キリストと共に神の内に隠されている命 2026年3月22日(日曜 朝の礼拝)

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キリストと共に神の内に隠されている命

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コロサイの信徒への手紙 2章20節~3章4節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:20 あなたがたは、キリストと共に死んでこの世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、この世に生きている者のように、
2:21 「手を付けるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのですか。
2:22 これらはみな、使えばなくなるもの、人間の戒めや教えに基づくものです。
2:23 このようなことは、独り善がりの礼拝、自己卑下、体の苦行を伴うもので、知恵あることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉を満足させるだけなのです。
3:1 あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
3:2 上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。
3:3 あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。
3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。コロサイの信徒への手紙 2章20節~3章4節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度、第四週の礼拝において、『コロサイの信徒への手紙』から説教しています。今朝は、第2章20節から第3章4節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。 

 『コロサイの信徒への手紙』は、イエス・キリストの使徒パウロが、コロサイにある教会に宛てて記した手紙です。コロサイの教会は、偽教師たちに惑わされていました。コロサイの教会を惑わせていた偽教師たちについては、第2章8節で、次のように記されていました。「空しいだまし事の哲学によって、人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、人間の言い伝えに基づくもの、この世のもろもろの霊力に基づくものであり、キリストに基づくものではありません」。パウロは偽教師たちの教えを「空しいだまし事の哲学」と言います。偽教師たちの教えは、人間の言い伝えに基づくもの、この世のもろもろの霊力に基づくものであり、キリストに基づいてはいないのです。

 また、パウロは、偽教師たちについて第2章16節から19節前半で、次のように記していました。「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のことで、あるいは祭りや新月や安息日のことで、誰にも批評されてはなりません。これらは来るべきものの影であり、実体はキリストにあります。あなたがたは、自分を卑下したり、天使を礼拝したりする者から、不利な判断を下されてはなりません。彼らは、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによっていたずらに誇っているだけで、頭であるキリストにしっかりと付くことをしません」。偽教師たちは、食べ物や飲み物のことで、あるいは祭りや新月や安息日のことで、コロサイの信徒たちを批評していました。その背景には、旧約の食物規定と暦の規定があったようです。偽教師たちの教えは、様々な宗教の要素を合わせ持つ混淆宗教であると考えられますが、そこにはユダヤ教の要素も含まれていたのです。偽教師たちは、天使に代表されるこの世のもろもろの霊力を礼拝していました。偽教師たちはキリストだけを礼拝するのではなく、この世のもろもろの霊力をも礼拝していたのです。偽教師たちは、使徒たちの教えであるイエス・キリストの福音にではなく、自分たちが幻で見たことを頼りとし、いたずらに誇っていました。偽教師たちの教えには、密儀宗教的な要素も含まれていたのです。このような偽教師たちの教えを踏まえて、今朝の御言葉、第2章20節から23節までをお読みします。

 あなたがたは、キリストと共に死んでこの世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、この世に生きている者のように、「手を付けるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのですか。これらはみな、使えばなくなるもの、人間の戒めや教えに基づくものです。このようなことは、独り善がりの礼拝、自己卑下、体の苦行を伴うもので、知恵あることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉を満足させるだけなのです。

 パウロが「あなたがたは、キリストと共に死んだ」と言うとき、その前提にはコロサイの信徒たちがイエス・キリストの名によって洗礼を受けた事実があります。12節でパウロはこう記していました。「あなたがたは、洗礼によってキリストと共に葬られ、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」。キリストの名によって洗礼を受けること、水の中に沈められることは、キリストと共に死んで、キリストと共に復活させられることを意味しています(ローマ6:3、4参照)。私たちもキリストの名によって洗礼を受けました。ですから、私たちもキリストと共に死んだ者であるのです。それゆえ、私たちもこの世のもろもろの霊力から解放されて、関係の無い者とされたのです。ここには、すべての人がこの世のもろもろの霊力の支配の下にあるという考え方があります。イエス・キリストを信じて、洗礼を受ける前、私たちもこの世のもろもろの霊力の支配の下にありました。しかし、イエス・キリストを信じて、洗礼を受けることにより、キリストと共に死んで、この世のもろもろの霊力の支配から解放されて、関係の無い者となったのです。ですから、この世のもろもろの霊力の支配に生きているかのように、「手を付けるな、味わうな、触れるな」といった規定に縛られてはならないのです。ここにも、食べ物や飲み物についての規定、食物規定があるようです。旧約の『レビ記』を読むと、食べてよい清い食べ物と食べてはいけない汚れた食べ物のリストが記されています。前回(2月22日)、私たちは、旧約の食物規定が来るべき御方、イエス・キリストにおいて廃止されたことを学びました。そのことを踏まえて、「これらはみな、使えばなくなるもの、人間の戒めや教えに基づくもの」であると言います。「使えばなくなるもの」とは「消費されるもの」という意味です。食べ物や飲み物は、体内に取り込まれ、あるものは肉と血となり、あるものはトイレで排泄されます。そのような食物についての規定は、キリストによって廃止されました。それにもかかわらず、ある食べ物やある飲み物を禁止するのであれば、それは人間の戒めや教えに基づくものであるのです。

