神の幕屋に宿る人 2020年10月25日(日曜 朝の礼拝)

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神の幕屋に宿る人

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 15編1節~5節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:1【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。
15:2 それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり
15:3 舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
15:4 主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。
15:5 金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。詩編 15編1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『詩編』の第15編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節に「賛歌。ダビデの詩」とあるように、第15編もイスラエルの王ダビデによって記された詩編であります。

 1節を読みます。

 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。

 ここで、ダビデは、「主よ」と呼びかけています。「主」とは「ヤハウェ」と発音されたであろう神さまの御名前であります。その昔、神さまは、ホレブの山で、モーセに、主、ヤハウェという御名前を示されました。主、ヤハウェとは、「わたしはある」「わたしはあなたと共にいる」という意味であります。主、ヤハウェという御名前の中に、「わたしはあなたと共にいる」という約束が含まれているのです。ダビデは、「主よ」と呼びかけ、「どのような人があなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか」と問います。「あなたの幕屋」と「聖なる山」は、どちらも神さまが臨在される場所を指しています。天上におられる神さまが、この地上に臨在される場所。それが「あなたの幕屋」であり、「聖なる山」であるのです。

 その昔、モーセの時代、神さまは、シナイ山に臨在されました。神さまは、シナイ山でイスラエルの民に十の言葉を与え、契約を結んで、御自分の宝の民とされたのです。また、神さまは、御自分のための聖なる所である幕屋を造るよう命じられました。神さまは、幕屋に臨在され、荒れ野をイスラエルの民と共に歩まれたのです(幕屋は移動式聖所)。

 ダビデの時代、神の幕屋(神の箱)は、エルサレムにありました(サムエル下6:17参照)。ダビデは、神殿を建てることは許されませんでしたが、息子のソロモンが神殿を建てることになります。それゆえ、ダビデの時代、「聖なる山」は、神の幕屋があるエルサレムの山であるのです。

 ダビデの問いの背後にあるのは、主と共にいたいという願いです。『詩編』の第84編に、こう記されています。「万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです」。そのような主の臨在を慕い求める思いから、ダビデは、「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか」と問うているのです。

 2節から5節前半までを読みます。

 それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり/舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。

 新共同訳は、2節の「心には真実の言葉があり」を3節の「舌には中傷をもたない人」と繋げて翻訳しています。けれども、新改訳2017は次のように翻訳しています。「全き者として歩み、義を行い、心の中の真実を語る人」。こちらの翻訳の方がよいと思います。主の幕屋に宿ることができるのは、全き者として歩み、義を行い、心の中の真実を語る人であるのです。

 その昔、神さまは、アブラハムにこう言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」(創世17:1)。この御言葉を念頭に置くとき、全き者として歩むとは、神さまに従って歩むことであることが分かります。「完全な道を歩く」とは、「神さまに従って生きる」ことであるのです。また、「正しいことを行う人」の「正しいこと」とは、神さまの御前に正しいことであります。「完全な道を歩く」ことも、「正しいことを行う」ことも神さまの御意志の表れである律法(トーラー)を抜きにして考えることはできません。「完全な道を歩き、正しいことを行う」とは、主の御意志である律法に従って歩み、律法を守ることであるのです。また、神さまの幕屋に宿る人には、心の中で真実を語ることが求められます。神さまは、心を見られる御方でありますから、その幕屋に宿る人には、心の中で真実を語ることが求められるのです。

 また、主の幕屋に宿る人は、舌に中傷をもたず、友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人です。新共同訳は「友に災いをもたらさず」と訳していますが、新改訳2017は「友人に悪を行わず」と訳しています。こちらの方が元の言葉に近いです。神の幕屋に宿る人は、舌で人を中傷しないことが求められます。「中傷」とは根拠のない悪口をいいふらして、他人の名誉を傷つけることです。また、幕屋に宿る人は、親しい人を嘲ることもしません。神の幕屋に宿る人は、悪い言葉を一切口にしないで、人を造り上げる言葉を必要に応じて語る人であるのです(エフェソ4:29参照)。

 また、主の幕屋に宿る人は、「主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊ぶ人」でもあります。主の幕屋に宿る人は、神さまを物事の判断基準にするのです。自分がどう思うかよりも、神さまがどう思われるかを、自分の判断基準とするのです。自分の目にかなうものであっても、神さまの目にかなわないものは退ける。また、神さまが「御自分を重んじるものを重んじる」ゆえに、主を畏れる人を尊ぶのです(サムエル上2:30参照)。私たちでしたら、共に礼拝をささげている主にある兄弟姉妹を尊ぶのです。

 また、神の幕屋に宿る人は、「悪事をしないとの誓いを守る人」でもあります。このところを、新改訳2017は、「損になっても、誓ったことは変えない」と翻訳しています。「悪事」が自分に対する悪事、損、不利益であっても誓いを守る人が、神の幕屋に宿る人であるのです。誓う人は、神の御名によって誓うわけですから、たとえ自分が損をしても、その誓いを果たすべきであるのです。ここで求められていることは、神と人に対する誠実であります。

