新しい人の生活 2026年5月31日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:12 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
3:14 さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。
3:15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。また、感謝する人になりなさい。
3:16 キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。
3:17 そして、言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。コロサイの信徒への手紙 3章12節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 主の日の礼拝では、月に一度、イエス・キリストの使徒パウロが記した『コロサイの信徒への手紙』を読み進めています。今朝は、第3章12節から17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 12節をお読みします。

 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

 パウロは、コロサイの信徒たちのことを、また、私たちのことを「あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」であると言います。イエス・キリストの名によって洗礼を受けた私たちは、神に選ばれた者であり、聖なる、愛されている者たちであるのです。イエス・キリストが神に選ばれた者であり、聖なる、愛されている者であるゆえに、イエス・キリストに結びついている私たちも選ばれた者であり、聖なる、愛されている者であるのです。そのような者として、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」とパウロは言うのです。ここで「身に着けなさい」と訳されている言葉(エンデゥオー)は、「着なさい」とも訳せます。第3章9節と10節に、こう記されていました。「互いに嘘をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです」。「新しい人を着なさい」と記したパウロが、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を着なさい」と言うのです。ですから、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」は、新しい人として身に着けるべき5つの徳であるのです。前回学んだ5節に、殺すべき5つの悪徳が記されていました。「だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい」。また、8節には、捨てるべき5つの悪徳が記されていました。「しかし今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、冒涜、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい」。5節の5つの悪徳を殺すこと、8節の5つの悪徳を捨てることが、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」るということであるのです。そして、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を着る」ことが、「新しい人を着る」ということであるのです。「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」は、『ガラテヤの信徒への手紙』によれば、聖霊が結ぶ実であります。ガラテヤ書の第5章22節で、パウロはこう記しています。「霊の結び実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制で」す。神に選ばれた者であり、聖なる、愛されている私たちには、神の霊である聖霊がイエス・キリストを通して与えられています。その聖霊が私たちの内に、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容という実を結んでくださる。そのようにして、私たちを造り主のかたちに従ってますます新たにしてくださるのです。ですから、私たちは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者としてふさわしい5つの徳を身に着けるよう努めるべきであるのです(神の恵みの事実に基づく、命令形)。そして、このような5つの徳を身に着ける訓練の場が、主にある兄弟姉妹との交わりであるのです。

 13節をお読みします。

 互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。

 教会の交わりは、主にある兄弟姉妹の交わりですが、そこにはいろいろな人がいます。自分と馬が合わない人もいると思います。「私は、あの人にこんなことを言われた」と根に持ってしまうこともあります。そのような私たちに、パウロは、「互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい」と言うのです。それは、私たちの主であるイエス・キリストが、私たちを赦してくださったからです。私たちの主であるイエス・キリストは、私たちの罪を赦すために、十字架のうえで贖いの死を遂げてくださったのです。それは、弟子である私たちが、互いに赦し合うためであるのです。ですから、イエス様は、「主の祈り」で、「私たちの負い目を赦してください/私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈るように教えられたのです(マタイ6:12)。父なる神に、罪の赦しを求める者は、人の罪を赦す用意がなければならないのです(マタイ6:14、15「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しなる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」参照)。

 14節をお読みします。

 さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。

 「これら」とは、新しい人の徳である「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」のことです。パウロは、これら5つの徳の上に、愛を着けなさいと言います。なぜなら、愛はすべてを完全に結ぶ帯であるからです。パウロは、『コリントの信徒への手紙一』の第13章で、最も優れた道は愛であると記しました。愛こそ、キリスト者の最高の徳であるのです。『コリントの信徒への手紙一』の第13章4節から7節には、こう記されています。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 このような愛こそ、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」という徳の源にある最高の徳であるのです。言い方を変えれば、愛なしに、憐れみの心も、慈愛も、謙遜も、柔和も、寛容も成り立たないのです。それゆえ、愛は、新しい人の徳を完全に結びつける帯であると言うのです。私たちキリスト者のもろもろの徳は、愛という帯によって、完全に結び合わされるのです。

 15節の前半をお読みします。

 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。

 パウロは、「キリストの平和」について、第1章19節から22節に、こう記していました。新約の361ページです。

 神は、御心のままに/満ち溢れるものを/余すところなく御子の内に宿らせ/その十字架の血によって平和を造り/地にあるものも/天にあるものも/万物を御子によって/ご自分と和解させてくださったのです。

 あなたがたも、かつては神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死を通してあなたがたをご自分と和解させ、聖なる、傷のない、とがめるところのない者として御前に立たせてくださいました。

