセン病を患った人と大変似ているわけです。つまり、社会から排除され、公の交わりに出ることを厳しく禁じられたのですね。レビ記の13章45節と46節にこう記されています。

 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。

 重い皮膚病は、宗教的な汚れでありました。汚れたものに触れれば、触れた人も汚れるため、重い皮膚病にかかっている患者は、宿営の外に独りで住まねばならなかったのです。宿営は、神さまが臨在される場でありますから、重い皮膚病にかかっている患者は、神さまとの交わりからも、社会からの交わりからも排除され、生きていても死んでいるかのように扱われたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の63ページです。

 40節に、「重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来て」とサラッと書いてあります。これは本来、許されない行為であります。重い皮膚病は宗教的な汚れでありますから、公の場に出てきてはいけないのです。しかし、この人は、イエスさまの癒やしのうわさを聞いて、イエスさまのところに来たのです。重い皮膚病を患っている人は、イエスさまに近づき、ひざまずいて、こう願います。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。ここには、この人の信仰が言い表されています。「清くする」とは、重い皮膚病を癒やすということです。この人は、イエスさまが自分の重い皮膚病を癒やし、清くすることがおできになると信じているのです。このことは、イエスさまが神さまに等しいお方であるとの信仰告白でもあります。旧約の列王記下の5章に、重い皮膚病を患っていたアラム人ナアマンのお話が記されています。アラムの王は、イスラエルの王に手紙を送って、家臣のナアマンの重い皮膚病を癒やすように願います。その手紙を読んでイスラエルの王は衣を引き裂いて、こう言うのです。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ」(列王下5:7)。このように、重い皮膚病を癒やすことができるのは、神さまだけであると信じられていたのです。「イエスさまは、神さまに等しいお方である。よって、イエスさまは、わたしを清くすることがおできになる」。そのような信仰をもって、この人は、イエスさまに近づき、ひざまずいて願うのです。ただ問題は、イエスさまがそのことを望まれるかということです。それが、イエスさまの御心であるか、ということです。この人は、心の底から癒やされたいと願っていたはずです。しかし、その自分の願いをイエスさまに押し付けることはしませんでした。この人は、イエスさまの御心を重んじるのです。そして、ここに、私たちが見倣うべき、祈りの姿勢があるのです。

2 深く憐れむイエス

 41節と42節をお読みします。

 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。

 イエスさまは、この人を深く憐れまれました。ここで「深く憐れんで」と訳されている言葉(スプラングニゾマイ)は、「腸(はらわた)がちぎれる思いにかられて」とも訳せます(岩波訳)。この「深く憐れんで」(スプラングニゾマイ)は、イエスさまだけに用いられる言葉です。ただ一つの例外は、イエスさまがお語りになった、善きサマリア人に用いられています(ルカ10章参照)。追い剥ぎに襲われて半殺しにされ、倒れていた人を見たとき、サマリア人は憐れみに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました。このサマリア人は、倒れている人を見たとき、腸(はらわた)がちぎられる思いに駆られたのです。それは、このサマリア人が、倒れている人に自分を見出したからです。このサマリア人は、倒れている人に自分を完全に重ねることができたのです。そのような意味で、このサマリア人は、イエスさまのことであるのです。イエスさまが、重い皮膚病を患っている人を見て、腸(はらわた)がちぎれる思いに駆られたのは、イエスさまが、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という掟を完全に守られているお方であるからです。私たちが「人を憐れむ」というとき、それは、自分がその人よりも優位に立っていることを前提としています。しかし、イエスさまは違うのです。イエスさまは、その人と自分をまったく同一視して、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という掟を守られるお方として、深く憐れまれるのです。そして、イエスさまは、手を差し伸べて重い皮膚病を患っている人に触れられたのです。「汚れた人に触れれば、その人も汚れる」と考えられていた宗教的な社会において、イエスさまは、あえて手を差し伸べ、その人に触れられるのです。イエスさまは、お言葉だけで癒やすことができたはずです。しかし、イエスさまが手を差し伸べて、その人に触れられたのは、深い憐れみからであったのです。そのようにして、イエスさまは、この人の心の傷をも癒されるのです。イエスさまは、「よろしい。清くなれ」と言われます。この「よろしい」と訳されている言葉は、重い皮膚病を患っている人の言葉、「御心ならば」を受けてのものです。イエスさまは、「わたしの心だ。清くなれ」と言われたのです(新改訳2017参照)。すると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなったのです。

