祝福あれ、主の名によって来る人に 2026年7月12日(日曜 夕方の礼拝)
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祝福あれ、主の名によって来る人に
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- 村田寿和 牧師
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詩編 118章1節~29節
聖書の言葉
118:1 主に感謝せよ。まことに主は恵み深い。慈しみはとこしえに。
118:2 さあ、イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。
118:3 さあ、アロンの家は言うがよい。慈しみはとこしえに。
118:4 さあ、主を畏れる人々は言い放て。慈しみはとこしえに。
118:5 苦難のただ中から私は主を呼んだ。/主は答えて、広い所に私を解き放った。
118:6 主こそ味方、私は恐れない。/人間が私に何をなしえようか。
118:7 主こそ味方、私を助ける方。/私は、私を憎む者らを見下す。
118:8 主のもとに逃れるほうが/人間に頼るよりもよい。
118:9 主のもとに逃れるほうが/諸侯に頼るよりもよい。
118:10 国々はこぞって私を包囲したが/主の名によって私は必ず彼らをしのぐ。
118:11 私を幾重にも包囲したが/主の名によって必ず彼らをしのぐ。
118:12 蜂のように私を包囲し/茨の火のように燃え上がったが/主の名によって必ず彼らをしのぐ。
118:13 私は激しく突かれて倒れそうだったが/主が私を助けてくださった。
118:14 主こそ私の力、私の歌。/私の救いとなってくださった。
118:15 歓喜と勝利の声が正しき人の天幕に響く。/「主の右の手は力を振るう。
118:16 主の右の手は高く上がり/主の右の手は力を振るう。」
118:17 私は死なずに生き長らえ/主の業を語り伝えよう。
118:18 主は私を厳しく懲らしめたが/死に渡すことはなかった。
118:19 義の城門を開けよ。/私は入って、主に感謝しよう。
118:20 これこそ主の城門、正しき人はここに入る。
118:21 あなたに感謝します。/あなたは私に答え/私の救いとなってくださった。
118:22 家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。
118:23 これは主の業/私たちの目には驚くべきこと。
118:24 今日こそ、主が造られた日。/これを喜び躍ろう。
118:25 どうか主よ、救ってください。/どうか主よ、栄えをもたらしてください。
118:26 祝福あれ、主の名によって来る人に。/私たちは主の家からあなたがたを祝福する。
118:27 主こそ神、主が私たちを照らす。/祭壇の角のところまで/枝を手に祭りの行列を組め。
118:28 あなたは私の神。あなたに感謝します。/わが神よ、あなたを崇めます。
118:29 主に感謝せよ、主は恵み深くその慈しみはとこしえに。
詩編 118章1節~29節
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今夕は、『詩編』の第118編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
第118編は、その内容からバビロン捕囚から戻って来て、神殿を再建した頃に、礼拝の中で歌われた詩編であると考えられています。そのことを前提にしてお話しします。
1節から4節までをお読みします。
主に感謝せよ。まことに主は恵み深い。慈しみはとこしえに。さあ、イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。さあ、アロンの家は言うがよい。慈しみはとこしえに。さあ、主を畏れる人々は言い放て。慈しみはとこしえに。
このところは礼拝の司式者と礼拝に集っている会衆が言葉を交わす形で記されています。司式者が「主に感謝せよ。まことに主は恵み深い」と言うと、会衆は「慈しみはとこしえに」と応えるのです。ここには礼拝への呼びかけ、いわゆる「招きの言葉」が記されているのです。私たちも恵み深い主に感謝して、「慈しみはとこしえに」と神様をほめたたえているのです。1節と同じ言葉が、最後の29節にも記されています。第118編は、「主に感謝せよ、主は恵み深く/その慈しみはとこしえに」という賛美の枠組みの中で記されているのです。
5節から9節までをお読みします。
苦難のただ中から私は主を呼んだ。主は答えて、広い所に私を解き放った。主こそ味方、私は恐れない。人間が私に何をなしえようか。主こそ味方、私を助ける方。私は、私を憎む者らを見下す。主のもとに逃れるほうが/人間に頼るよりもよい。主のもとに逃れるほうが/諸侯に頼るよりもよい。
