イエスに喜んで従う者 2019年10月13日(日曜 朝の礼拝)

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イエスに喜んで従う者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章16節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。マルコによる福音書 1章16節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、神さまによって聖霊を注がれ、サタンの誘惑に勝利されたイエスさまにおいて、神の国が到来したことを学びました。それゆえ、すべての人が神さまに立ち帰って、福音が提供するイエス・キリストを信じることが命じられているのです。イエス・キリストを信じるならばだれでも神の王的な支配にあずかることができるのです。今朝の御言葉はその続きとなります。

1 シモンとアンデレを弟子にするイエス

 イエスさまは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられました。ガリラヤ湖とは、南北に20キロメートル、東西に最大12キロメートル、面積は144平方キロメートルの湖であります。景色の美しい、漁業が盛んな湖でありました。その湖でシモンとシモンの兄弟アンデレが網を打っているのをイエスさまは御覧になったのです。シモンとは、後のペトロのことです。シモンとアンデレは、漁師でありました。それで二人は網を打って魚をとっていたのです。その二人に、イエスさまは、こう言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。「わたしについて来なさい」とは、「わたしの後ろについてきなさい」と訳せます。イエスさまの後ろについて行くとは、イエスさまに従うことであるのです。このように、イエスさまは、二人の漁師を御自分の弟子に召されたのです(エレミヤ16:16参照)。また、「人間をとる漁師にしよう」とは、「わたしがあなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」とも訳せます。イエスさまは、魚をとっている漁師である二人に、「わたしがあなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」と言われるのです。漁師が魚を捕るのは、殺して、塩漬けにして売るためです。しかし、人間をとる漁師は、人を生かすために、神の国へとすなどるのです。これは、平たく言えば、イエスさまと同じように神の福音を宣べ伝える者となるということです。イエスさまは、一人で、神の福音を宣べ伝えられたのではなく、弟子たちを召して、その弟子たちによって、多くの人に神の福音を宣べ伝えることを考えておられたのです。イエスさまは、最初から、弟子たちによって福音が宣べ伝えられることを計画しておられたのです(弟子たちが人間をとる漁師になるのは、イエスさまが天にあげられて、聖霊を注がれた後、それまでは訓練期間と言える)。「わたしの後について来なさい。わたしがあなたがたを人間をとる漁師にしよう」。このように言われて、二人はすぐに網を捨てて従いました。シモンとアンデレは、網に象徴される仕事を捨てて、イエスさまに従ったのです。

2 ヤコブとヨハネを弟子にするイエス

 イエスさまが、シモンとアンデレを引き連れて進んで行きますと、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしていました。彼らは明日の漁のために、舟の中で網を繕っていたのです。その様子をイエスさまは御覧になって、すぐに彼らをお呼びになりました。ここには、何という言葉で呼ばれたのかは記されていませんが、おそらく先程と同じ言葉であったと思います。イエスさまは、ヤコブとヨハネにも、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけられたのです。すると、この二人もすぐに父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスさまの後について行ったのです。ヤコブとヨハネは、父親に象徴される家族を捨てて、また、舟や雇い人に象徴される財産を捨てて、イエスさまの後について行ったのです。

3 私たちを弟子にするイエス

 今朝の御言葉で、イエスさまは、四人の漁師を弟子にします。それは、後にペトロと呼ばれるシモンと、その兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。この四人は、12使徒のリストのはじめに名前が記されています。また、初代教会の指導者となった弟子たちです。その四人がどのようにして、イエスさまの弟子となったのか、そのことが今朝の御言葉に記されているのです。そして、ここに記されていることは、原則としては、イエスさまの弟子とされた私たちにも起こったことであるのです。その原則的なことをお話したいと思います。

 一つ目の原則は、「イエスさまが声をかけてくださった」ということです。当時のユダヤでは、弟子の方から先生に、「あなたに従って参ります」と申し出たといいます。しかし、イエスさまは、御自分の方から声をかけられて、四人の漁師を弟子にされたのです。私たちも同じであります。私たちがイエスさまの弟子になることができたのは、イエスさまの方から私たちに声をかけてくださったからであるのです。イエスさまから、「わたしについて来なさい」と声をかけていただいたからこそ、私たちは、イエスさまの後について行く、弟子となることができたのです。自分のことを話して恐縮ですが、わたしが教会の礼拝に出席したのは、大学生の頃でした。はじめは、「教会に集う人は、なぜ、イエス・キリストを信じられるだろうか」と不思議に思っていました。しかし、そのようなわたしが、礼拝に出席していく中で、「どうして、世の人々は、イエス・キリストを信じないのだろうか」と不思議に思うようになったのです。立場が信じない者から信じる者へと変わっていたのです。そのとき、自分がイエスさまを信じていることが分かってうれしくなりました。そして、洗礼を受けて、イエスさまに従う弟子となったのです。イエスさまは、礼拝において、今も、私たちに御言葉をもって語りかけてくださいます。そのイエスさまからの御言葉をいただいて、私たちは、イエスさまの後に従う、弟子となることができたのです。