3 厳しく注意するイエス

 43節から45節までをお読みします。

 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

 レビ記の14章に、「重い皮膚病を患った人が清めを受けるときの指示」が記されています。重い皮膚病を患った人は、その清めの儀式を受けて、清い者とされ、神さまと人との交わりに復帰したのです。その清めの儀式を、祭司のもとに行(い)って、速やかに行(おこな)うようにとイエスさまは、厳しく注意されたのです。ここで、「厳しく注意して」と訳されている言葉(エムブリマオマイ)は、元々は「馬が鼻をならす」という意味です。ですから、岩波書店から出ている『新約聖書』はこのところを、「彼に対して激しく息巻き」と翻訳しています。重い皮膚病を患っていた人を深く憐れみ、癒されたイエスさまが、ここでは、その人に対して激しく息巻いておられるのです。この変わりようを、私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。わたしはその手がかりが、マタイによる福音書の8章17節に記されていると思います。新約の13ページです。福音書記者マタイは、イエスさまが多くの病人を癒された後でこう記します。

 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」。

  イザヤ書の53章に、苦難の死を遂げる主の僕の預言が記されています。その4節の御言葉、「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」という御言葉を引用して、マタイは、イエスさまの癒やしの御業を説明するのです。イエスさまが、「よろしい、清くなれ」と言われると、その人から重い皮膚病は去りました。その去っていった重い皮膚病はどこへ行ったのでしょう。マタイの解釈によれば、イエスさまが担われたのです。このことは、私たちがイエスさまの癒やしを考えるときに、忘れてはいけないことです。イエスさまは、神の独り子であるから、涼しい顔で、癒やしをされたのかと言えば、そうではありません。イエスさまは、神の独り子であると同時に、主の僕でもあります。イエスさまは、私たちの病を担うという仕方で、私たちを癒されるのです。私たちがお医者さんにかかって癒されるときも、私たちは、イエスさまが病を担ってくださったことを忘れてはいけないのです。イエスさまは、私たちの病を担われる御方である。それゆえ、重い皮膚病の人を清められたイエスさまは激しく息巻かれたのです。ある説教者の想像によれば、このとき、イエスさまのお顔は歪んだ。十字架につけられたときのように、イエスさまの御顔は歪んだと言うのです。けれども、重い皮膚病を癒やしていただいた人は、そこまでは考えないわけです。自分の汚れをイエスさまが担ってくださったことには考えが及ばないのです。ですから、彼は「だれにも何も話さないように気をつけなさい」と言われていたにもかかわらず、イエスさまがしてくださった事を言い広めたのです。彼は、イエスさまのことを、病を癒やすことのできるお方として言い広めたのです。このことは、イエスさまが避けたかったことですね。イエスさまの第一の使命は神の国の福音を宣べ伝えることでした。しかし、人々の関心は、神の国のしるしである癒やしに向けられていくのです。イエスさまは、公然と町に入ることができず、町の外の人のいないところにおられました。しかし、それでも、人々は四方からイエスさまのところに集まって来たのです。そして、書いてはありませんが、イエスさまは、この大勢の人をも癒されたと思います。なぜなら、イエスさまは、すべての人の病を担い、痛みを追われる救い主であるからです。そのようなお方として、イエスさまは十字架のうえで、私たちの贖いとなってくださったのです。

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