ここでの「私」は、26節によれば「主の名によって来る人」であります。ここでの「私」は詩人であり、王でもあるダビデのような人物であるのです。「苦難のただ中から私は主を呼んだ。主は答えて、広い所に私を解き放った」。この御言葉は、バビロン捕囚の苦難の中にあったイスラエルの民を、主がカナンの地へと連れ戻してくださったことを背景にしています。詩人は、解き放たれた広い所でこう言います。「主こそ味方、私は恐れない。人間が私に何をなしえようか」。「主」とは、その昔、モーセに示された、ヤハウェと発音されたであろう、神様のお名前です。「私はあなたと共にいる」という約束を含むお名前です。その主が私たちの味方であるならば、私たちは恐れる必要はないのです。主が私たちの味方であるならば、人間、土の塵であるアダムは、何もできないのです。この6節の御言葉を、使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第8章で引用しています(ヘブライ13:6も参照)。新約の280ページです。31節から34節までをお読みします。
では、これらのことについて何と言うべきでしょう。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。
31節で、パウロは、「神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか」と言っていますが、ここは『詩編』118編6節からの引用です。なぜ、私たちは神様が味方であると言い切ることができるのでしょうか。それは、神様が私たちのために御子イエス・キリストを惜しまず死に渡されたからです。御子イエス・キリストによって、私たちを罪の奴隷状態から解放してくださり、正しい者として広い所に立たせてくださったからです。神様はイエス・キリストを信じる私たちの味方であり、天の父なる神であるのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の940ページです。
10節から12節までをお読みします。
国々はこぞって私を包囲したが/主の名によって私は必ず彼らをしのぐ。私を幾重にも包囲したが/主の名によって必ず彼らをしのぐ。蜂のように私を包囲し/茨の火のように燃え上がったが/主の名によって必ず彼らをしのぐ。
かつてダビデは、ペリシテ人の代表戦士であるゴリアトにこう言いました。「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によって、お前に立ち向かう」(サムエル上17:45)。このダビデのように、詩人は、「主の名によって必ず彼らをしのぐ」と言うのです。ちなみに、「しのぐ」とは「能力や程度が他を越えてそれ以上になる。こえる。凌駕する」という意味です。詩人は、自分に敵対する者たちを、主の名によって必ず凌駕すると言うのです。
13節から16節までをお読みします。
私は激しく突かれて倒れそうだったが/主が私を助けてくださった。主こそ私の力、私の歌。私の救いとなってくださった。歓喜と勝利の声が正しき人の天幕に響く。「主の右の手は力を振るう。主の右の手は高く上がり/主の右の手は力を振るう。」
14節の「主こそ私の力、私の歌。私の救いとなってくださった」は、『出エジプト記』の第15章に記されている「海の歌」からの引用です。旧約の109ページです。
主は、葦の海の奇跡によって、イスラエルの人々をエジプトの軍隊から救ってくださいました。その時、モーセとイスラエルの人々はこの歌を主に歌ったのです。第15章1節後半から6節までをお読みします。
「主に向かって私は歌おう。なんと偉大で、高くあられる方。主は馬と乗り手を海に投げ込まれた。主は私の力、私の盾、私の救いとなられた。この方こそ私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。私はこの方を崇める。主は戦人(いくさびと)。その名は主。ファラオの戦車と軍勢を海に投げ込まれ/えり抜きの補佐官は葦の海に沈んだ。深淵は彼らを覆い/彼らは石のように深みに落ちていった。主よ、あなたの右の手は力に輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。」
2節で、モーセは、「主こそ私の力、私の盾、私の救いとなられた」と歌いました。また、6節で、「主よ、あなたの右の手は力に輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く」と歌いました。このモーセの歌を背景にして、詩人は、「主こそ私の力、私の歌。私の救いとなってくださった」と歌い、「主の右の手は力を振るう」と歌うのです。そのようにして詩人は、自分を救ってくださった主が、かつてイスラエルをエジプトから救ってくださった主であることを言い表すのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の941ページです。
17節から21節までをお読みします。
私は死なずに生き長らえ/主の業を語り伝えよう。主は私を厳しく懲らしめたが/死に渡すことはなかった。義の城門を開けよ。私は入って、主に感謝しよう。これこそ主の城門、正しき人はここに入る。あなたに感謝します。あなたは私に答え/私の救いとなってくださった。
