体と魂をいやすイエス 2019年12月01日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

体と魂をいやすイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章29節~39節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
1:30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
1:31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
1:32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
1:33 町中の人が、戸口に集まった。
1:34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
1:35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
1:36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、
1:37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
1:38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
1:39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。マルコによる福音書 1章29節~39節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イエスさまが、安息日に、カファルナウムの会堂で教えられたことを学びました。イエスさまは、律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられました。イエスさまの御言葉そのものに権威があったのです。イエスさまの教え、それは悪霊を従わせる、新しい権威ある教えでありました。私たちは、神さまが天を裂いて、イエスさまに聖霊を注いで、神の独り子、イスラエルの王、主の僕であることを宣言されたことを知っております。イエスさまの教えには、神の独り子としての権威があるのです。

 今朝の御言葉はその続きであります。

1 シモンのしゅうとめをいやすイエス

 29節に、「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった」とあります。私たちは、午前中に礼拝をささげておりますが、安息日の礼拝も午前中にささげられました。礼拝のあとは、家に帰ってそれぞれ食事をするのですが、そのときに、もてなし合うことが行われていました。礼拝で説教した人を食事に招くことも行われていたようです。ですから、シモンとアンデレが、自分たちの家に、イエスさまを招いたのかも知れません。あるいは、イエスさまの方から、シモンとアンデレの家に行こうと言われたのかも知れません。わたしは、イエスさまの方から、「シモンとアンデレの家に行こう」と言われたのではないかと思います。シモンとアンデレは、イエスさまから、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて、網を捨ててイエスさまの弟子になりました。ヤコブとヨハネにおいては、父親を捨ててイエスさまの弟子となったのです。シモンとアンデレとヤコブとヨハネ、この四人の漁師は、仕事も家族も捨てて、イエスさまに従う弟子とされた者たちでありました。しかし、イエスさまの方から、シモンとアンデレの家に行こうと言われたのです。このことはシモンとアンデレにとって忘れられない、うれしいことであったと思います。自分たちは仕事も家族も捨ててイエスさまに従う弟子となった。そう思っていたところに、イエスさまの方から、「シモンとアンデレの家に行こう」と言われたのです。イエスさま一人で、シモンとアンデレの家に行ったのではありません。イエスさまはヤコブとヨハネと一緒に、シモンとアンデレの家に行ったのです。このようにして、シモンとアンデレの家が教会として用いられるのです(当時は家の教会!)。シモンとアンデレは自分たちの家をイエスさまの福音宣教のためにささげた。そのようにして、捨てたと言えるのです。私たちがすべてを捨ててイエスさまに従うと言うとき、それはイエスさまのためにささげるということであります。イエスさまは、シモンとアンデレの家を訪れてくださり、神の国の祝福を彼らの家族のうえにももたらしてくださるのです。

 30節に、「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した」とあります。しゅうとめとは、配偶者の母親のことですから、シモンには妻がいたようです(一コリント9:5参照)。シモンのしゅうとめは熱を出して寝ていました。彼女は熱のために起き上がることもできず横になっていたのです。私たちは誰もが熱を出して寝ている経験をしたことがあると思います。ですから、私たちは誰もが、シモンのしゅうとめに自分を重ねることができるのです。人々は、彼女のことをイエスさまに話しました。彼らは、イエスさまが汚れた霊を追い出されたことを見ておりましたから、イエスさまなら、シモンのしゅうとめの熱を去らせることができると考えたのです。当時の人々は病の背後にも、悪霊のようなものが働いている考えていたのです。

 イエスさまがそばに行き、彼女の手を取って起こされると、熱は去りました。私たちならば「熱が下がった」と記すところですが、マルコは「熱が去った」と記します。それは熱が取りついているイメージであります。汚れた霊を追い出されたイエスさまは、シモンのしゅうとめから熱を去らせたのです。そして、これがイエスさまが最初になされた癒しの御業であるのです。イエスさまの癒しの御業、それは、イエスさまにおいて神の国(神の王的支配)が到来していることのしるしであります。イエスさまにおいて天の国の祝福が地上に到来したのです。天国にはおいて、私たちは熱を出して寝込むことはありません。天国にはあらゆる病も障害もないからです。そのことを前提にして、私たちはイエスさまの癒しの業について理解しなくてはならないのです。イエスさまがシモンのしゅうとめを癒されたことは、イエスさまにおいて神の国の祝福がシモンの家族にもおよんでいることを教えているのです。イエスさまによって癒されたシモンのしゅうとめは、イエスさま一行をもてなしました。これは料理を作ったということではありません。安息日にはあらゆる労働が禁じられており、料理も禁止されていました。ですから、ユダヤ人は、安息日の前の日を準備の日と呼び、安息日のための料理を前もって作っておくのです。その作っておいた料理を並べたり、食卓の給仕をしたのだと思います。ここで「もてなした」と訳されている言葉(ディアコネオー)は、「仕える」とも訳すことができます。また、もとの言葉は、継続を表す未完了過去形で記されています。イエスさまによって癒していただいたシモンのしゅうとめは、イエスさまに仕え続ける者となったのです。彼女は、このときだけ、食卓の奉仕をしたのではなくて、イエスさまに生涯仕える者となったのです。そして、ここに、私たちが模範とすべき、弟子としての姿があるのです。

