神は我らの逃れ場 2026年5月10日(日曜 夕方の礼拝)
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神は我らの逃れ場
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
詩編 46章1節~12節
聖書の言葉
46:1 指揮者によって。コラの子の詩。アラモト調。歌。
46:2 神は我らの逃れ場、我らの力。/苦難の時の傍らの助け。
46:3 それゆえ私たちは恐れない/地が揺らぎ/山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。
46:4 その水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶる様に山々が震えるとも。〔セラ
46:5 川とその流れは神の都に/いと高き方の聖なる住まいに喜びを与える。
46:6 神はその中におられ、都が揺らぐことはない。/夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
46:7 すべての民は騒ぎ、もろもろの王国は揺らぐ。/神が声を出されると、地は溶け去る。
46:8 万軍の主は私たちと共に。/ヤコブの神は我らの砦。〔セラ
46:9 来て、主の業を仰ぎ見よ。/主は驚くべきことをこの地に行われる。
46:10 地の果てまで、戦いをやめさせ/弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる。
46:11 「静まれ、私こそが神であると知れ。/国々に崇められ、全地において崇められる。」
46:12 万軍の主は私たちと共に。/ヤコブの神は我らの砦。〔セラ詩編 46章1節~12節
メッセージ
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今夕は、『詩編』の第46編から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。1節に、「指揮者によって。コラの子の詩。アラモト調。歌」とあるように、第46編は、レビ人で聖歌隊であったコラの子の詩です(歴代下20:19参照)。
2節から4節までをお読みします。
神は我らの逃れ場、我らの力。苦難の時の傍らの助け。それゆえ私たちは恐れない。地が揺らぎ/山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。その水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶる様に山々が震えるとも。
詩人は、「神は我らの逃れ場、我らの力。苦難の時の傍らの助け」と信仰を言い表します。ここでの「我ら」は神の都エルサレムで、礼拝をささげている共同体のことです(46:5参照)。神は我らの逃れ場、我らの力、苦難の時の我らの助けであるゆえに、「私たちは恐れない」と言うのです。地が揺らぎ、山々が崩れ落ち、海の中に移ることがあったとしても、私たちは恐れない。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶる様に山々が震えるとしても、私たちは恐れないと言うのです。ここで詩人が描いているのは、地震や津波といった世界の秩序を脅かす混沌(カオス)の力です。地震や津波は恐ろしいものですが、なぜ、「私たちは恐れない」と言えるのでしょうか。それは私たちの逃れ場である神が、地震や津波といった混沌をも支配しているからです。『創世記』の第1章を読むと、神様が混沌であった世界に秩序を与えて、人間が住める世界にしてくださったことが記されています。世界を造り、保ち、治めておられる神様が、私たちの逃れ場であるならば、混沌の力によって苦しむことがあったとしても、私たちは恐れる必要がないのです(ヨブ38、39章も参照)。2011年に起こった東日本大震災のときに、被災した教会からのレターに、この御言葉がしばしば引用されていました。地震と津波という混沌の力に遭遇した教会は、第46編の御言葉を通して、自分たちの信仰を言い表し、自分たちの信仰を奮い立たせていたのだと思います。私たちの逃れ場は天地を造られた神であります。それゆえ、私たちは混沌の力に脅かされることがあっても恐れる必要がないのです。そのことを、主イエス・キリストは、『マルコによる福音書』の第4章で教えてくれています。新約の67ページです。第4章35節から41節までをお読みします。
さて、その日の夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで、彼らは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。他の舟も一緒であった。すると、激しい突風が起こり、波が舟の中まで入り込み、舟は水浸しになった。しかし、イエス自身は、艫の方で枕をして眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言った。
イエス様は突風と荒波を静められた後で、弟子たちにこう言います。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」。イエス様は、「風も海も従わせることができる私があなたがたと共にいるのに、なぜ怖がるのか」と言われるのです。風と海を従わせることができるイエス・キリストは、御言葉と聖霊において、私たちと共にいてくださり、私たちの逃れ場となってくださいます。ですから、キリストの教会である私たちは、混沌の力に脅かされることがあっても、心安らかにすることができるのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の864ページです。
5節から8節までをお読みします。
