同じ霊に導かれて 2019年8月04日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:11 わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。
12:12 わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。
12:13 あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。
12:14 わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。
12:15 わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。
12:16 わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。
12:17 そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。
12:18 テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。コリントの信徒への手紙二 12章11節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 パウロは、11章16節から12章10節まで、愚か者になったつもりで、自分のことをあえて誇りました。パウロは、偽使徒たちと同じように、ヘブライ人であり、イスラエル人であり、アブラハムの子孫であることを記しました。また、パウロは、偽使徒たち以上に、キリストに仕える者であることを記しました。パウロは、その証拠に、イエス・キリストの使徒として体験した苦難のリストを長々と記しました。さらに、パウロは、14年前の第三の天にまで引き上げられた体験を記しました。このように誇ることによって、パウロは、自分が偽使徒たちに劣っていないことを証明したのです。

 今朝の御言葉はその続きであります。

1 使徒であることのしるし

 11節と12節をお読みします。

 わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。

 パウロは、愚か者になって、偽使徒たちと同じように、自分のことを誇ったわけですが、それは、コリントの信徒たちが無理にそうさせたのだと記します。なぜなら、パウロの福音宣教によって、イエス・キリストを信じたコリントの信徒たちがパウロを推薦すべきであったのに、しなかったからです(二コリント3:1~6参照)。「パウロの話し振りはなっていない」と言う偽使徒たちに、「パウロ先生の話ぶりは素人でも、知識はそうではない」とコリントの信徒たちがパウロのことを弁護すべきであったのです。また、「パウロが報酬を受け取らないのは、本物の使徒ではないからだ」と言う偽使徒たちに、「パウロ先生は、私たちに負担をかけまいとして、報酬を受け取らないのだ」とコリントの信徒たちがパウロのことを弁護すべきであったのです。キリストに仕える者として、多くの苦難を体験しているパウロ先生こそ、キリストの使徒であると、コリントの信徒たちが推薦すべきであったのです。けれども、そのような推薦を得ることができませんでしたので、パウロは、愚か者になって、自分のことを誇り、自己推薦するはめになったのです。そのようにして、パウロは、自分が偽使徒たちに比べて少しも引けは取らないことを証明したのです。

 パウロは自分がイエス・キリストの使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くコリントの信徒たちに実証してきました。このことは、第一コリント書の2章4節に記されています。ここでは、2章3節から5節までをお読みします。新約の301ページです。

 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

 パウロは、イエス・キリストから権威を与えられて遣わされた使徒として、病の癒しや悪霊追放といった力ある業を、コリントにおいて忍耐強く行いました。イエス・キリストは、パウロが使徒であることのしるしとして、パウロを通して、力ある業を行われたのです(ローマ15:18、19参照)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の340ページです。

 パウロは、コリントにおいて、しるしや不思議な業や奇跡によって、自分がイエス・キリストの使徒であることを忍耐強く示してきました。そして、コリントの信徒たちは、偽使徒たちがやって来るまでは、パウロを使徒として受け入れていたのです。では、偽使徒たちは、コリントの信徒たちをどのような言葉で惑わしたのでしょうか。おそらく、偽使徒たちは、パウロが肉体の病を患っていることを根拠にして、パウロを中傷したのだと思います。「パウロは、病を癒すことができると言うけれども、自分の病を癒すことができないではないか」。そのように、偽使徒たちは、パウロを中傷したと考えられるのです。このことについては、私たちはすでに学びました。パウロは、三度、癒されるように主に祈りました。しかし、主イエスはパウロに、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われたのです。パウロは自分の思いのままに、病を癒したり、悪霊を追い出すことができたわけではありません。主イエスの御心に適うときにのみ、パウロは力ある業を行うことができたのです(パウロの弱さの中でキリストの力が完全に現れることの実例)。

2 あなたがたの魂のために 

 13節から15節までをお読みします。

 あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。

 パウロは、キリストの福音を少しでも妨げてはならないと、コリントの教会からの報酬を受け取りませんでした。また、偽使徒たちから誇る機会を断ち切るために、コリントの教会から報酬を受け取りませんでした。パウロは、他の諸教会からは報酬を受け取っても、コリントの教会からは報酬を受け取らなかったのです。このことを、パウロは、「不当な点」と言い、「許してほしい」と記すのです。この13節の御言葉は、二通りの解釈があります。一つは、「ここでパウロは皮肉を言っている」という解釈です。もう一つは、「皮肉ではなくて、心からの言葉である」という解釈です。私は両方の意味が込められているのではないかと思います。パウロのことを「金銭目的で福音を宣べ伝えている」と中傷する者たちにとっては皮肉ですが、パウロの働きを支えたいと願っている者たちにとっては、正直な言葉であったと思います。

