種を蒔く人のたとえ 2020年8月02日(日曜 朝の礼拝)

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種を蒔く人のたとえ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 4章1節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
4:10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
4:12 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」
4:13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
4:14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
4:15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
4:16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
4:17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
4:18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
4:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
4:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」マルコによる福音書 4章1節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(7月12日)私たちは、神の御心を行う人こそ、イエスさまの兄弟姉妹であることを学びました。神の御心を行う、それは何よりも神さまが遣わされたイエス・キリストを神の御子、救い主と信じることであります。イエス・キリストを信じる私たちは、神さまを父とし、イエスさまを長兄(一番上の兄)とする神の家族の一員とされているのです。

 今朝の御言葉はその続きであります。

 イエスさまは、再び、湖のほとりで教え始められました。おびただしい群衆が、そばに集まって来たので、イエスさまは、舟に乗って腰を下ろし、湖の上から教えられました。イエスさまは湖畔にいる群衆に、たとえでいろいろ教えられたのです。今朝は、その一つである「種を蒔く人のたとえ」について御一緒に学びたいと思います。3節から9節までを読みます。

 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

 ここで、イエスさまは種を蒔く人の話をしておられます。当時のユダヤでは、種をばらまいてから、土を耕しました。種を蒔く人は、景気よく種をまき散らすのです。もちろん、ここでイエスさまは、種を蒔く人そのものについて教えたいわけではありません。9節に、「聞く耳のある者は聞きなさい」とあるように、これは「たとえ」であります。「たとえ」とは「他の物事になぞらえていうこと」(『広辞苑』)ですから、イエスさまは、種を蒔く人の話になぞらえて、他のことを教えようとしているのです。では、イエスさまは、種を蒔く人の話になぞらえて、何を教えようとしておられるのでしょうか。11節で、イエスさまは弟子たちにこう言われています。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」。このイエスさまの御言葉から分かるように、イエスさまは、神の国の秘密(奥義、ミュステーリオン)を、種を蒔く人のたとえによって、教えられるのです。

 種を蒔く人のたとえをどのように解釈すればよいかは、13節以下に記されています。14節に、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」とあります。種は神の言葉であるのです。そうしますと、「種を蒔く人」は、イエスさま御自身を指すと読むことができます。イエスさまは、群衆の心に神の言葉という種を蒔いておられるのです。そうしますと、種が落ちる土地が、神の言葉を聞いている人間であることが分かります。4節に、「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」とあります。種が道端に落ちて、その種を鳥が食べてしまう。その日常の光景の中に、神の国の秘密が隠されているのです。15節でイエスさまはこう言われます。「道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」。イエスさまから神の言葉を聞いても、心の中に留まることがないのなぜか。鳥が来て種を食べてしまうように、サタンが来て御言葉を奪い去るからであるのです。

 5節と6節に、こう記されています。「ほかの種は、石だらけで土の少ないところに落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」。このようなことも実際にあったのでしょう。石だらけで土の少ない土地に落ちた種は、根を張ることができずに、枯れてしまう。そのことを人々はよく知っていました。しかし、そこにも神の国の秘密が隠されているのです。16節と17節でイエスさまはこう言われます。「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いていても、後で御言葉のために患難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」。イエスさまから神の言葉を聞いて喜んで受け入れても、長続きしないのはなぜか。それは石だらけの土に蒔かれたように、その人に根がないからです。その人の信仰が自分の実存と結び付いていない底の浅いものであるからです。

 7節に、こう記されています。「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった」。このようなことも実際にあったでしょう。これも誰もがよく知っていることです。しかし、ここにも神の国の秘密は隠されています。18節と19節でイエスさまはこう言われます。「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」。神の言葉を聞いても、その心にいろいろな欲望が入り込むならば、茨が覆いふさいでしまうように、信仰者としての善い生活を送ることはできないのです。

8節に、こう記されています。「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。これも考えてみれば当たり前のことです。豊作を得ようとするならば、種を良い土地に蒔かなければならない。この当たり前のことにも神の国の秘密が隠されています。20節でイエスさまはこう言われます。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」。良い土地に蒔かれた種が百倍の実りをもたらすように、御言葉を聞いて受け入れる人は、豊かな祝福を受けるのです(創世26:12参照)。