川とその流れは神の都に/いと高き方の聖なる住まいに喜びを与える。神はその中におられ、都は揺らぐことはない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、もろもろの王国は揺らぐ。神が声を出されると、地は溶け去る。万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦。
「神の都」「いと高き方の聖なる住まい」とは、エルサレムのことです。エルサレムには、主がその名を置くと言われた神殿がありました(列王上8:29参照)。それゆえ、神はエルサレムを祝福し、守られるのです(川とその流れは祝福の象徴である)。「夜明けとともに、神は助けをお与えになる」とありますが、この背景には、主がエルサレムをアッシリア帝国の手から守られたことがあるようです。『列王記下』の第19章に、アッシリアの王センナケリブによって、エルサレムが包囲されたことが記されています。エルサレムはアッシリア帝国の軍隊によって滅ぼされる危機の中にありました。しかし、主は御自分のために、また主の僕ダビデのために、エルサレムを守り、救ってくださいました(19:34参照)。『列王記下』の第19章35節にはこう記されています。「その夜、主の使いが現れ、アッシリアの陣営で18万5千人を打ち殺した。人々が朝早く起きてみると、皆死体となっていた」。このように、「夜明けとともに、神は助けをお与えになる」のです。それゆえ、騒ぎ、揺らぐのは、私たちを滅ぼそうとする諸国民であり、もろもろの王国であるのです。
イエス・キリストによって結ばれた新しい契約によって、神様は、イエス・キリストの名によって二人または三人が集まるところにいてくださいます(マタイ18:20参照)。イエス・キリストの御名によって、二人または三人が集まる教会を、神様はその住まいとしてくださるのです。そして、神様の敵である悪魔の手から、ご自分の教会を守ってくださるのです(ウェストミンスター信仰告白』5:7「神の摂理は、じっさい一般的には、すべての被造物に及んでいるが、同様に、全く特別な仕方で、神の教会のために配慮し、万事を教会の益となるように整える」参照)。
8節に、「万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦」とあります。この御言葉は12節でも繰り返されます。私たちと共におられるのは、アッシリアの陣営18万5千人を打ち殺した、天使たちを率いる万軍の主であります(マタイ26:53「お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」も参照)。また、先祖ヤコブをあらゆる災いから贖われた神であります(創世48:15、16参照)。十字架の死と復活によって悪魔を無力にし、御言葉と聖霊においていつも共にいてくださる主イエス・キリストが、我らの砦であるのです(ヘブライ2:14参照)。
9節から12節までをお読みします。
来て、主の業を仰ぎ見よ。主は驚くべきことをこの地に行われる。地の果てまで、戦いをやめさせ/弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる。「静まれ、私こそが神であると知れ。国々に崇められ、全地において崇められる。」万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦。
ここには、主の驚くべき御業が記されています。主は、地の果てまで、戦いをやめさせ、弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払うのです。残念ながら、この主の御業は実現していません。今も世界では戦争や紛争が起こっていますし、武器は大量に作られています。なぜ、主の御業は実現していないのでしょうか。それは、すべての人が、主こそ神であることを知ろうとしないからです。すべての人が主を神として崇めていないからです。主は、「静まれ、私こそが神であると知れ。国々に崇められ、全地において崇められる」と言われます。しかし、多くの人は静まって、主こそ神であることを知ろうとせず、崇めもしないのです。それゆえ、「地の果てまで、戦いをやめさせる」という主の御意志は、実現していないのです。
今夕、私たちが心に刻みたいことは、「地の果てまで、戦いをやめさせ、平和を造り出すこと」が、主の御心であるということです。現実の世界ではそうなっていませんが、主の御心は戦争をやめさせて、平和を造り出すことであるのです。その主の御心をすべての人が自分の心とするとき、戦争は終わり、平和が訪れるのです。このような平和は、主イエス・キリストの再臨によってもたらされる新しい天と新しい地において実現する平和であります。そのことを信じて、私たちは、「天におられる私たちの父よ/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように/天におけるように地の上にも」と祈っているのです(マタイ6:9、10参照)。私たちは主の祈りをささげることによって、戦いのない、平和な世界が実現することを待ち望んでいるのです。また、神の御心である平和を造り出す者として歩んでいるのです(マタイ5:9「平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」参照)。
私たちの主イエス・キリストは、十字架の御業によって、神との平和を、人と人との平和を造り出してくださいました(コロサイ1:20「その十字架の血によって平和を造り/地にあるものも/天にあるものも/万物を御子によって/ご自分と和解させてくださったのです」参照)。主イエス・キリストの福音は、「平和の福音」であるのです(エフェソ2:17)。私たちは、平和の福音を宣べ伝えることによって、平和を造り出す者とされているのです。また、イエス・キリストの平和の支配に生きる者とされているのです(コロサイ3:15「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」参照)。そのことを信じて、私たちは、イエス・キリストの平和を追い求めていきたいと願います。