王であり、祭司であるメシア 2026年6月14日(日曜 夕方の礼拝)

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王であり、祭司であるメシア

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 110編1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

110:1 ダビデの詩。賛歌。/主は、私の主に言われた。/「私の右に座れ/私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」
110:2 あなたの力強い杖を主はシオンから伸ばされる。/「敵のただ中で支配せよ。」
110:3 あなたの民は進んで身を献げる/あなたの出陣の日に。/聖なる輝きを帯びて/曙の胎の中から若さの露があなたに降りる。
110:4 主は誓い、悔いることはない。/「あなたは、メルキゼデクに連なる/とこしえの祭司。」
110:5 わが主はあなたの右に立ち/怒りの日に王たちを打つ。
110:6 国々を裁き、屍で満たし/広大な地で頭を砕く。
110:7 主は途上で川から水を飲む。/こうして彼は頭を高く上げる。
詩編 110編1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は、『詩編』の第110編より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。1節の前半に、「ダビデの詩。賛歌」とあるように、第110編は、イスラエルの王ダビデの詩編です。そのことを前提にして、お話しいたします。

 1節の後半から3節までをお読みします。

 主は、私の主に言われた。「私の右に座れ/私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」あなたの力強い杖を主はシオンから伸ばされる。「敵のただ中で支配せよ。」あなたの民は進んで身を献げる。あなたの出陣の日に。聖なる輝きを帯びて/曙の胎の中から若さの露があなたに降りる。

 「主は、私の主に言われた」とありますが、初めの「主」は元の言葉では、神様のお名前である「ヤハウェ」と記されています。また、次の「私の主」は元の言葉では、主人を表す「アドナイ」と記されています。「ヤハウェは、私のアドナイに言われた」「主なる神は、私の主人に言われた」と記されているのです。では、ダビデの主人とは誰でしょうか?私は二つの可能性が考えられると思います。一つは、ダビデが仕えたサウル王です。『サムエル記上』の第16章23節に、「神の霊がサウルを襲う度に、ダビデは琴を手にして爪弾いた。するとサウルの霊は休まり、良くなって、悪い霊は彼を離れた」とあります。ダビデは、悪霊にさいなまれるサウルを慰めるために、第110編を歌ったと推測できるのです。もう一つの可能性は、ダビデの王位を継いだ息子ソロモンです。『列王記上』の第1章に、年老いたダビデに代わって誰が王になるかという王位継承の争いが記されています。ハギトの子アドニヤは思い上がって、「この私が王になるのだ」と名乗り出ます(列王上1:5、アドニヤはダビデの4番目の息子)。しかし、ダビデは、バトシェバの子ソロモンを、自分に代わる王として指名します(列王上1:28~40参照)。ダビデは、バトシェバの前で、こう誓うのです。「この私をあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。イスラエルの神、主にかけてあなたに誓ったこと、『あなたの子ソロモンが、私の後に王となり、私に代わって王座に着く』ということを、今日この日、私は確かに実行する」(列王上1:29、30)。こうして、ソロモンは祭司ツァドクによって油を注がれて、王となるわけですが、そのときに、ダビデが第110編を歌ったと推測できるのです。「私の主人」が、サウルであるのか、それともソロモンであるのかは判断が難しいところですが、私は、ダビデ契約のことを考慮に入れて、「ソロモン」を指すと理解したいと思います(ダビデ契約とは、ダビデ王朝をとこしえに堅く立てるという主の約束のこと。サムエル下7章参照)。ダビデは、ソロモンを自分に代わる王として立てるに際して、聖霊の導きの中で、主の託宣を告げるのです。「私の右に座れ、私があなたの敵をあなたの足台とするときまで」。これは、王の即位を表す言葉です(2編7~9節も参照)。主はソロモンに、「私の右に座れ/私があなたの敵をあなたの足台とするときまで」と言われて、ソロモンをイスラエルの王にするのです。私たちは、ここから、イスラエルの本当の王は、主なる神であることを教えられます。ソロモンは、その主なる神の右の座について、主なる神と一緒に、イスラエルを治めるのです。主なる神と王は一つになって、イスラエルを治めるのです。また、主なる神と王は一つになって、敵を征服するのです。「私があなたの敵をあなたの足台とするときまで」とありますが、ここには、古代オリエントにおいて、勝利者が、ひれ伏した敗者の首を踏みつけるという慣習があります(ヨシュア10:24参照)。私は先程、主なる神と王は一体的に、イスラエルの民を治め、敵を征服すると申しましたが、その主導権を握っているのは、本物の王である主なる神であります。王は主なる神の守りと導きの中で、敵に勝利するのです。そのことを2節と3節は教えているのです。

 4節をお読みします。

 主は誓い、悔いることはない。「あなたは、メルキゼデクに連なる/とこしえの祭司。」

 ここでダビデは、もう一つの託宣を告げます。ソロモン王は、メルキゼデクに連なるとこしえの祭司であると言うのです。メルキゼデク(マルキ私の王 ツェデク義)とは「私の正しい王」という意味です(新共同訳参照)。メルキゼデクについては、『創世記』の第14章に記されています。旧約の17ページです。17節から20節までをお読みします。

