十二人を遣わすイエス 2020年11月01日(日曜 朝の礼拝)

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十二人を遣わすイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 6章6節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:6 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。マルコによる福音書 6章6節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(10月11日)、私たちは、イエスさまが故郷のナザレに行って、福音を宣べ伝えたこと。しかし、ナザレの人々は、イエスさまにつまずいたことを学びました。イエスさまは、人々が不信仰であったので、何人かの病人をいやされたほかは、何の奇跡(力ある業)を行うことができなかったのです。今朝の御言葉はその続きであります。

1.十二人を遣わすイエス

 イエスさまは、故郷ナザレの付近の村を巡り歩いてお教えになりました。イエスさまは、神の福音を宣べ伝え、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14、15参照)。イエスさまは、神の約束の時が満ち、御自分において、神の国(神の王的支配)が到来したこと。それゆえ、神さまに立ち帰り、御自分において到来した神の国を受け入れるようにと、教えられたのです。また、イエスさまは、そのしるしとして、人々の病をいやし、人々から悪霊を追い出されたのです。

 そして、イエスさまは、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされました。イエスさまが十二人を任命されたことは、第3章13節から19節に記されていました。新約の65ページです。

 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

 以前、このところから説教したときに、14節の「十二人を任命し」は、元の言葉を直訳すると「十二人をつくる」となるとお話ししました。イエスさまは、イスラエルの12部族にちなんで、新しいイスラエルとして12人という一つのグループをつくられたのです。そして、この12人を土台として、キリストの教会が建てられていくのです。また、イエスさまは、12人を使徒と名付けられました。使徒とは、「遣わされた者」という意味です(ヘブライ語のシャリアハ)。ユダヤでは、「遣わされた人は、遣わした人自身である」と言われていました。12人は、イエスさまの代わりに遣わされる代理人、権能を与えられた大使であるのです。14節の後半と15節に、イエスさまが12人をつくられた目的が記されています。「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」。イエスさまは、12人を御自分のそばに置いて寝食を共にされました。そのようにして、イエスさまは12人を教育(訓練)されたのです。12人は、イエスさまと生活を共にしながら、イエスさまの教えを聞き、イエスさまがなされたことを見たわけです。このイエスさまの弟子教育が一段落して、いよいよ、12人は、イエスさまから権能を与えられ、宣教するために遣わされるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の71ページです。

 イエスさまは、12人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わされました。12人ですから、二人一組ですと、六組(六ペア)になります。どうして、イエスさまは、二人一組で遣わされたのでしょうか。一人よりも安全だから、二人なら励まし合うことができるから、といろいろ考えることができます。『コヘレトの言葉』にも、次のように記されています。「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ」(コヘレト4:9、10)。イエスさまは、12人が助け合って労苦し、良い報いを受けるように、二人一組で、遣わされたのです。また、イエスさまが12人を二人一組で遣わされたのは、イエスさまにおいて神の国が到来したことを証言させるためでありました。ユダヤでは、「二人、または三人の証言は真実である」とされていました。『申命記』第19章15章には、次のように記されています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」。イエスさまから遣わされた二人は、自分たちを遣わされたイエスさまにおいて、神の国が来たことを証言したのです。また、その証言をより確かなものとするために、イエスさまは12人に、悪霊に対する権能を授けられたのです。

2.所持品と旅先での指示

 イエスさまは、12人を遣わすに当たって、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金(かね)も持たず、ただ履物は履くように、そして、「下着は二枚着てはならない」と命じられました。イエスさまは、旅には杖一本だけを持って、履物を履いて行けと命じられたのです。このイエスさまの命令は、ユダヤにおいて、旅人をもてなす習慣があったことを前提にしています。イエスさまが、パンも持って行ってはならないと命じられたのは、旅先の家で、パンを食べれることを期待してのことであったのです(ルカ11:5、6「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」参照)。しかし、そうは言っても、パンの一つか二つ、袋に入れて持って行きたいと思うのではないでしょうか。何か起こったときのために、帯の中にお金を入れておきたい、だれも家に迎え入れてもらえないことを考えて、下着を二枚着て行きたい、そのような備えをして旅に出たいと、普通は考えると思います。しかし、イエスさまは、杖一本だけを持って、履物を履いて、旅に出よと言われるのです。ちなみに、杖は、野獣や強盗から身を守るための最小限の防具であります。荒れ野を歩くのに、履物を履いていた方がよいことは言うまでもありません。そのような最小限の装備で、イエスさまは12人を遣わされるのです。それは、12人が神さまに依り頼んで歩むためでありますね。イエスさまは、『マタイによる福音書』の第6章で、弟子たちにこう言われました。「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:31~33)。このことを体験させるために、イエスさまは、弟子たちに、「杖の他は何も持たずに生きなさい」と言われたのです。また、杖の他は何も持たずに遣わされる使徒たち自身が、神さまだけに依り頼んで生きるというメッセージを発しているのです。

