私の魂よ、主を待ち望め 2026年2月15日(日曜 夕方の礼拝)

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私の魂よ、主を待ち望め

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 34編1節~35編5節

聖句のアイコン聖書の言葉

42:1 指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。
42:2 鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように/神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。
42:3 神に、生ける神に私の魂は渇く。/いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。
42:4 昼も夜も、私は涙を食物とする。/人は日夜私に言う/「あなたの神はどこにいるのか」と。
42:5 私は祭りに集う人の群れと共に進み/喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。/それらを思い起こして、私の魂を注ぎ出す。
42:6 私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/私はなお、神をほめたたえる/「御顔こそ、わが救い」と。
42:7 わが神よ。/私の内で魂は打ち沈み、あなたを思い起こす/ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から。
42:8 あなたの激流のとどろきに答えて/深淵は深淵を呼び込み/砕け散るあなたの波頭は私を越えて行く。
42:9 昼に、主は命じて慈しみを私に送り/夜には、主の歌が私と共にある/わが生ける神への祈りが。
42:10 わが岩なる神にこう祈ろう。/「なぜ、私をお忘れになったのか。/なぜ、私は敵の虐げの中を嘆きながら歩くのか」と。
42:11 私を苦しめる者は私の骨という骨を砕き/日夜、私を嘲って言う/「あなたの神はどこにいるのか」と。
42:12 私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/私はなお、神をほめたたえる/「御顔こそ、わが救い」と。/わが神よ。
43:1 神よ、私を裁き/私のために争ってください。/神に忠実ではない国民から、欺きと不正の者から/私を救い出してください。
43:2 あなたこそ、わが砦なる神。/なぜ、私を拒まれたのですか。/なぜ、私は敵の虐げの中を嘆きながら歩むのですか。
43:3 あなたの光とまことを遣わしてください。/それらは私を導き/聖なる山、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう。
43:4 私は神の祭壇へと/わが喜びなる神へと近づき/琴を奏でて、あなたをたたえます。/神よ、わが神よ。
43:5 私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/私はなお、神をほめたたえる/「御顔こそ、わが救い」と。/わが神よ。
詩編 34編1節~35編5節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は、『詩編』の第42編と第43編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。第42編と第43編をひと続きの詩編としてお話しいたします。

 1節に、「指揮者によって。マスキール。コラの子の詩」とあります。第42編と第43編は、「コラの子の詩」です。「コラの子」とは、神殿の聖歌隊を務めたレビ人たちです(歴代下20:18、19「ヨシャファトは顔を地に伏せ、ユダのすべての人々は、エルサレムの住民と共に、主の前にひれ伏し、主を礼拝した。レビ人のうち、ケハト人の一族、コラ人の一族が立ち上がり、非常に大きな声でイスラエルの神、主を賛美した」参照)。また、「マスキール」とは「教訓」という意味です。第42編と第43編は、神殿の聖歌隊であるコラの子が歌った教訓の詩であるのです。

 2節から7節前半までをお読みします。

 鹿が枯れ谷で水をあえぎ求めるように/神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。昼も夜も、私は涙を食物とする。人は日夜私に言う。「あなたの神はどこにいるのか」と。私は祭りに集う人の群れと共に進み/喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。それらを思い起こして、私の魂を注ぎ出す。私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、神をほめたたえる/「御顔こそ、わが救い」と。わが神よ。

 詩人は、エルサレムから遠く離れた所におり、神殿で行われる礼拝に出席できないようです。それで、詩人は、「鹿が枯れ谷で水をあえぎ求めるように/神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める」と言います。ここで注意したいことは、鹿が水を飲もうと谷に来たのに、その谷は枯れており、鹿は水が飲めずにあえいでいるということです。ここに描かれているのは、そのような過酷な状況であるのです。それと同じように、詩人の魂も神をあえぎ求めているのです。詩人も神の臨在を求めるのですが、神の臨在にあずかることができず、魂は渇いて、あえいでいるのです。ここには、エルサレム神殿で行われる礼拝においてこそ、神の臨在にあずかり、御顔を仰ぐことができるという信仰があります。エルサレム神殿こそ、神様がその名を置くと言われた場所であるのです。このとき、詩人は、異邦人の土地にいたようです。詩人は異邦人による捕囚の憂き目にあっていたのです。4節に、「昼も夜も、私は涙を食物とする。人は日夜私に言う『あなたの神はどこにいるのか』と」とあります。ここでの「人」は異邦人であるようです。「涙を食物とする」とあるように、悲しみのあまり食事も喉を通りませんでした。その詩人に対して、異邦人たちは、「あなたの神はどこにいるのか」と言うのです。神様は、イスラエルの民に、像を用いて礼拝することを禁じられました。ですから、像を示して、「これが私の神です」と言うことはできません。イスラエルの神は、目に見ることのできない神です。その目に見えない神の臨在に豊かにあずかれる時と場所が、エルサレム神殿で行われる礼拝であったのです。「あなたの神はどこにいるのか」。これは嘲りの言葉です。「あなたの神は無力ではないか」「あなたは神から見捨てられたのではないか」。そのような詩人を嘲る言葉であるのです。けれども、詩人は異邦人の土地で、かつての日々を思い起こします。「私は祭りに集う人の群れと共に進み/喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた」。そのような幸いな日々を思い起こして、自分の魂にこう語りかけるのです。「私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、神をほめたたえる/『御顔こそ、わが救い』と。わが神よ」。この御言葉は、12節と第43編5節にも記されている繰り返しの言葉(リフレイン)です。異邦人は、「あなたの神はどこにいるのか」と嘲ります。しかし、詩人は、「私の魂よ、神を待ち望め。私はなお、神をほめたたえる」と言うのです。そのようにして、自分の信仰を奮い立たせるのです。

