善を行う者はいない 2020年9月27日(日曜 朝の礼拝)

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善を行う者はいない

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 14章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:1 【指揮者によって。ダビデの詩。】神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
14:2 主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
14:3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
14:4 悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい/主を呼び求めることをしない者よ。
14:5 そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。
14:6 貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても/主は必ず、避けどころとなってくださる。
14:7 どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。詩編 14章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『詩編』の第14編から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。1節に、「指揮者によって。ダビデの詩」とあるように、第14編は、ダビデによって記された詩編であります。

 1節を読みます。

 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。

 「神を知らぬ者」と訳されている元の言葉は「ナーバール」で、直訳すると「愚か者」となります(サムエル上25:25参照)。「愚か者は心の中で言う/『神などない』と」と記されているのです(聖書協会共同訳)。愚か者とは、心の中で「神などない」と言う者であるのです。「神などない」とは、神は存在しないという主張ではありません。神が存在しても、自分の生活には何の影響も及ぼさないという主張であります。『エレミヤ書』の第5章12節と13節に、次のように記されています。

 彼らは主を拒んで言う。「主は何もなさらない。我々に災いが臨むはずがない。剣も飢饉も起こりはしない。預言者の言葉はむなしくなる。『このようなことが起こる』と言っても実現はしない。」

 また、『ゼファニヤ書』の第1章12節にも、次のように記されています。

 そのときが来れば、わたしはともし火をかざしてエルサレムを捜し/酒のおりの上に凝り固まり、心の中で「主は幸いをも、災いをもくだされない」と言っている者を罰する。

 愚か者とは、心の中で、「神は何もなされない。幸いをも、災いをもくだされない」と言う者であるのです。神を信じていると言いながら、その神が自分に対して何もなされない神であるならば、それは「神などない」と言っているのと同じあるのです。ですから、『ヘブライ人への手紙』は、第11章6節で、こう記しているのです。

 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

 神さまは、御自分を求める者たちに報いてくださる御方である。そのような信仰をもって神さまを礼拝することが私たちに求められているのです。

 「神などない、神は何もなされない」との心の思いは、人々を腐敗させます。そして、神さまが嫌われる忌むべき行いをするのです。「神などない」と心に言う者が、善を行うことはありえません。なぜなら、善とは、神さまが喜ばれることであり、その動機付けは、神さまからいただく報いであるからです。

 2節と3節を読みます。

 主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。

 イスラエルの神、主(ヤハウェ)は、天から人の子らを見渡し、目覚めた人、神を求める人はいないか、と探されます。「目覚めた人」と訳されている言葉(マスキール)は直訳すると「賢い人」となります。愚かな人が「神などない」と言うのに対して、賢い人は、神を求めるのです。しかし、主が目にされたのは、背き去って、汚れた行いをする民の姿でありました。善を行う者はいない。ひとりもいないのです。これは、ダビデの嘆きの言葉でもありますね。神の民であるイスラエルが、神を求めずに、汚れた行いをしている。イスラエルの民の中に、善を行う者をひとりも見出すことができない。それほどまでに、イスラエルの民は堕落してしまっているのです。

 4節から6節までを読みます。

 悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい/主を呼び求めることをしない者よ。それゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても/主は必ず、避けどころとなってくださる。

 「悪を行う者」とは、「神などない」と心に言う愚かな者のことでしょう。そうすると、悪を行う者が知っているはずのことが何であるかが分かってきます。ダビデは、「悪を行う者も、本当は、神がおられること、神がそれぞれの業に応じて報いられることを知っているはずではないか」と言うのです(ローマ2:15参照)。

 ここでの「悪を行う者」は、どうやら民の上に立つ指導者たちのようです。『ミカ書』の第3章1節から4節までに、こう記されています。

 わたしは言った。聞け、ヤコブの頭たち/イスラエルの家の指導者たちよ。正義を知ることが、お前たちの務めではないのか。善を憎み、悪を愛する者/人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る者らよ。彼らはわが民の肉を食らい/皮をはぎ取り、骨を解体して/鍋の中身のように、釜の中の肉のように砕く。今や、彼らが主に助けを叫び求めても/主は答えられない。そのとき、主は御顔を隠される/彼らの行いが悪いからである。