 続けて、イエスさまは、次のように命じられました。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」。これは、言い換えれば、「良い待遇を求めて、家から家へと渡り歩くな」ということです(ルカ10:7参照)。イエスさまは、12人に、ある村に入ったら、一つの家に留まり、そこを拠点として宣教するように命じられたのです。しかし、12人を迎え入れる家がないことも考えられます。そのようなことを想定してイエスさまは、次のように命じられるのです。「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようとしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」。当時、ユダヤ人は、異邦人の住む土地から、ユダヤの地に入るとき、足の裏の埃を払い落としました。ユダヤ人にとって、異邦人は汚れた民であり、その異邦人が住む土地は汚れた土地でありました。その汚れを、神さまの土地、聖地に持ち込まないために、足の裏の埃を払い落としたのです。このことを念頭に置くとき、「そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」というイエスさまの命令が、強烈なメッセージを持っていることが分かります。イエスさまが遣わされた12人を迎え入れず、彼らの言葉に耳を傾けない人たちの住むところは、異邦人の土地と同じ汚れた土地であると言うのです。イエスさまが12人を遣わされたのは、イスラエルの土地であり、そこに住んでいるのは、ユダヤ人です。しかし、神さまが王(メシア)とされたイエスさまの使徒たちを迎え入れないならば、その人は、自らを神の国から閉め出して、自らを異邦人(まことの神を知らない人)としてしまうのです。イエスさまは、『ヨハネによる福音書』の第13章20節で、こう言われました。「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。使徒たちを受け入れる人は、使徒たちを遣わされたイエスさまを受け入れ、イエスさまを受け入れることは、イエスさまを遣わされた神さまを受け入れることであるのです。ですから、12人を迎え入れるかどうか、12人の言葉に耳を傾けるかどうかは、まことに大きな決断であるのです。自分を神の民とするか、異邦人とするかのまことに大きな決断であるのです。

3.宣教する12人

 12人は、イエスさまから汚れた霊に対する権能を授けられ、所持品と旅先での指示を受けて、二人一組で出かけて行きました。そして、悔い改めさせるために宣教したのです。「悔い改める」とは、「神さまに立ち帰る」ことです(ヘブライ語のシューブ)。12人は、自分たちを遣わしたイエスさまにおいて、神の国が到来したこと。それゆえ、神さまに立ち帰って、イエスさまを信じるようにと宣べ伝えたのです(神に立ち帰ることとイエス・キリストを信じることは一つのこと)。そして、12人は、自分たちを遣わしたイエスさまにおいて神の国が到来したことのしるしとして、多くの人々から悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやしたのです。当時、油は医薬品として広く用いられていました(ヤコブ5:14参照)。そのような医薬品をも用いて、12人は癒やしの業をしたのです。

 さて、今朝の御言葉を私たちはどのように聞けばよいのでしょうか。伝道の一つの方法に、訪問伝道というものがあります。訪問伝道ということを考えれば、二人一組になって、訪問しなさい。その際、神さまだけに依り頼みなさいと適用することができます。しかし、今朝は、そのような適用ではなく、12人を土台とする使徒的な教会として、御言葉に聞きたいと思います(ニケア信条「私たちは、ひとつの聖なる公同の使徒的な教会を信じます」参照)。イエスさまが、12人を二人一組で遣わされたのは、ユダヤの社会において、二人、または三人の一致した証言が真実であると見なされたからでした。そこで思い起こしたいのは、『マタイによる福音書』の第18章20節の主イエスの御言葉であります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。この主イエスの御言葉は、礼拝を成り立たせる約束ですが、証言においても大切な約束であります。私たちは、イエスさまの名によって集まって、礼拝をささげています。そのようにして、イエスさまにおいて神の国は到来していることを証ししているのです(礼拝は伝道の場でもある)。そのことを証ししているのは、二人または三人を越える、それ以上の人数からなる私たちであります。さらには、聖霊と御言葉において、私たちのただ中におられるイエス・キリストご自身であるのです。そのようにして、イエスさまは、私たちがささげる礼拝を用いて、今も、人々から悪霊を追い出し、信じる者たちを起こしてくださるのです。また、私たち自身を、もう一度、神さまのもとへ立ち帰らせてくださるのです。

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