真の知識に達する道 2026年4月26日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:5 だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。
3:6 これらのことのために、神の怒りが不従順の子らの上に下るのです。
3:7 あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました。
3:8 しかし今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、冒涜、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
3:9 互いに嘘をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
3:10 新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。
3:11 そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。コロサイの信徒への手紙 3章5節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度、主の日の礼拝では、イエス・キリストの使徒パウロが記した『コロサイの信徒への手紙』からお話しています。今朝は、第3章5節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 5節から7節までをお読みします。

 だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。これらのことのために、神の怒りが不従順の子らの上に下るのです。あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました。

 「だから」とありますが、これは直前の3節と4節を受けてのものです。3節と4節にこう記されていました。「あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」。この3節と4節を受けて、「だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい」とパウロは言うのです。パウロは、「あなたがたは、キリストと共に死んで、キリストと共に復活させられた」と記しました(2:20、3:1参照)。この背景には、コロサイの信徒たちが、また私たちがイエス・キリストの名によって洗礼を受けた事実があります。イエス・キリストの名によって洗礼を受けた私たちは、イエス・キリストの死と復活の命にあずかる者であるのです(2:12参照)。キリストと共に復活させられたとはどういうことでしょうか?それは、「私たちの命がキリストと共に神の内に隠されている」ということです。私たちはイエス・キリストを信じて洗礼を受けたからといって、キリストと同じ朽ちることのない、栄光の体に変えられるわけではありません。それは、キリストと共に復活させられた私たちの命が、天におられるキリストと共に神の内に隠されているからであるのです。しかし、その命があらわにされるときが来ます。それがイエス・キリストが天から再び来られる日であるのです。私たちの命であるキリストが現れるとき、私たちもキリストと同じ栄光の体に変えられるのです。キリストと共に栄光に包まれて、新しい天と新しい地を治めることになるのです。ここに、私たちキリスト者の希望があるのです。そのような希望を与えられているのだから、「地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい」とパウロは言うのです。キリストと共に復活させられた者として、キリストと共に栄光にあずかる者として、私たちは地上の体に属するもの、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、及び貪欲を殺さなければならないのです。このパウロの言葉の背景には、地上の体に淫らな行いや悪い欲望が宿っているという考え方があります。特にここで言われているのは、性的な欲望、肉欲のことです。キリストと共に死んだ私たちは罪に対して死んだ者たちでもあります。しかし、私たちには罪が残っており、日々、罪を犯してしまいます。罪は私たちの体の欲望を用いて、罪を犯させるのです。その地上の体に属する悪しき行い、悪しき思いを、私たちは殺さなくてはならないのです(ローマ6章参照)。特に、パウロは、「貪欲」について警告しています。「貪欲は偶像礼拝にほかなりません」とパウロは言うのです。「貪欲」とは「多くの物を所有したいという欲望」のことです。イエス様も「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである」と言われました(ルカ12:15)。偶像崇拝とは、神ではなくて、偽りの神を拝むことです。さらに言えば、偶像崇拝とは、まことの神ではないものに依り頼んで生きることであるのです。イエス様は、「あなたがたは、神と富みとに仕えることはできない」と言われました(ルカ16:13)。私たちが神にではなく、富に依り頼むならば、私たちは富を神とする偶像崇拝の罪を犯しているのです。偶像崇拝とは、木や石でできた像を拝むだけではなく、神ではないものに依り頼んで生きることであるのです。その偶像崇拝の源には、貪欲、もっと多くのものを所有したいという欲望があるのです。ですから、私たちは、特に、貪欲を殺さなければならないのです。

 なぜ、私たちは地上の体に属する悪しき行いや悪しき欲望を殺さなければならないのでしょうか。それは、これらのことが神の怒りに値する罪であるからです。十戒の第七の戒めに、「あなたは姦淫してはならない」とあります。また、第十の戒めに、「あなたは貪ってはならない」とあります。姦淫することと貪ることは、神が禁じられる罪であるのです。姦淫とは、配偶者ではない人と肉体の関係を持つことですから、性的な営みそれ自体は罪ではありません。聖書によれば、神様は御自分のかたちに男と女を創造されました(創世1:27参照)。そして、二人は一体となるという結婚の制度を定めて、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福されたのです(創世2:24、1:28参照)。水曜日の祈祷会で『雅歌』からお話していますが、そこには花婿と花嫁の愛の歌が記されています。ですから、神様がお怒りになる不従順とは、他人の結婚関係を破壊してしまう姦淫の罪のことであるのです。パウロが、今朝の御言葉で、地上の体に属するものを殺してしまいなさいというとき、そこで言われているのも姦淫の罪であるのです。

 パウロは、「あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました」と言います。イエス・キリストを信じて洗礼を受ける前、コロサイの信徒たちは、また私たちは、この世のもろもろの霊力の支配の下にありました。『ローマの信徒への手紙』の第6章によれば、私たちは罪の奴隷であったのです。しかし今は違うわけです。今は、イエス・キリストと共に死んで、義に生きる者となった。地上の体に属するものと戦い、死に至らしめることができるようになったのです。

 8節から10節までをお読みします。

 しかし今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、冒涜、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いに嘘をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。