 民の指導者たちは、パンを食らうかのように、主の民を搾取しておりました。そうしますと、この詩編は、ダビデが王として即位する前、サウル王の時代に記されたものと言えそうです。悪を行う指導者たちは、主を呼び求めることをしませんでした。「主を呼び求める」とは「主を礼拝する」ということです。神などない、神は何もなされないと心の中で言い、悪を行う者は、当然、主を礼拝することをしません。しかし、その彼らが大いに恐れることになります。なぜなら、神は従う人々の群れにおられるからです。悪しき者は、神が従う人々の群れの只中におられることを知って、大いに恐れるのです。ここでの「従う人々」は「正しい者」とも訳されるツァディークという言葉です(口語訳、新改訳参照)。ダビデはこれまで「善を行う者はいない」と記してきましたが、ここでは「神は正しい者の群れにいます」と記します。ダビデは、正しい者の群れに属する一人として、「神は正しい者の群れにいます」と記すのです。このことを、私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。「善を行う者はいない。ひとりもいない」という御言葉と、「神は正しい者の群れにいます」という御言葉との関係をどのように理解したらよいのか。私たちは、その答えを、イエス・キリストの使徒パウロから教えられたいと思います。パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第3章9節から12節でこう記しています。新約の276ページです。

 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」

 ここで、パウロは、詩編14編を引用して、すべての人が罪人であると記しています。そして、そのパウロが、第3章23節で、こう記すのです。

 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 「善を行う者はいない」という御言葉と、「神は正しい者の群れにいます」という御言葉との関係を解く鍵は、「人はただイエス・キリストの贖いによって無償で義とされる」という福音にあるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の845ページです。

 ダビデが、「神は正しい者の群れにいます」と記すとき、その「正しい者」とは、来たるべきメシア、救い主を待ち望む人々のことを指しています。イエスさまがお生まれになる前に生きた、旧約時代の人々は、来たるべきメシア、救い主への信仰によって正しい者とされ、救われたのです(ヘブライ11章参照)。ダビデは、悪しき者たちが、貧しい人の計らいを挫折させても、主は必ず避けどころとなってくださると歌います。主の正しい裁きを信じて、主を呼び求める私たちを、主は決してお見捨てになることはありません。主が私たちの避けどころ、逃れ場となってくださるのです。

 7節を読みます。

 どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。主が御自分の民、捕らわれ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び踊り/イスラエルは喜び祝うであろう。

 ダビデは、「どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように」と願います。シオンとは、エルサレムのことであり、神の契約の箱がある場所です。後に、神殿が建てられ、主が御自分の名を置かれると言われた場所であります。そのシオンからイスラエルの救いが起こるようにとダビデは願うのです。これは、主がイスラエルの民を救ってくださるようにという願いでありますね。その主の救いが具体的に、「主が御自分の民、捕らわれ人を連れ帰られる」と記されています。しかし、元の言葉を見ると、必ずしも、捕囚からの帰還を意味しているわけではありません。聖書協会共同訳では、「主が民の繁栄を回復されるとき」と翻訳しています。「神などない」と心に言って、忌むべき行いをしているイスラエルが、どのようにして主の民としての繁栄を回復することができるのか。それは、主イエス・キリストが、エルサレムにおいて、十字架の死を死んでくださり、復活してくださることによってであるのです。そのとき、神の民であるイスラエルは喜び祝うのです。私たちは、週の初めの日の日曜日の朝に、イエス・キリストの御名によって集まり、礼拝をささげています。そのようにして、主イエス・キリストが成し遂げてくださった救いを、私たちは喜び祝っているのです。私たちは、神に背いた、汚れた者たちでありましたが、イエス・キリストを信じる信仰によって、神に従う、正しい者としていただきました。そのようにして、私たちは神の栄光をあらわすために生きるまことの人間として回復されたのです。

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