 14節で、パウロは、「三度目の訪問」について記しています。一度目は、使徒言行録18章に記されている、コリントで最初に福音を宣べ伝えたときの訪問です。パウロは、このとき、1年6か月に渡って、コリントに滞在しました。二度目の訪問は、この手紙の2章1節に暗示されていた中間の訪問です。パウロは、テモテがないがしろにされて帰って来たことを受けて、急遽、コリントを訪れたのです。私たちの推測によれば、公の場で中傷されたパウロは、その場では何もせずに、エフェソへ戻りました。そこでパウロは、悩みと憂いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書いたのです(二コリント2:4参照)。そして、パウロは今、コリントに三度目の訪問をする準備をしているのです。ここでも、パウロは、「あなたがたに負担をかけません」と記しています。なぜなら、パウロが求めているのは、コリントの信徒たちの持ち物ではなく、コリントの信徒たち自身であるからです。これは偽使徒たちとは反対の態度ですね。パウロは、11章20節でこう記していました。「実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています」。偽使徒たちは、コリントの信徒たちの霊的な利益を求めてではなく、コリントの信徒たちの持ち物を求めていたのです。

 また、パウロは、コリントの信徒たちに負担をかけないことを、子どもと親に譬えて説明しています。第一コリント書の4章15節で、パウロはこう記していました。「キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」。パウロは、コリントの信徒たちの父親として、彼らの魂のために、大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしようと言うのです。ここで、私たちは、パウロがコリントの教会に経済的な負担をかけなかった積極的な理由を教えられます。消極的な理由については、すでに学んで来ました。パウロは、福音を少しでも妨げないように、また、偽使徒たちから誇る機会を断ち切るために、報酬を受け取りませんでした。しかし、ここでは、コリントの信徒たちの父親として、負担をかけないと言うのです。負担をかけないどころか、コリントの信徒たちの魂のために、喜んで、自分の持ち物を使い、自分自身をも使い果たそうと言うのです。偽使徒たちは、「パウロが報酬を受け取らないのは、コリントの信徒たちを愛していないからだ」と中傷していました(二コリント11:11参照)。しかし、そうではありません。パウロは、親が子を愛するように、コリントの信徒たちを愛しているのです。「わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう」と記すほど、コリントの信徒たちを愛しているのです。パウロは、自己犠牲の愛、神の愛、アガペーをもって、コリントの信徒たちを愛しているのです(一コリント13章参照)。

3 同じ霊に導かれて 

 16節から18節までをお読みします。

 わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。

 パウロがコリントの信徒たちを愛すれば愛するほど、パウロの方は愛されなくなってしまうのは、なぜでしょうか。それは、パウロが、悪賢くて、だまし取っているというデマが広がっていたからです。「パウロが報酬を受け取っていないのは、エルサレム教会のための献金を、自分の懐に入れているからだ」と、中傷する者たちがいたのです。パウロは、この手紙の8章と9章で、エルサレム教会のための献金について記しました。パウロは、コリントの信徒たちがエルサレム教会への献金を再開するにあたって、テトスと二人の兄弟を遣わしました。そのことを背景にして、「そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか」と記すのです。テトスについては、7章15節にこう記されていました。「テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こしています」。コリントの信徒たちは、テトスに対しては好意的であったのです。そのテトスが、あなたがたをだましたか。そんなはずはないであろう。そうであるならば、テトスと同じ霊に導かれて歩んでいる私たちが、あなたがたをだますはずがないではないか、とパウロは記すのです。少し細かいことを言いますが、元の言葉を見ますと、18節は、否定の答えを期待する疑問文で記されています。また、19節は、肯定の答えを期待する疑問文で記されています。パウロは、テトスがあなたがたをだましていないのだから、そのテトスと同じ霊に導かれて歩んでいる自分たちが、あなたがたをだますようなことはない、と記しているのです。

 「わたしたちは同じ霊に導かれて、同じ模範に倣って歩んだのではありませんか」。ここでの「同じ霊」とは、イエス・キリストの霊、聖霊のことです。また、「同じ模範」とは、イエス・キリストのことであります。そうであれば、ここでの「わたしたち」は、パウロとテトスだけに限られません。イエス・キリストの聖霊に導かれて、イエス・キリストという模範に倣って歩む、すべてのキリスト者のことです。教会の交わりの中に、疑いの心が生まれる。あの人は信頼できない。そのように思うならば、私たちは、パウロの言葉を、自分たちに対する言葉として聞かなくてはならないのです。

 「わたしたちは同じ霊に導かれて、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか」。そうです。私たちは、同じ霊に導かれて、同じ模範に倣って歩んでいるのです。

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