野獣と一緒にいたイエス 2019年9月29日(日曜 朝の礼拝)

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野獣と一緒にいたイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章12節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。マルコによる福音書 1章12節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(9月8日)、私たちは、イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことを学びました。イエスさまは、罪のない御方であるにもかかわらず、多くの人の罪を担う者として、ヨハネから「悔い改めの洗礼」を受けられました。そして、そのようなイエスさまに、天が裂けて、霊が鳩のように降ったのです。神さまは、直接、聖霊を注いで、イエスさまを、油注がれた王、メシアとされたのです。そのことは、天からの声が宣言していることです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声は、イエスさまが神の独り子であり、イスラエルの王であり、主の僕であることを宣言しておられるのです。今朝の御言葉はその続きとなります。

1 イエスを荒れ野に送り出した聖霊

 12節に、「それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した」とあります。天が裂けて、鳩のようにイエスさまに降った聖霊が、イエスさまを荒れ野に送り出したのです。ここで、「送り出した」と訳されている言葉は、「追いやる」とも訳せる荒々しい言葉です(新改訳2017参照)。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われた父なる神様は、聖霊によって、イエスさまを荒れ野へと追いやるのです。ことわざに、「かわいい子には旅をさせよ」とあります。その意味は、「かわいい子には苦労の多い旅をさせて、世の中の苦しみやつらさを経験させたほうが、その子の将来のためになる」という意味です(『必携故事ことわざ辞典』三省堂)。父なる神さまは、かわいい子であるイエスさまを、荒れ野の旅へと追いやるのです。

2 サタンからの誘惑

 イエスさまは、40日間、荒れ野にとどまり、サタンから誘惑を受けられました。イエスさまが荒れ野に40日間とどまったこと。そのことは、昔、イスラエルの民が40年間、荒れ野を旅したことを思い起こさせます。イスラエルの民は、自分たちの不信仰のゆえに、40年間、約束の地カナンに入ることが許されず、荒れ野をさまよいました。そのイスラエルの王、メシアとして、イエスさまは、荒れ野に40日間留まったのです。そして、40日間、イエスさまはサタンから誘惑を受けられたのです。サタンとは、神さまの敵であり、堕落した天使のことです。神さまは、天地万物を造られる前に、天使を造られました。その天使の中の堕落した者がサタン、悪魔であるのです。その堕落した天使であるサタンが、蛇の姿で、人間を誘惑し、堕落させたことが、創世記の3章に記されています。創世記の3章1節から19節までをお読みします。旧約の3ページです。

 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。

 このように、アダムと女は、蛇(サタン)の誘惑によって、神さまから禁じられていた木から食べて、罪を犯し、良き創造の状態から堕落してしまったのです。15節に、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」とあります。ここには、悪魔の頭を打ち砕く、女の子孫の誕生が約束されています。これが、神さまが人間に与えられた最初の良き知らせ、いわゆる原福音であります。旧約聖書は、悪魔の頭を打ち砕く女の子孫が、アブラハムの子孫から生まれること、さらにはユダ族から生まれること、さらにはダビデの一族から生まれることを預言していきます。そして、新約聖書は、ついに、悪魔の頭を打ち砕く女の子孫がお生まれになったことを告げるのです。その女の子孫こそ、イエス・キリストであるのです。かつてアダムを誘惑して堕落させた悪魔が、今度はイエスさまを堕落させようと誘惑するのです。悪魔はイエスさまを誘惑して、罪を犯させ、神さまの御計画を台無しにしようとするのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の61ページです。

3 誘惑と試練

 サタンは、イエスさまを破滅させようと誘惑するのですが、その誘惑は神さまからの訓練でもありました。「誘惑する」と訳されている言葉(ペイラゾー)は「訓練する」とも訳されます。旧約聖書を読みますと、サタンは神さまと対等な者ではなく、神さまの御赦しの中で活動していることが分かります(ヨブ1章、2章)。ですから、ここでも、父なる神さまは、サタンがイエスさまを誘惑することを許可して、そのサタンからの誘惑を用いて、イエスさまを御自分の愛する子として、また、御自分の心に適う者として訓練されるのです。サタンからの誘惑は、父なる神からの訓練でもあるのです。同じことが、イエスさまを信じて、洗礼を受け、神の子とされた私たちにおいても言えます。サタンは、私たちを破滅させようと誘惑します。しかし、そのサタンの誘惑を用いて、父なる神さまは、私たちを御自分の愛する子として訓練してくださるのです。箴言の3章に、「かわいい息子を懲らしめる父のように/主は愛する者を懲らしめられる」とあるように、神さまは、私たちを愛するがゆえに、神の子にふさわしい者となるように訓練してくださるのです(箴言3:12、ヘブライ12:6参照)。

