主よ、いつまでですか 2020年8月30日(日曜 朝の礼拝)

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主よ、いつまでですか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 13編1節~6節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】
13:2 いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
13:3 いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。
13:4 わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え/わたしの目に光を与えてください/死の眠りに就くことのないように
13:5 敵が勝ったと思うことのないように/わたしを苦しめる者が/動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。
13:6 あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/「主はわたしに報いてくださった」と。詩編 13編1節~6節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『詩編』第13編から、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。1節に、「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩」と記されています。第13編は、主によって油を注がれてイスラエルの王とされた、ダビデの詩編であるのです。

 2節と3節を読みます。

 いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。

 ダビデは、「いつまで」という言葉を4回記しています。ダビデは、長い間、苦難の中にいるようです。このとき、ダビデがどのような苦難の中にいたのかは分かりません。大きな病を患っていたのかも知れませんし、敵によって苦しめられていたのかも知れません。ともかく、ダビデは、長い間、苦しみの中にいるのです。その苦しみの中から、ダビデは、「いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか」と嘆くのです。「主」とは、ヤハウェと発音されたであろう神さまの御名前であります。神さまは、その昔、ホレブの山で、モーセに、主、ヤハウェという名を示されました。主、ヤハウェとは、「わたしはある」「わたしはあなたと共にいる」という意味の御名前であります。主、ヤハウェという御名前の中に、「わたしはあなたと共にいる」という約束が含まれているのです。しかし、長い間、苦しみの中にいるダビデには、主が共におられるとは、到底思えないのです。ダビデには、主が自分を忘れている。主は自分に御顔を隠しておられるとしか、思えないのです。ですから、ダビデは、「いつまでですか」と問うのです。ダビデが、主は自分を忘れておられる。主は御顔を隠しておられると考えるのは、主が自分を苦難から助け出してくださらないからです。ダビデが患っている病を癒してくださらない。あるいは、ダビデに敵対する者を裁いてくださらない。それゆえ、ダビデの魂は思い煩い、心は日々、嘆くのです。そのようなダビデに対して、敵はおごり高ぶるのです(新改訳2017参照)。ダビデは、神さまとの関係において、また、自分との関係において、さらには、他人との関係において、苦しみの中にありました。「いつまでですか」と問わずにおれないほど、長い間、苦しみの中におかれていたのです。その苦しみの中で、ダビデはこう願うのです。

 4節と5節を読みます。

 わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え/わたしの目に光りを与えてください/死の眠りに就くことのないように/敵が勝ったと思うことのないように/わたしを苦しめる者が/動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。

 ダビデは、「わたしの神、主よ」と呼びかけます。このダビデの言葉の背後には、主なる神と、神の民イスラエルとの契約関係があります。主は、イスラエルの民を、奴隷の家エジプトから導き出されました。そして、シナイ山で、イスラエルの民と契約を結び、御自分の宝の民とされたのです。主は、シナイ山で、十の言葉を告げられましたが、その出だしは次のような言葉です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。ここで神さまは、「わたしは主、あなたの神」と言われました。イスラエルの民にとって、神はいつも共にいてくださる主であり、「わたしの神」と呼べる御方であるのです。同じことが、主イエス・キリストにあって、神の民とされた私たちにも言えます。私たちは、主イエス・キリストを信じる新しい契約の民として、神さまを「わたしの神、主よ」と呼ぶことができるのです。さらには、主イエス・キリストにある神の子として、「私たちの父なる神よ」と親しく呼ぶことができるのです。

 ダビデは、「顧みて、わたしに答えてください」と祈ります。この願いは、2節の嘆きと対応しています。ダビデは、「いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか」と嘆いておりました。その嘆きを吹き払うように、「わたしの神、主よ、わたしに目を注ぎ、わたしに答えてください」と願うのです(新改訳2017参照)。また、ダビデは、「わたしの目に光りを与えてください/死の眠りに就くことのないように」と願います。「目に光を与える」とは、活力を与えることです(サムエル上14:27参照)。ここでは、「死の眠りに就くことのないように」とありますから、ダビデは、死の危険のある大きな病を患っていたのかも知れません。新改訳2017は、このところを次のように翻訳しています。「私の目を明るくしてください。私が死の眠りにつかないように」。私たちは、周りが明るいとなかなか眠ることができません。ですから、電気を消して、暗くして眠ります。しかし、ここでダビデは、自分が死の眠りにつかないように、自分の目を明るく照らしてください、と願うのです。その光とは、主による癒しであり、主から賜る上からの力であるのです。この願いは、3節前半の嘆きに対応しています。ダビデは、「いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか」と嘆いていました。ダビデは、主が目に光りを与えることによって、思い煩いや日々の嘆きから解放してくださるようにと願うのです。

 5節に、「敵が勝ったと思うことのないように/わたしを苦しめる者が/動揺するわたしを見て喜ぶことのないように」と記されています。ここでの敵は、「ダビデの敵」ですが、同時に、「ダビデの神である主の敵」でもあります。特に、ダビデは、主によって油を注がれた王ですから、ダビデの敵は、主の敵でもあるのです。ダビデが、「わたしに目を注いで答えてください。わたしの目を照らしてください」と祈るのは、自分に向かって誇る敵をだまらせるためでもあります。ダビデは、「自分を苦しめる敵たちが勝ったと思うことがないように、動揺する自分を見て喜ぶことがないように」、主よ、わたしに目を注ぎ、答えてくださいと祈るのです。

 6節を読みます。

 あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び踊り/主に向かって歌います。「主はわたしに報いてくださった」と。

 ダビデは、長い間、苦しみの中におりました。そのダビデが、「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか」と嘆くことができたのは、なぜでしょうか。また、「わたしの神、主よ、顧みてわたしに答えてください」と祈ることができたのは、なぜでしょうか。それは、ダビデが、主の慈しみに依り頼む者であるからです。ここで「慈しみ」と訳されているヘブライ語は「ヘセド」という言葉です。ヘセドは契約に誠実な愛を表します。ダビデが主の慈しみ、ヘセドに依り頼むことができるのは、主が契約に誠実な愛なる御方であるからです。主の慈しみに依り頼むダビデの心は、病が癒されたかのように、喜び踊ります。そして、主に向かってこう歌うのです。「主はわたしに報いてくださった」。ダビデの祈りは、「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか」という嘆きから始まりました。しかし、その祈りは、主の慈しみに依り頼む信仰の告白と賛美によって閉じられるのです。それは、主がダビデの祈りに答えて、祈りの中で、ダビデの目に光りを、生きる力を与えてくださったからです。ダビデの病はまだ癒されていません。しかし、祈りの中で、ダビデは、主が自分を救ってくださるとの確信を与えられたのです。そのようにして、ダビデの目に光が与えられたのです。

 祈り始めのダビデと祈り終えるダビデとでは、まったく別人のようです。祈り(礼拝)とは、そのように、私たちを大きく変える出来事であるのです。それは、祈り(礼拝)の中で、神さまが私たちと共におられる主として出会ってくださるからです。主は、祈り(礼拝)の中で、私たちの信仰を目覚めさせ、私たちの目に光を与えてくださるのです。

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