 パウロが「しかし今は」と記すとき、その「今」とは、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられた今のことです。上にあるものを思い、キリストと共に栄光にあずかることに希望を置いている今のことです。キリストと共に死んで、キリストと共に復活させられた私たち、上のものを思い、キリストと共に栄光にあずかることに希望を置いている私たちは、怒り、憤り、悪意、冒瀆(悪口)、口から出る恥ずべき言葉を捨てるべきであるのです。ここにあげられているものは、いずれも人間関係を損なう罪です。嘘をつくこともそうです。十戒の第9の戒めに、「あなたは隣人について偽証してはならない」とあります。偽証すること、嘘をつくことは、隣人との関係を損なう罪であるのです。姦淫の罪が結婚関係を破壊する罪であるように、偽証の罪は共同体を破壊する罪であるのです。

 パウロは、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」と言います。この御言葉の背景にも、イエス・キリストの名によって洗礼を受けたことがあります。洗礼を受ける人は着ていた服を脱ぎ捨て、裸同然になって、水の中に沈みました。そして、起き上がって、白い服を着たのです。そのような習慣を念頭に置いて、パウロは、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」と言うのです。「古い人」とは「はじめの人アダム」のことです。また、「新しい人」とは「最後のアダムであるイエス・キリスト」のことです。かつての私たちは古い人、はじめの人アダムに連なる者でありました。しかし、イエス・キリストの名によって洗礼を受けたことにより、私たちは新しい人、最後のアダムであるイエス・キリストに連なる者となったのです。それゆえ、私たちは、古い人、アダムに連なる自己中心的な生き方を捨てて、新しい人、イエス・キリストに連なる神中心的な生き方をすべきであるのです(ローマ5章参照)。

 パウロは、「新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです」と記します。聖書は、神は御自分のかたちに人を造られたと教えています(創世1:26、27参照)。また、はじめの人アダムの堕落によって、神のかたちは歪められてしまったことを教えています。神様は、人を御自分のかたちに、ご自分との交わりに生きる者として造られました。しかし、はじめの人アダムの罪によって、すべての人の神のかたちは歪められて、神に背く者となってしまったわけです。しかし、私たちが新しい人、イエス・キリストを着るならば、私たちの神のかたちは回復されて、私たちも新しい人となるのです(二コリント5:17「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です」参照)。パウロは、第1章15節でこう記していました。「御子は、見えない神のかたちであり/すべてのものが造られる前に/最初に生まれた方です」。御子イエス・キリストは、神のかたちそのものであるのです。その御子イエス・キリストとの交わりに生きる私たちは、造り主である神のかたちに従ってますます新たにされて、真の知識に達するのです。これがイエス・キリストの使徒パウロが教える、真の知識に達するまでの道筋であるのです。コロサイの信徒たちを惑わせていた偽教師たちは、幻で見たことを頼りとし、また、禁欲的な規定を守ることによって、真の知識に達することができると教えていました。しかし、そのような偽教師たちの教えは、実は何の価値もなく、肉を満足させるだけであるのです。では、真の知識に達するには、どうすればよいのでしょうか。パウロは、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです」と言います。イエス・キリストの名によって洗礼を受けて、イエス・キリストとの交わりに生きるとき、私たちの神のかたちは回復されて、真の知識に達することができるのです。「真の知識に達する」とは「まことの神を知る」ということです。イエス・キリストにあって、まことの神を知ることは、真の知識に達することであるのです。なぜ、世界は存在しているのか。人間とは何者であるのか。人は何のために生きているのか。人は死んだらどうなるのか。なぜ、この地上に罪や悲惨があるのか。そのような数々の疑問が、イエス・キリストにあって、まことの神様を知るときに解き明かされるのです。イエス・キリストにあって、まことの神様を知った私たちは、「人のおもな目的は神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」と知っているのです(ウェストミンスター小教理問答 問1参照)。私たちは、新しい人イエス・キリストを着ることによって、神のかたちを回復していただき、まことの神様を父として知る者とされているのです。

 11節をお読みします。

 そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。

 「そこには」とは、何のことでしょうか。私は、「真の知識に達する道筋においては」と理解したいと思います(ガラテヤ書の3章26~29節の教会論的な文脈ではなくて)。真の知識に達するとは、まことの神様を知ることですが、その道筋において、もはや民族の違いや文明の違いや社会的な身分の違いは意味を持たないのです。「スキタイ人」とありますが、スキタイ人は未開の人の代表的な人たちです。ここだけ対(ペア)になっていません。「ギリシア人とユダヤ人」「割礼のある者とない者」「奴隷と自由人」と対(ペア)になっているのですが、「未開の人(バルバロイ)、スキタイ人」の対(ペア)である「文化人(ギリシャ語を話す人)」は記されていないのです。真の知識に達するのに、どの民族に属しているか、肉に割礼を受けているかいないか、文化人であるか未開人であるか、奴隷であるか自由人であるかは関係がありません。なぜなら、真の知識に達する道筋は、私たちの内におられるイエス・キリストであるからです。イエス様が、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」と言われたように、私たちはただイエス・キリストにあって、まことの神様を知る真の知識に達することができるのです(ヨハネ14:6)。「キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです」というパウロの言葉は、どのような人であっても、ただイエス・キリストにあって、まことの神様を知ることができることを教えているのです。

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