 パウロは偽教師たちの禁欲主義について、次のように言います。「このようなことは、独り善がりの礼拝、自己卑下、体の苦行を伴うもので、知恵あることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉を満足させるだけなのです」。偽教師たちは、戒律を守って、禁欲的に生活していました。「体の苦行」とありますから、偽教師たちは断食もしていたようです。偽教師たちは修練することによって、知恵に近づこうとしていたのです。しかし、パウロは、「知恵のあることのように見えるが、実は何の価値もないことであり、肉を満足させるだけである」と言います。ここでの「肉」は、はじめの人アダムに連なる自己中心的な人間の欲望を指しています。偽教師たちは、戒律を守って禁欲的な生活を送ることにより、他の人たちに対して自分を誇りたいだけであるのです。

 第3章1節から4節までをお読みします。

 あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

 パウロは、コロサイの信徒たちに、「あなたがたはキリストと共に復活させられた」と記します。この前提にも、コロサイの信徒たちが、イエス・キリストの名によって洗礼を受けた事実があります。イエス・キリストの名によって洗礼を受けた私たちは、キリストと共に復活させられたのです。私たちは、イエス・キリストの復活の命に生きる者たちであるのです。それゆえ、「上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」と言うのです。「上にあるもの」とは、「神の右の座に着いておられるキリストの王的な御支配」のことです。山上の説教のイエス様の御言葉を用いれば、「まず神の国と神の義を求めなさい」ということです(マタイ6:33)。上にあるもの、それはキリストにおいて実現している神の国と神の義であります。私たちが思いを寄せるべきは、キリストにおいて実現している神の王的な支配であって、この世のもろもろの霊力の支配であってはならないのです。なぜなら、イエス・キリストの名によって洗礼を受けた私たちは、キリストと共に死んで、キリストと共に復活させられた者であるからです。

 パウロが、「あなたがたはキリストと共に復活させられた」と言うとき、それは私たちがキリストと同じ、朽ちることのない栄光の体で復活したことを意味していません。イエス・キリストの名によって洗礼を受けた後も、私たちの体は他の人と同じように衰えて朽ちてしまいます。もし、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた私たちの体が朽ちることのない栄光の体に変えられるのであれば、誰の目にも私たちがキリストと共に復活させられたことが明かになると思います。また、もし、そのようなことが起これば、誰もがイエス・キリストを信じて、洗礼を受けると思います。しかし、実際は、イエス・キリストの名によって洗礼を受けて、キリストと共に死んで、キリストと共に復活させられた人も、衰えて朽ちてしまう体のままです。では、私たちがキリストと共に復活させられたことを、私たちはどのように理解すればよいのでしょうか。パウロは、「あなたがたは死んで、あなたがたの命は、キリストと共に隠されている」と言います。キリストと共に死んで、キリストと共に復活させられた私たちの命は、キリストと共に神の内に隠されている。それゆえ、人間の目には、キリストの名によって洗礼を受けていない人も、キリストの名によって洗礼を受けた人も、同じように見えるのです。もちろん、求めるもの、思いを寄せるものは異なります。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けていない人は、はじめの人アダムに属する人であり、この世のもろもろの霊力の支配の下にあります。ですから、彼らは人間の戒めや教えといった地上のものに思いを寄せるのです。他方、イエス・キリストを信じて、洗礼を受けた人は、キリストと共に死んで、復活させられた者であり、上にあるもの、イエス・キリストにおいて実現している神の国と神の義を求める者となるのです。「主の祈り」にあるように、「御国が来ますように。御心が行われますように/天におけるように地の上にも」と祈る者となるのです(マタイ6:10)。そのような内面の違いはあるのですが、外面は同じように見えます。それは、私たちの命がキリストと共に神の内に隠されているからであるのです。ちなみに、私たちの命がキリストと共に神の内に隠されていることを信じるからこそ、葬儀説教は成り立ちます。愛する人の死を前にして、なぜ、牧師は復活について語ることができるのか。それは、亡くなった人の命が、キリストと共に神の内に隠されていることを信じているからです。

 イエス・キリストを信じて、洗礼を受けた私たちの命は、キリストと共に神の内に隠されています。しかし、ずっと隠されているわけではありません。キリストと共に神の内に隠されていた命が現れるときが来る。それが、イエス・キリストが天から再び来られるときであるのです。「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」。パウロは、「あなたがたの命であるキリスト」と言います。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けて、教会の一員とされた私たちにとって、キリストは命そのものであるのです。私たちの命であるキリストが天から再び来られるとき、私たちもキリストと同じ栄光の体に変えられます(フィリピ3:20、21参照)。そのとき生きていれば、死を経験せずに、栄光の体に変えられます。もし、そのとき死んでいても、栄光の体で復活させられます(一コリント15:51〜53参照)。そのとき、私たちは、確かに自分はキリストと共に復活させられていたこと、自分の命が、キリストと共に神の内に隠されていたことを知るのです。

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