 イエスさまは、「よく聞きなさい」という言葉で、たとえを語り出されました。また、たとえを語り終えた後も、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。イエスさまが種を蒔く人のたとえで教えようとしておられることは、神の言葉の聞き方であります。イエスさまから教えを受けている群衆は、まさしくイエスさまから御言葉の種を蒔かれているのです。イエスさまは、気前のよい農夫として、集まって来た群衆に、御言葉の種をばらまいておられるのです。そのことは、御言葉の説教を聴いている私たちにも言えることです。イエスさまは、今朝、私たちの心にも聖書の御言葉とその解き明かしである説教によって、御言葉の種を蒔いておられるのです。その御言葉の種を受ける、私たちは、どのような者でしょうか。道端のものでしょうか。石地のものでしょうか。茨のものでしょうか。良い土地のものでしょうか。このたとえは、そのようなことを、御言葉を聞く私たちに考えさせるのです。そして、ここに、イエスさまが群衆に、たとえで教えられた理由があるのです。たとえ話は、聞く者に主体的に聞くことを求めます。考えながら、自分なりに解釈して聞くことを求めるのです。群衆は、イエスさまに従う決断をしないで、興味本位からついて来た者たちです。しかし、イエスさまは、その群衆に、日常の中に隠れている神の国の秘密を教えられる。種を蒔く人の話になぞらえて、神の言葉をどのように聞くべきかを教えられるのです。「種を蒔く人のたとえ」が教えている神の国の秘密、それは、イエス・キリストの御言葉を聞いて受け入れることによって、神の国の祝福にあずかることができるということです。神の王国の祝福は、神が王(メシア)とされたイエス・キリストの御言葉を聞いて受け入れることによってあずかることができるのです(マルコ1:10、11参照)。

 今朝は最後に、10節から12節までを学んで終わりたいと思います。10節に、「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた」と記されています。この10節を読むと、場面が湖のほとりから家(教会)へと移っています。イエスさまの周りには、群衆はおらず、弟子たちだけしかおりません。また、すでに学びました13節から20節までも、家の中で、弟子たちだけに教えられたことであります。この10節から20節までは、4章全体を読むと、後から挿入されたように思えます。10節から20節までを省いて、読んだ方がつながりがよいのです。2節に、「イエスはたとえでいろいろと教えられ」とあり、そのいろいろなたとえが、「種を蒔く人のたとえ」「ともし火と秤のたとえ」「成長する種のたとえ」「からし種のたとえ」と続けて記されているのです。33節と34節にはこう記されています。「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語られることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」。その説明の具体例が、13節から20節までに記されていたわけです。福音書記者マルコは、その説明をたとえシリーズの中に割り込ませたわけです。それは、イエスさまが言われているように、このたとえが分からなければ、ほかのたとえが理解できないからです。私たちは、ここに、福音書記者マルコの教育的な配慮を見ることができるのです。

 33節にありましたように、イエスさまは、「人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られ」ました。イエスさまがたとえで御言葉を語られたのは、教えようとしておられる「神の国」がたとえでしか伝えられないからです。また、「人々の聞く力に応じて」とあるように、イエスさまは、人々に理解してもらおうとたとえで語られたのです。このことを確認したうえで、11節と12節を読みます。

 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてたとえで示される。それは『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」

 このイエスさまの御言葉は、「種を蒔く人のたとえの説明」の前に置かれていますが、むしろ、たとえの説明の後に置かれた方がしっくりきます。なぜなら、イエスさまは弟子たちにたとえを説明されることによって、彼らに神の国の秘密が打ち明けられるからです。イエスさまは、12節で、『イザヤ書』の御言葉を引用されていますが、この御言葉はたとえシリーズの最後に置かれるべき御言葉です。つまり、イエスさまは、御言葉を聞いても受け入れない群衆のことを念頭において『イザヤ書』の預言を引用しておられるのです(ヨハネ12章、使徒28章参照)。イエスさまは、群衆が理解できないように、たとえで教えられたのではありません。イエスさまは、群衆に神の国の秘密を教えるために、たとえで教えられたのです。けれども、イエスさまが語られる御言葉を聞いて受け入れない人には、理解できない「なぞ」となるのです。

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