4 平和の王であるイエス

 イエスさまは、四十日間、荒れ野で、サタンから誘惑を受けられましたが、罪を犯すことはなかったようです。そのことが、13節後半の御言葉によって言い表されています。「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。新共同訳は、「野獣と一緒におられたが」と逆接に翻訳しています。他方、新改訳2017は順接に翻訳しています。「イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた」。元の言葉は、「カイ」という接続詞で、「そして」とも「しかし」とも訳すことができます。新共同訳は「しかし」と翻訳し、新改訳2017は「そして」と翻訳したのです。ですから、どちらの訳も正しいのですが、私としては、新改訳2017の翻訳、「イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた」という翻訳を取りたいと思います。野の獣は、人間に害を加える危険な存在であります。しかし、その野の獣(野獣)とイエスさまは共におられたのです。このことは、イザヤが預言していたメシアがもたらす平和の光景を思い起こさせます。イザヤ書の11章1節から8節までをお読みします。旧約の1078ページです。

 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。

 ここには、エッサイの若枝であるメシアによってもたらされる平和が、人間の世界だけではなく、動物の世界にもおよぶこと。また、人間と動物の間にも平和がもたらされることが預言されています。イエスさまが、40日間、野獣と共におられたという記述は、イザヤの預言した平和がイエスさまのまわりに実現していたことを示しているのです。そのようにして、マルコは、イエスさまが、イザヤが預言した平和の王であることを、私たちに教えているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の61ページです。

5 新しいアダムであるイエス

 13節の御言葉について、もう少し想い巡らしたいと思います。創世記の第2章を見ると、神さまがアダムのもとに、あらゆる生き物を連れて来たこと。そして、アダムがあらゆる生き物に名前を付けたことが記されています。罪を犯す前、エデンの園において、野の獣はアダムと一緒にいたのです。また、ユダヤ人の伝承によれば、エデンの園では、アダムとエバに、天使たちが仕えていました。そのような光景を記すことによって、マルコは、イエスさまを、新しいアダムとして描くのです(一コリント15:45「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです」参照)。マルコは、「その間、野獣と一緒におられ、天使たちが仕えていた」と記すことによって、イエスさまが新しいアダムであることを示しているのです。

結.勝利者としての歩み

 イエス・キリストは、40日間、荒れ野でサタンから誘惑を受けられ、その誘惑に勝利なされました。イエスさまは、神さまから愛されている子として、神さまの御言葉に従い、悪魔の誘惑に勝利されたのです(マタイとルカの並行箇所を参照)。イエスさまは、荒れ野の40日間だけではなく、その御生涯において、十字架の死に至るまで、神さまの御言葉に従い、サタンに勝利されたのです。神さまがエデンの園で蛇に言われた言葉、「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」という御言葉は、イエス・キリストの十字架の死において実現したのです(ヘブライ2:14「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし」参照)。ですから、イエス・キリストの民である私たちも、サタンに勝利しているのです。そのことは、私たちが、いつも神さまの御言葉に従い、悪魔の誘惑に勝利できるということではありません。私たちが体験として知っているように、私たちは、日ごとに、サタンの誘惑に負けて、罪を犯してしまいます。しかし、今朝、私たちがはっきりと覚えたいことは、そのような私たちであっても、王であるイエス・キリストにあって、悪魔に勝利しているということです(ヨハネ16:33「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」参照)。神さまは、私たちをイエス・キリストの民として、正しい者として受け入れてくださったし、受け入れてくださるのです。ですから、私たちは、サタンの誘惑に負けて罪を犯しても、イエス・キリストの名によって、罪を告白し、日々、神さまのもとへと立ち帰ることができるのです。それが私たちの勝利者としての歩みであるのです(一ヨハネ1:7~10参照)。

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