 二つ目の原則は、「弟子とは、イエスさまの後ろについて行く者」であるということです。弟子とは、イエスさまと肩を並べて歩む者でも、ましてや、イエスさまの前を歩む者でもありません。イエスさまの後ろについて行く者です。イエスさまの背中を見つめて歩む者、それが弟子であります。8章に、ペトロが信仰を言い表すというお話が記されています。ペトロとは、シモンのことですが、彼は弟子たちを代表して、イエスさまに「あなたは、メシアです」と言い表すのです。そのペトロの信仰告白を受けて、イエスさまは、御自分がどのようなメシアであるかを教えられます。イエスさまは、御自分の死と復活について予告されるのです(8:31参照)。すると、ペトロが、イエスさまを叱って、いさめ始めるわけです。そのとき、イエスさまはペトロを叱ってこう言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。この「引き下がれ」という言葉が、「わたしの後ろに行け」という言葉であるのです。ここでイエスさまは、ペトロに弟子としての正しい位置に戻るようにと言われたわけです。

 三つ目の原則は、「弟子になるとは、人間をとる漁師になる」ということです。イエスさまは、なぜ、四人の漁師を御自分の弟子とされたのでしょうか。それは、彼らを人間をとる漁師にするためです。イエスさまは、多くの人を神の国にすなどるために、彼らを弟子にされたのです。私たちがイエスさまに従う弟子とされたのも同じです。私たちが神の福音を宣べ伝えて、多くの人を神の国にすなどるために、イエスさまは、私たちを弟子としてくださったのです。ですから、「わたしがあなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」というイエスさまの御言葉は、私たちに対する御言葉であるのです。イエスさまが、私たちを人間を神の国へとすなどる者としてくださるのです。そして、その約束は、私たちがイエスさまの後について行くことによって実現するのです。

 四つ目の原則は、「イエスさまの弟子になることを妨げるものがあるならば、捨てなければならない」ということです。シモンとアンデレは、仕事を捨ててイエスさまに従いました。また、ヤコブとヨハネは、家族と財産を捨ててイエスさまに従いました。それは、彼らにとって、仕事や家族や財産が、イエスさまに従うことを妨げるものであったからです。このことは、牧師になる人のことを考えたらよく分かると思います。また、自分のことを話して恐縮ですが、私は大学を卒業をして、ある会社に入りました。そして、しばらくして、牧師になりたいという思いが与えられました。そのとき、仕事を止めて、牧師になる準備をしました。そして、神学校に行って、訓練を受けて、羽生栄光教会の牧師としてイエスさまに従っているわけです。仕事を止めたのは、それは牧師になるために必要であったからですね。何を捨ててイエスさまに従うのかは、その人それぞれの召しによって違うわけです。週報の報告の欄に、S姉妹のことを記しておきました。彼女は、医療宣教についての召しを受けたと信じて、その準備をしているわけです。その召しを妨げるものがあれば、それを捨てることが求められるわけです。誤解のないように申しますが、イエスさまに従うことを妨げないならば、仕事や家族や財産を捨てる必要はありません(創世記12:5「アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方へ入った」参照)。けれども、イエスさまに従うことを妨げるものがあるならば、私たちはそれを捨てなくてはならないのです。

結 イエスに喜んで従う者

 原則についてのお話はこのぐらいにして、結びに入ります。

 シモンとアンデレも、ヤコブとヨハネも、すぐにイエスさまに従いました。このような記述を読みますと、大人がこんなに簡単について行くだろうかと疑問に思います。読んでいて引っかかるわけです。そして、その引っかかるところに、福音書記者マルコが伝えたいことがあるのです。マルコは、二組の兄弟がすぐにイエスさまの御言葉に従ったことを記すことにより、イエスさまの御言葉には人を従わせる権利と力、権威があることを示しているのです。私たちは、イエスさまが、神の独り子であり、イスラエルの王であり、主の僕であることを知っています(1:11「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」参照)。イエスさまは、そのような御方として、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたのです。それゆえ、四人はすべてを捨てて、すぐにイエスさまについて行ったのです。では、彼らは、いやいや、しょうがなく、イエスさまについて行ったのでしょうか。肩を落としてイエスさまについて行ったのでしょうか。そうではないと思います。彼らは、喜びに溢れて、胸を張って、イエスさまについて行ったと思うのです。このことは、くどくどと説明する必要はありません。私たち自身のことを考えたらよいのです。イエスさまを信じて成人洗礼を受けたとき、また、幼児洗礼を受けた人でしたら、信仰告白をしたとき、どのような気持ちであったか。おそらく誰もが喜びに溢れていたと思います。イエスさまは、私たちを御自分に喜んで従う者としてくださったのです。つまり、イエスさまは、私たちの心に喜びを造り出して、従う者としてくださるのです(喜びの創造!)。今朝の説教題を、「イエスに喜んで従う者」としました。弟子とは、イエスさまに喜んで従う者のことを言うのです。けれども、その喜びがいつのまにか薄れてしまっているのではないでしょうか。そのような私たちに、イエスさまは、今朝、声をかけてくださいます。「わたしの後について来なさい。わたしがあなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」。この御言葉を、私たちは信仰をもって受け入れたいと思います。そして、これからも、イエスさまの後ろに、喜んでついて行きたいと願います。

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