なぜ怖がるのか 2020年9月06日(日曜 朝の礼拝)

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なぜ怖がるのか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 4章35節~41節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36
そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。マルコによる福音書 4章35節~41節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『マルコによる福音書』の第4章35節から41節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 35節と36節を読みます。

 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。

 「その日」とは、イエスさまがたとえで群衆を教えられた日のことであります。イエスさまは、舟に乗って腰を下ろし、湖の上から、湖畔にいるおびただしい群衆にたとえを用いて教えられました。そして、夕方になったので、イエスさまは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われたのです。どうして、イエスさまは、このように言われたのでしょうか。ある研究者は、向こう岸に渡るしか、群衆から離れることができなかったからだと説明しています。ともかく、弟子たちは、群衆を後に残し、イエスさまを舟に乗せたまま、向こう岸へと漕ぎ出すのです。

 37節と38節を読みます。

 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。

 弟子たちが舟で渡っているのは、ガリラヤ湖です。ガリラヤ湖は、南北最大20キロメール、東西最大12キロメートルの大きな湖です。ガリラヤ湖は、普段は穏やかな湖ですが、谷から吹き下ろす強風のため天候が急変することがありました。この時もそうでありまして、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどでありました。弟子たちの中には、ガリラヤ湖で漁師をしていた者もおりました。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの四人は漁師であったのです。しかし、この時は、彼らの手にも負えないほどの嵐であったのです。この光景を想像すると、本当に怖いと思うのですね。時は、夕方、夜です。真っ暗なのです。そして、場所は、湖の上、舟は激しく揺れており、水が舟の中に入って来ている。まさに、死の一歩手前という感じです。しかし、イエスさまは、舟の後ろの方で、枕して、眠っておられました。弟子たちは、そのイエスさまを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。『新共同訳』は、「おぼれてもかまわないのですか」と意訳していますが、元の言葉を直訳すると「滅びてもかまわないのですか」となります。弟子たちは、嵐の中で眠っているイエスさまを起こして、「先生、私たちが滅びてもかまわないのですか」と言ったのです。

 39節から41節までを読みます。

 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 イエスさまは、起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。第1章25節に、イエスさまが悪霊を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われたことが記されていました。イエスさまは、悪霊を叱られたように風を叱られます。また、悪霊に「黙れ」と言われたように、湖に「黙れ」と言われるのです。このことは、吹き荒れる風や波立つ湖の背後に、悪霊の力があると考えられていたことを暗示しています(単なる自然現象としては描いていない)。「湖」と訳される言葉(サラッサ)は「海」とも訳せます。聖書において、海は「死者の領域」であります。『ヨハネの黙示録』の第21章に、「新しい天と新しい地」の幻が記されていますが、そこには「もはや海もなくなった」と記されています。それは、海が死と陰府に通じる死者の世界であるからです(黙示20:13「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた」参照)。その死者の領域である海が、イエスさまと弟子たちが乗っている舟を、口を開いて飲み込もうとしていたわけです。しかし、イエスさまは、風を叱り、海に「黙れ、静まれ」と言われました。すると、風はやみ、すっかり波がおだやかになったのです。そして、イエスさまは、弟子たちにこう言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。イエスさまは、「怖かっただろう。もう大丈夫だよ」と言われたのではありません。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われたのです。このイエスさまの言葉は、「信じている者は、怖がらない」ことを前提にしています。イエスさまが、「まだ信じないのか」と言われたとき、何を信じないのかと言われたのでしょうか。それは、イエスさまにおいて、神の王国(王的な支配)が到来しているということです。弟子たちは、そのことを体験してきたわけです。イエスさまの権威ある言葉を聞くことによって、また、イエスさまの癒しの御業と悪霊追放の御業を見ることによって、さらには、イエスさまのたとえ話とその解き明かしを聞くことによって、彼らは、イエスさまにおいて神さまの王国が到来していることを体験して来たのです。神さまの王的な御支配は、イエスさまにおいて到来している。そのイエスさまが共におられるのですから、弟子たちは怖がる必要などなかったのです。 

 確かにそうなのですが、弟子たちが怖がったのもよく分かります。なぜなら、イエスさまは眠っておられたからです。自分たちが滅んでしまいそうであるのにもかかわらず、イエスさまは眠っておられる。眠っておられるイエスさまは、役に立たない。そう彼らは考えたて、イエスさまを叩き起こして、「先生、わたしたちが滅びてもかまわないのですか」と文句を言ったのです。これは、「わたしたちが滅びることがないように、何とかしてください」ということでありましょう。弟子たちは、イエスさまに、風を叱って、海を黙らせてくださいとは、頼んでいません。そのようなことは、弟子たちの想定外です。弟子たちは、イエスさまがそのようなことができるとはまったく考えていなかったのです。ですから、弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言ったのです。聖書において、風や海を従わせることができるのは、神さまだけです。『詩編』の第89編9節と10節にこう記されています。旧約の926ページです。

 万軍の神、主よ/誰があなたのような威力を持つでしょう。主よ、あなたの真実は/あなたを取り囲んでいます。あなたは誇り高い海を支配し/波が高く起これば、それを静められます。

 イエスさまが、風や海さえも従わせられたことは、イエスさまが、神と等しい御方、神の御子であることを示しています。しかし、弟子たちは、そこまで思いが至っていません。ですから、彼らは、非常に恐れて(直訳では大きな恐れを恐れて)「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言ったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の68ページです。

 今朝、御一緒に覚えたいことは、私たちと共にいてくださるイエス・キリストは、風や湖さえも従わせることができる神その方であるということです。イエスさまは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました(マタイ18:20)。イエスさまは、目には見えませんが、聖霊と御言葉において、私たちと共にいてくださいます。そのイエスさまは、風や海を従わせることのできる御方、悪魔的な力や死の力に打ち勝つことのできる御方であるのです。そのイエスさまが共にいてくださるにもかかわらず、私たちは怖がります。「私たちが滅びてもかまわないのですか」と不平を言うのです。そのように、まるで信仰がないかのように振る舞ってしまうのです。それが私たちの姿ではないでしょうか。コロナ禍という嵐の中にいる私たちの姿ではないでしょうか。しかし、そのような私たちにイエスさまは、十字架の死から復活された御方として、こう言われます。「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか」。そのように、イエスさまは、私たちの眠っている信仰を呼び覚ましてくださるのです。眠っているのは、イエスさまではありません。私たちの信仰です。私たちの信仰が眠っていて、まるでイエスさまが共におられないかのように、滅びの力に圧倒されてしまうのです。しかし、そのような私たちに、イエスさまは、「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と声を掛けてくださいます。私たちが、主イエス・キリストを信じて、平安に生きることができるように、イエスさまは、今朝、私たちに声をかけてくださったのです。

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