 また、神の幕屋に宿る人は、「金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人」でもあります。『出エジプト記』の第22章24節に、こう記されています。「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない」。また、『出エジプト記』の第23章8節に、こう記されています。「あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである」。主の幕屋に宿る人は、このような神さまの掟を守り、社会的正義を行う人であるのです。

 少し脇道にそれるかも知れませんが、聖書は利子一般を否定しているのでしょうか。どうもそのようには言えないようです。兵庫県の園田教会の長老で、関西学院大学経済学部の教授であった故・山本長老は、『問いかける 聖書と経済』という書物の中で次のように記しています(83ページ)。「ここ(出エジプト22:24、申命23:20-21、箴28:8)では、利子一般が否定されているとはいえない。ここでは区別されていないが、利子は生活に必要な借入に伴う『消費利子』と、生産の元手(資本)として借り入れる『生産利子』に分けられる。ここには、専ら前者の『消費利子』について、とりわけ生活に困窮している人からの利子取得が禁じられている。・・・新約聖書では、イエスは『ムナのたとえ』話の中で、次のように利子を肯定している。(ルカ19:12-27)」。故・山本長老によると、聖書が禁じているのは、生活に困窮している人から取り立てる消費利子であるのです。

 また、私たちが旧約の律法を読むとき気をつけたいことは、その掟が、道徳律法、儀式律法、司法的律法のどれに当てはまるかということです。『ウェストミンスター信仰告白』の第19章は、「神の律法について」記しています。神の律法は、大きく三つに分けられます。それは、道徳律法と儀式律法と司法的律法です。道徳律法とは、十戒のような掟のことです。儀式律法とは、動物犠牲に伴う掟です。司法的律法とは、政治体としてのイスラエルに与えられた掟です。道徳律法は、今も有効であります。儀式律法は、イエス・キリストにおいて廃止されました(ヘブライ書参照)。司法的律法は、神の民としての国家の終わりと共に無効となり、今は一般的公正さが要求されているだけです(ウ告白19章4節「政治的統一体としてのイスラエルの民に、神はまた、さまざまな司法的律法を与えられたが、それらは、その民の国家とともに無効となった。それで、それらは今、そこに含まれている一般的公正さが要求する以上のことを他のいかなる民にも義務づけることはない」参照)。このように、私たちが旧約の律法を読むとき、それが道徳律法なのか、儀式律法なのか、司法的律法なのかを考えて読む必要があるのです。

 先程の『出エジプト記』の掟、「貧しい者に対して高利貸しのようになってはならない」、「賄賂を受け取って判決を曲げてはならない」という掟は、司法的律法でありますが、そこから導き出される、「貧しい人を虐げてはならない」「正義を歪めてはならない」という一般的な公正さは、私たちにも要求されているのです。

 5節の後半を読みます。

 これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。

 ダビデが、「とこしえに揺らぐことがない」と記すとき、それは、神さまによって、とこしえに揺らぐことがない者としていただけるということです。今朝の御言葉は、「主の幕屋に宿る人はどのような人であるのか」だけではなく、「主によって堅く立つ人はどのような人であるのか」をも教えています。そして、この二つのことは、切り離すことのできない一つのことであるのです。

 さて、私たちは、この詩編をどのように解釈したらよいのでしょうか。その手がかりとして、初代教会の解釈を紹介したいと思います。初代教会は、この詩編を、イエス・キリストが完全な人間の生涯を全うされて、父なる神が臨在される天へと入って行った召天と結びつけて解釈しました。イエス・キリストは、これらのことを完全に守り、神のおられる天そのものに入り、とこしえに揺らぐことのない者とされました。イエス・キリストは天の父なる神の右の座に着かれ、王たちの王、主たちの主とされたのです。そのイエス・キリストにあって、私たちも神の掟に従い、神の掟を守り、心の中に与えられた真実な言葉を語る者とされているのです。私たちは、イエス・キリストにあって、神の幕屋に宿る者としてされている。イエス・キリストの名によって集まって礼拝をささげるとは、そういうことです。なぜなら、イエス・キリストこそが、神さまが臨む贖いの蓋であるからです(出エジプト25:22「わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る」、ローマ3:25「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者たちに罪を償う供え物となさいました」参照。罪を償う供え物(ヒラステーリオン)の別訳は「贖いの座」である。聖書協会共同訳「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました」参照)。もっと言えば、私たち自身が神の幕屋とされているのです(一コリント6:19「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」参照)。そのような神の幕屋(神殿)として、私たちは正しいことを行い、真実な言葉を語ることが求められているのです。イエス・キリストを信じる私たちにとって、完全な道を歩き、正しいことを行うとは、キリストの律法に従って、神と人とを愛して生きることです。また、心にある真実な言葉を語るとは、自分が神の御前に罪人であり、イエス・キリストはその自分の救い主であることを告白することです(神が人間から最も聞きたい言葉)。そのようにして私たちは、神さまに完全に従われたイエス・キリストに従って歩むのです。

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