神が大きく成長させてくださる 2020年8月16日(日曜 朝の礼拝)

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神が大きく成長させてくださる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 4章26節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。マルコによる福音書 4章26節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 マルコによる福音書の第4章には、イエスさまのたとえ話がまとめて記されています。イエスさまは、たとえを用いて神の国の秘密(奥義)を教えられました。「種を蒔く人のたとえ」で教えられた神の国の秘密(奥義)、それは「神の国の祝福にあずかる人は、神の言葉を聞いて受け入れる人である」ということでした。また、イエスさまは、「ともし火のたとえ」で、「神の国が御自分において到来したこと。御自分において到来した神の国はあらわにされ、公にされねばならない」という神の国の秘密(奥義)を教えられました。ともし火を置く燭台、それはゴルゴタの十字架であり、私たち教会であるのです。これらの神の国の秘密(奥義)を踏まえて、今朝は、「成長する種のたとえ」と「からし種のたとえ」を御一緒に学びたいと思います。

 26節から29節までを読みます。

 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 このたとえの要点は、「神の国は人の働きを用いて、神が成長させてくださる」ということです。ここでの種は、「種を蒔く人のたとえの説明」にあったように、「神の言葉」であると理解してよいと思います。私たちには、神の言葉、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることが命じられています。それは、イエス・キリストの福音を聞いて受け入れた人が、神の国の祝福にあずかるためです。では、私たちは福音を聞いた人に、受け入れさせることができるでしょうか。イエス・キリストの福音を語って、聞いた人を信じさせることができるでしょうか。できません。それをしてくださるのは、神さまです。28節に、「土はひとりでに実を結ばせる」とありますが、これは言い換えれば、「神さまが実を結ばせる」ということです。イエス・キリストにおいて到来した神の国は、どのようにして成長していくのか。それはイエス・キリストの弟子たちが、神の国の福音を宣べ伝えることによってであります。そして、福音を聞いた人の心に、神さまが働いてくださることによってであります。

 人は種を蒔いてしまえば、その種に対して何もできません。夜昼、寝起きして、芽が出るのを待つだけです。それは「土がひとりでに実を結ばせる」とあるように、神さまが成長させてくださることを信じているからです。ここに、神の国の福音を宣べ伝える私たちの平安があります。私たちは、神さまのお働きを信じて、種を蒔けばよいのです。

 イエスさまは、神の国を「成長する種」にたとえられました。「伸展」とか「拡張」という言葉ではなくて、「成長」という言葉を用いました。それは、神の国が命の支配であるからです。神さまは命の造り主、命の命であります。その神さまの王国は、命の王国であるのです。神さまの御言葉は、まさに命の御言葉であります。種のうちに命が含まれているように、神の言葉のうちに命が含まれているのです。ですから、私たちは、「種を蒔く人のたとえ」のように、気前よく種を蒔けばよいのです。この人は、「信じそうにないなぁ」と神の言葉を語るのをためらうのではなく、神の言葉の持つ命の力に信頼して、大胆に御言葉を宣べ伝えればよいのです。その後のことは、神さまのなさることです。私たちは、自分のできることをして、あとは神さまにおゆだねすればよいのです。そのことは、使徒パウロが記していることでもあります。パウロは、『コリントの信徒への手紙一』の第3章で次のように記しています。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。神の国を成長させてくださるのは神さまです。そのことを信じて、私たちは神の言葉を、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていきたいと願います。

 神の国の成長というとき、具体的には教会の成長のことを考えると思います。と言いますのも、神の国の中心的な現れは教会であるからです。教会(エクレーシア)は、神に召し出された者たちの集いを意味します。イエス・キリストの御名によって集まり、礼拝をささげている私たちが教会(エクレーシア)であるのです。教会の成長には、質的な成長と量的な成長の二つの面があると思います。最初に、質的な成長、信徒一人一人が信仰者として成長することを考えてみたいと思います。成長する種のたとえは、私たち一人一人における神の国の成長のことを教えています。私たちは礼拝において、神の言葉を聞きます。私たちの心には御言葉という種が蒔かれているのです。その御言葉を、私たちの内で成長させてくださるのは神さまです(一番分かりやすいのが信仰告白)。私たちは信仰者として成長させていただき、聖霊の実を結ぶ者とされているのです。聖霊の結ぶ実とは愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です(ガラテヤ5:22、23参照)。そのような聖霊の実を結ぶ者として、私たちは成長させていただいているのです。御言葉を共に聞いている兄弟姉妹との主にある交わりの中で、成長させていただいているのです。

 30節から32節までを読みます。

 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 このたとえの要点は、「小さなはじまり、大きな終わり」です。からし種は一ミリほどの小さなものですが、土に蒔いて成長すると、3メートルほどの木になります。一ミリほどのからし種が、葉の陰に鳥が巣を作れるほどの大きな枝を張るのです。イエスさまにおいて到来した神の国は、最初は小さなものでした。イエスさまの弟子たちは12人であったのです。その12人に、復活されたイエスさまは、こう言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18~20)。弟子たちは、イエスさまの命令に従って、福音を宣べ伝えました。『使徒言行録』を読むと、福音がユダヤとサマリアで、さらには小アジア、ヨーロッパ、ローマで宣べ伝えられたことが記されています。イエス・キリストにおいて到来した神の国は、全世界へと広がり、多くの人々に祝福をもたらしたのです。神の国が大きく成長したことは、神の国の中心的な現れである教会が世界中にあることからも分かります。日本においても神の国は大きく成長しています。

 2009年に、日本プロテスタント宣教150周年を迎えました。1859年に、宣教師が来日してから、日本のプロテスタント宣教は始まりました。その頃、キリスト教は禁じられており、信じている者は死刑とされました。そのような中で、福音宣教は始まったのです。彼らは直接、聖書を教えることはできませんでしたので、医療や教育を通して、福音を証ししました。また、聖書を日本語に翻訳することにより、福音宣教の準備をしたのです。1889年に『大日本帝国憲法』が発布され、制限付きではありますが、信教の自由が与えられます。宣教師たちによって福音が宣べ伝えられ、日本にもキリストの教会がたてられました。外国から来た宣教師たちの働きのうえに、私たち日本の教会はたっているのです。神さまは、宣教師たちの語る神の言葉を用いて、日本においても神の国を大きく成長させてくださったのです。

 日本キリスト改革派教会のことを考えてみましても、創立された1946年は200名ほどの会員でした。しかし、現在は、5000人ほどの現住陪餐会員になりました。

 私たち羽生栄光教会はどうでしょうか。設立された1979年12月30日の現住陪餐会員は5名でした。しかし、今、現住陪餐会員は31名です。これは、教会の量的な成長でありますね。教会の成長は、一人一人が信仰者として成長していく質的な成長と、人数が増えていくという量的な成長があります。そのような成長を、私たちは自分たちの教会の交わりとその歴史においても確認することができるのです。 

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