ここには、王である詩人が敵に勝利して凱旋する様子が描かれています。主は王である詩人の命を生き長らえさせてくださいました。厳しい戦いでしたが、死に渡すことはなかったのです。それで王である詩人は、主に感謝をささげるために、主の都エルサレムを訪れるのです。21節に、「あなたに感謝します。あなたは私に答え/私の救いとなってくださった」とあるように、王である詩人が敵に勝利することができたのは、主が救いとなってくださったからであるのです。同じことが私たちにも言えます。私たちが正しい人として、主の城門に入り、神様を「アッバ、父よ」と親しく礼拝できるのは、神の御子であるイエス様が私たちの救いとなってくださったからであるのです。
22節から25節までをお読みします。
家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。これは主の業/私たちの目には驚くべきこと。今日こそ、主が造られた日。これを喜び躍ろう。どうか主よ、救ってください。どうか主よ、栄えをもたらしてください。
「家を建てる者の捨てた石が、隅の親石となった」。これは「つまらないと思われていたものが、重要な役割を果たすようになる」という格言です。「家を建てる者の捨てた石」とは、敵に勝利して凱旋する王に代表されるイスラエルの民のことです。イスラエルの民は、諸国民から捨てられましたが、主によって大切な働きをする民として選ばれました。イスラエルの民は再びカナンの地に戻り、エルサレムに神殿を再建することができたのです。このことはまさしく主の御業であり、イスラエルの民にとって驚くべきことであるのです。24節に、「今日こそ、主が造られた日。これを喜び躍ろう」とありますが、「今日」は祭りの日であったようです(27節参照)。祭りの日において、「どうか主よ、救ってください。どうか主よ、栄えをもたらしてください」と祈るのです。「どうか救ってください」。これは元の言葉では「ホサナ」(ホシアー ナー)と記されています。
26節から28節までをお読みします。
祝福あれ、主の名によって来る人に。私たちは主の家からあなたがたを祝福する。主こそ神、主が私たちを照らす。祭壇の角のところまで/枝を手に祭りの行列を組め。あなたは私の神。あなたに感謝します。わが神よ、あなたを崇めます。
ここには、敵に勝利して戻って来た王を出迎えて祝福する祭司の言葉が記されています。「祝福あれ、主の名によって来る人に」と神殿で仕える祭司たちは、王である詩人を祝福するのです。そして、エルサレムの人々は、王である詩人のことで、主に感謝をささげ、崇めるようになるのです。
「どうか主よ、救ってください」(ホサナ)。「祝福あれ、主の名によって来る人に」。この御言葉を、『マタイによる福音書』によれば、イエス様がエルサレムに入城したときに、群衆が叫びます。新約の39ページです。
第21章8節から11節までをお読みします。
大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に/祝福があるように。いと高き所にホサナ。」イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
ここで注意したいことは、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に/祝福があるように」と叫んだのが、神殿で仕える祭司ではなく、エルサレムの人々でもなく、群衆であったということです。イエス様と巡礼の旅を共にしている群衆が叫んだのです。エルサレムの人々は「一体、これはどういう人だ」と怪しんだのです。少し先の41ページ、第21章33節以下に、「ぶどう園と農夫のたとえ」が記されています。イエス様は、このたとえによって、イスラエルの指導者たちが、神の御子である御自分を殺すことを予告しました。そして、このことは、『詩編』の第118編の御言葉が御自分のうえに成就するためであったと言うのです。第21章42節から46節までをお読みします。
イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石/これが隅の親石となった。これは主がなさったことで/私たちの目には不思議なこと。』だから、言っておくが、神の国はあなたがたから取り上げられ、御国にふさわしい実を結ぶ民に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が落ちて来た者は、押し潰される。」祭司長たちとファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気付き、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。
家を造る者たち、イスラエルの指導者である祭司長たちは、イエス様を偽メシアとして、十字架の死に引き渡します。しかし、そのイエス様を神様は復活させて、神の国を建てるための隅の親石とされたのです。神の国の中心的な現れは、キリストの教会ですが、イエス・キリストこそ、教会の隅の親石(土台)であるのです(一コリント3:11「イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできないからです」参照)。私たちは、イエス・キリストこそ、主によって据えられた隅の親石であることを知っている者として、主に感謝し、礼拝をささげているのです。