 「キリストの平和」とは、神の御子であるキリストが十字架の血によって造り出してくださった、父なる神との平和です。そのキリストの平和が、私たちの心を支配するようにしなければならないのです。私たちの心を審判者として治めるのは、キリストの平和であるのです(ブラベウオーの語源は審判官(ブラベウス)である。そこから「判定する、治める、支配する」を意味する)。なぜなら、キリストの平和は、キリストの体である教会の交わりにおいてこそ、実現すべきものであるからです。キリストの平和は、神との和解だけではなく、人と人との和解をもたらします。そのキリストの平和を実現する交わりとして、私たちは招かれて一つの体とされたのです。ですから、教会において、争いが生じることは、異常事態であるのです。残念ながら、教会において、教師と長老が争ったり、長老と長老が争ったり、長老と信徒が争ったりすることが起こります。そのような場合は、中会で「配慮する委員会」を設置して、対処することがあります。それは、私たちがキリストの平和のために、招かれて一つの体(キリスト教会)とされているからです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の364ページです。

 15節の後半をお読みします。

 また、感謝する人になりなさい。

 このようにパウロが命じるのは、私たちが感謝すべき恵みを神様からいただいているからです。12節にありましたように、イエス・キリストにあって、私たちは「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」とされているのです。そのような神の恵みを心に留めるならば、私たちは感謝の心を持つ人になることができるのです(新改訳2017参照)。

 16節をお読みします。

 キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。

 この御言葉の背景には、キリストの名によって二人、または三人が集う礼拝があります。礼拝では、キリストの言葉が語られ、神様に向けて賛美が歌われます。そもそも、パウロの手紙は、礼拝の場で、公に朗読されました。私たちも礼拝において、聖書の朗読とその解き明かしである説教を聞きます。それは、キリストの言葉が、私たちの内に豊かに宿るようになるためであるのです。私たちは、一緒に礼拝をささげることによって、共通の御言葉体験をしているのです。そのようにして、私たちはキリストの教会としての歴史を積み重ねているのです(記憶の共同体)。また、私たちが共通の御言葉体験を重ねているのは、私たちが互いに教え合い、諭し合うためであるのです(各会の学びや教会学校など)。パウロは、「詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい」と言います。「詩と賛歌と霊の歌」とは、現代の私たちに引き寄せると、「詩編歌と讃美歌とゴスペルソング」と言えると思います。パウロは、15節で、「感謝する人になりなさい」と記しましたが、私たちの神様への感謝は、心から歌う賛美によって表されるのです。感謝して神様に向かって心から歌うこと。このことは、新しい人であるキリスト者の特徴ですね。私たちはイエス・キリストにあって救われた恵みに感謝して、心から神様を賛美しているのです(ヘブライ13:15「イエスを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう」参照)。

 17節をお読みします。

 そして、言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。

 ここでパウロが教えていることは、私たち改革派教会の創立20周年宣言に記されている「神中心的・礼拝的人生観」であります(「教会の生命は、礼拝にある。キリストにおいて神ひとと共に住みたもう天国の型として存する教会は、主の日の礼拝において端的にその姿を現わす。わが教会の神中心的・礼拝的人生観は、主の日の礼拝の厳守において、最もあざやかに告白される。神は、礼拝におけるみ言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、霊的にその民のうちに臨在したもう」)。私たちは、主イエスの名によって集まり、主イエスの名によって神様を礼拝しています。それと同じように、何事をするにしても、すべてイエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさいとパウロは言うのです。ここで改めて思い起こしたいのは、第1章15節以下の御言葉です。第1章15節から18節前半までをお読みします。新約の360ページです。

 御子は、見えない神のかたちであり、すべてのものが造られる前に/最初に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも/見えるものも見えないものも/王座も主権も/支配も権威も/万物は御子において造られたからです。万物は御子によって御子のために造られたのです。御子は万物よりも先におられ/万物は御子にあって成り立っています。また、御子はその体である教会の頭です。

 教会の頭であるイエス・キリストは、万物を造られた創造主であり、万物を成り立たせている摂理の主であります。イエス・キリストの支配は、全世界とそのあらゆる領域に及んでいるのです。それゆえ、私たちは、全世界のあらゆる領域において、すべてのことをイエス・キリストの名によって行い、イエス・キリストの名によって父なる神に感謝をささげることができるのです。イエス・キリストに結ばれている私たちにとって、生活のあらゆる領域が礼拝の時と場であるのです(一コリント10:31「食べるにも、飲むにも、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」参照)。

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