2 多くの人をいやすイエス

 32節に、「夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのともに連れて来た」とあります。ユダヤでは、日没から新しい一日が始まると考えられていました。人々は、日が沈むのを待って、安息日が終わるのを待って、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスさまのもとに連れて来たのです。先程も申しましたように、安息日にはあらゆる労働が禁じられていました。癒しの業も禁じられていたのです。それで、人々は、安息日が終わるのを待って、イエスさまのもとに病人や悪霊に取りつかれた者を連れて来たのです。33節に、「町中の人が、戸口に集まった」とあるように、シモンの家に入りきれないほどの人がイエスさまのもとに来ました。病院には、たくさんの人が集まっています。そのたくさんの人が教会に集まってきた。そのような光景であります。そして、イエスさまは、いろいろな病気にかかって苦しんでいる多くの人をいやし、また、多くの悪霊を追い出されたのです。イエスさまは、体と魂をいやされる御方であるのです。出エジプト記15章26節に、「わたしはあなたをいやす主である」と記されているように、イエスさまは、私たちをいやす主、神その方であるのです。

 イエスさまは、悪霊を追い出される際、悪霊にものを言うことをお許しになりませんでした。前回学んだ、24節に、悪霊がイエスさまの正体を言い当てて、抵抗したことが記されていました。そのようなことをイエスさまは許されなかったのです。イエスさまがどのような御方であるかは、これからイエスさま御自身によって、弟子たちに示されていくことであるのです。

3 人里離れた所で祈るイエス

 35節からは、場面が変わっています。朝早くまだ暗いうちに、イエスさまは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられました。イエスさまは、朝早くまだ暗いうちに、人里離れた所に出て行くことにより、神さまと向き合う祈りの時間を持たれたのです。ここで「人里離れた所」と訳されている言葉(エレーモス)は「荒れ野」とも訳せます。私たちは、イエスさまが荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたことを学びましたが、ここでも、イエスさまは誘惑を受けて、祈っておられたのではないかと思います。イエスさまは、人々からもてはやされるという誘惑を受けて、神さまの御心が何であるかを祈っていたのです(ヨハネ6:15参照)。そのようなイエスさまのお心を知らずに、シモンとその仲間たちはイエスさまを追いかけて来て、こう言うのです。「すべての人があなたを捜しています」(直訳)。シモンの家には、朝早くから多くの人が集まって来ていたのでしょう。「すべての人があなたを捜しています」。この言葉をイエスさまに伝えたとき、弟子たちの気持ちはどのようなものであったのでしょうか。おそらく、高まっていたのではないでしょうか。もし、病院の待合室にいる大勢の人たちが、教会に集まるようになれば、私たちの気持ちも高まると思います。「イエスさま、はやく教会に戻ってください。伝道のチャンスです」と興奮気味にイエスさまをせき立てるのではないかと思います。しかし、イエスさまは、そのような弟子たちに、こう言われます。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。イエスさまは御自分を捜している人たちを置き去りにして、「私たちは近くのほかの町や村へ行こう」と言われます。それは、イエスさまの福音宣教がカファルナウムだけではなく、ガリラヤ中の町や村でなされるためです。イエスさまが「そのためにわたしは出て来たのである」と言われるとき、二つの解釈があります。一つは、ガリラヤのナザレから出て来たという解釈です(1:9参照)。二つ目は、御父のもとから出て来たという解釈です。ヨハネによる福音書の冒頭を読むと、初めから神と共にあった言(ロゴス)が、肉となって、私たちの間に宿られたと記されています。独り子なる神が、聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、人として生まれてくださったのは、カファルナウムだけではなく、ガリラヤ中の町や村で福音を宣べ伝えるためであるのです。さらには、イエスさまの弟子たちによって、世界中の町や村で福音が宣べ伝えられるようになるためであるのです。日本国の埼玉県の羽生市に、キリストの教会があり、その礼拝において福音が宣べ伝えられているのは、イエスさまがそのために来てくださったからなのです。

 39節に、「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」と記されています。イエスさまは、御自分において神の国が到来したことを宣べ伝え、そのしるしとして悪霊を追い出されました。このことは、今も、イエス・キリストの名においてささげられる礼拝において起こっていることです。なぜなら、イエス・キリストは、「わたしの名によって二人、または三人が集まるところに、わたしもいるのである」と約束しておられるからです(マタイ18:20)。私たちは、イエス・キリストを信じたからと言って、すぐに病が癒されるわけではありません。しかし、私たちは、イエス・キリストによって癒されない病がないことを信じています。天の御国においてイエスさまにお会いするとき、イエスさまの癒しの御業が完全に自分のうえに実現することを信じているのです。そのような信仰をもって、お医者さんから治療を受けているのです。また、私たちはイエスさまを信じたからと言って、悪しき思いから完全に解放されるわけではありません。しかし、イエスさまは、私たちに聖霊を与えてくださり、罪の奴隷状態から確かに解放してくださったのです。ですから、私たちは、「イエスは主である」と告白し、「アッバ、父よ」と神さまに祈ることができるのです。祈りにおいて、神さまと語らい、神さまの御心を求めて生きることができるのです。そのような祈りの時間を、私たちも大切にして歩んでいきたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す