 アブラムが、ケドルラオメルと彼に味方する王たちを打ち破って帰って来たとき、ソドムの王は、シャベの谷、すなわち王の谷へ彼を出迎えにやって来た。また、サレムの王メルキゼデクがパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「天と地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された/いと高き神はたたえられますように。」そこでアブラムはすべてのものの十分の一を彼に贈った。

 18節に、「サレムの王メルキゼデクがパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった」と記されています。「サレム」とは「エルサレム」のことです。アブラハムの時代、紀元前2000年頃、サレムの王メルキゼデクはいと高き神、主の祭司でもあったのです(創世17:22参照)。このメルキゼデクに連なる者として、ソロモン王は、「あなたは、とこしえに祭司である」との託宣を受けるのです。『列王記上』を読むと、ソロモンが祭壇の上で焼き尽くすいけにえを献げたことや、祭壇の前に立って祈ったことが記されています(3:5、8:22参照)。このようなソロモンの振る舞いも、メルキゼデクに連なる、とこしえの祭司としての振る舞いであったのです。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約の935ページです。

 5節から7節までをお読みします。

 わが主はあなたの右に立ち/怒りの日に王たちを打つ。国々を裁き、屍で満たし/広大な地で頭を砕く。主は途上で川から水を飲む。こうして彼は頭を高く上げる。

 5節の「わが主」は、主なる神のことです。主なる神は、王であり祭司であるソロモンの右に立って、怒りの日に王たちを打ち、ご自分に逆らう国々を裁かれます。「怒りの日」とは、主なる神が歴史に介入される「主の日」のことです。主の日の裁きにおいて、神は御自分の正しさを回復してくださるのです。その日は、主なる神に逆らう者にとって、破滅の日であるのです。

 7節の「主」は王であり祭司であるソロモンのことです。ここには、主の王であり、祭司であるソロモンの勝ち誇る姿が記されています。主の日は、王であり祭司であるソロモンにとって、頭(あたま)を高く上げる勝利の日であるのです。

 今夕の第110編は、新約聖書において、最も多く引用されている詩編であります。それは、イエス様がご自分について、第110編を引用しているからです。『マルコによる福音書』の第12章です。新約の86ページです。35節から37節までお読みします。

 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて、こう言っている。『主は、私の主に言われた。「私の右に座れ/私があなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』このように、ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

 ここでイエス様は、御自分がダビデを越えたメシアであることを教えています。イエス様の時代、イスラエルの人々はローマ帝国によって支配されていました。人々は、自分たちをローマ人から解放してくれるダビデのようなメシア、王を待ち望んでいました。それゆえ、人々は、メシアのことを「ダビデの子」と呼んでいたのです。しかし、イエス様は、『詩編』の第110編を引用して、来るべきメシア、すなわち御自分が、ダビデを越えたメシア、罪と死からの救いをもたらすメシアであることを教えられるのです。イエス様は、十字架の死と復活を経て、父なる神の右に上げられるメシアであるのです(マルコ14:62「イエスは言われた。『私がそれである。あなたがたは、人の子が力ある方の右に座り/天の雲に乗って来るのを見る』」参照)。

 また、『ヘブライ人への手紙』は、『詩編』第110編を引用して、ダビデの子孫であるイエス様が、メルキゼデクに連なる永遠の大祭司であると教えています。新約の396ページです。第5章5節から10節までをお読みします。

 同じようにキリストも、大祭司となるという栄誉をご自分で得たのではなく、こう言われた方がお与えになったのです。「あなたは私の子/私は今日、あなたを生んだ。」また、他の箇所で、こう言われています。「あなたこそ永遠に/メルキゼデクに連なる祭司である。」キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。そして、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとって、永遠の救いの源となり、神によって、メルキゼデクに連なる大祭司と呼ばれたのです。

 このように、『ヘブライ人への手紙』は、『詩編』の第2編と第110編を引用して、イエス・キリストこそが、とこしえの王であり、とこしえの祭司であることを教えているのです。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約の935ページです。

 1節の託宣、「私の右に座れ/私があなたの敵をあなたの足台とするときまで」と、4節の誓い、「あなたは、メルキゼデクに連なるとこしえの祭司」は、人となられた神の御子、イエス・キリストにおいて完全に実現しました。それゆえ、怒りの日(主の日)において裁かれるのは、主の敵である悪魔と悪魔に従う者たちであるのです。『ヨハネの黙示録』は、神の右に座している主イエス・キリストが世を裁くために天から再び来られると教えています。主イエス・キリストは正しい裁きによって、悪魔と獣と偽預言者、死と陰府を、火の池に投げ込まれます(黙20:10、14参照)。このように、『詩編』第110編は、イエス・キリストの再臨と裁きの預言として、終末論的に解釈できるのです。イエス・キリストは、私たちの王として、また、私たちの大祭司として、父なる神の右に座しておられます。そして、世の終わりの日に、私たちの救いを完成するために、天から再び来てくださるのです。

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