 7節後半から12節までをお読みします。

 私の内で魂は打ち沈み、あなたを思い起こす/ヨルダンの地から、へルモンとミザルの山から。あなたの激流のとどろきに答えて/深淵は深淵を呼び込み/砕け散るあなたの波頭は私を越えて行く。昼に、主は命じて慈しみを私に送り/夜には、主の歌が私と共にある/わが生ける神への祈りが。わが岩なる神にこう祈ろう。「なぜ、私をお忘れになったのか。なぜ、私は敵の虐げの中を嘆きながら歩くのか」と。私を苦しめるものは私の骨という骨を砕き/日夜、私を嘲って言う。「あなたの神はどこにいるのか」と。私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、神をほめたたえる/「御顔こそ、わが救い」と。わが神よ。

 7節の後半に、「私の内で魂は打ち沈み、あなたを思い起こす/ヨルダンの地から、へルモンとミザルの山から」とあるように、詩人はイスラエルの北端の地にいたようです。詩人はヘルモン山に積もる雪が溶けて、水が勢いよくヨルダン川に流れていく光景を見て、「あなたの激流のとどろきに答えて/深淵は深淵を呼び込み/砕け散るあなたの波頭は私を越えて行く」と言います。これは神の怒りに翻弄されるイメージですね(ヨナ2:4参照)。詩人は、自分がイスラエルの北端の地で、異邦人の支配の下に置かれていることを、自分たちの罪に対する神の怒りとして理解しているのです。しかし、「わたしはあなたと共にいる」と言われる主(ヤハウェ)は、慈しみを送ってくださり、詩人が主の歌を歌えるように、祈りをささげることができるようにしてくださいます。詩人は、異邦人の土地で、主を賛美し、祈ることができることに、主の慈しみを見いだすのです。詩人は、自分の岩なる神に、「なぜ、私をお忘れになったのか。なぜ、私は敵の虐げの中を嘆きながら歩くのか」と祈ります。この祈りは答えを求める祈りではなく、「私を思い起こしてください。私を敵の虐げから救い出してください」という祈りであります。そのように祈る詩人に対して、苦しめる者は「あなたの神はどこにいるのか」と嘲ります。そのような嘲りの言葉を打ち消すように、詩人は、「私の魂よ、神を待ち望め。御顔こそ、わが救い」と自分自身に語りかけるのです。

 第43編1節から5節までをお読みします。

 神よ、私を裁き/私のために争ってください。神に忠実ではない国民から、欺きと不正の者から私を救い出してください。あなたこそ、わが砦なる神。なぜ、私を拒まれたのですか。なぜ、私は敵の虐げの中を嘆きながら歩むのですか。あなたの光とまことを遣わしてください。それらは私を導き/聖なる山、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう。私は神の祭壇へと/わが喜びなる神へと近づき/琴を奏でて、あなたをたたえます。神よ、わが神よ。私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、神をほめたたえる。「御顔こそ、わが救い」と。わが神よ。

 詩人は、神の正しい裁きを祈り求めます。正しい裁きによって、自分を欺きと不正の者から救い出してくださいと願います。そして、自分の砦なる神に、「私を拒まないでください。私を敵の虐げから救い出してください。そのために、あなたの光とまことを遣わしてください」と言うのです。詩人は、「神様が遣わしてくださる光とまことが、自分を導き聖なる山、シオンにある神殿に伴ってくれるでしょう」と言います。ここには、主が雲の柱と火の柱で、イスラエルの民をエジプトから約束の地カナンへと導かれたイメージが重ねられています。神の光とまことによって、エルサレム神殿へと伴われた詩人は、神の祭壇へと、自分の喜びである神へと近づき、琴を奏でて神をほめたたえるのです。ここにあるのは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰です(新共同訳 ヘブライ11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」参照)。そのような信仰をもって、詩人は、「私の魂よ、神を待ち望め。御顔こそ、わが救い」と言うのです。

 今夕の御言葉にある繰り返し、「私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、神をほめたたえる/『御顔こそ、わが救い』と。わが神よ」という繰り返しは、それぞれの文脈において、微妙に意味合い(ニュアンス)が違います。最初の繰り返しである第42編6節と7節前半は、かつての恵みの日々を思い起こして、自分の魂を励ます言葉として語られています。次の第42編12節は、自分を苦しめる者の言葉、「あなたの神はどこにいるのか」という嘲り言葉を打ち消すように、自分の魂に語りかけています。最後の第43編5節は、神の光とまことによって、エルサレム神殿に導かれて、自分の喜びである神に近づき、ほめたたえることができる確信から、希望をもって自分の魂に語りかけています。このように、同じ言葉であっても、その文脈から意味合いが異なっているのです。

 今夕の御言葉は、私たちの罪を担って苦しまれたイエス・キリストを預言する詩編であると言えます。第42編3節前半に、「神に、生ける神に私の魂は渇く」とあります。この魂の渇きを、イエス様は十字架の上で経験されたのです。『ヨハネによる福音書』の第19章28節にこう記されています。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」。イエス様が十字架の上で「渇く」と言われたとき、それは喉の渇きだけではなく、魂の渇きでもあったのです。イエス様は、私たちの救い主として、生ける神をあえぎ求め、渇いていたのです。また、イエス様は、十字架の上で、最高法院の議員たちから「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と嘲けられました(新共同訳 マタイ27:43)。そのような嘲りの言葉を聞いて、イエス様も「私の魂よ、神を待ち望め。御顔こそ、わが救い」と、御自分の魂に語りかけていたのではないかと思います。そのように自分の信仰を奮い立たせて、イエス様は十字架の上で、私たちの救いを成し遂げてくださったのです。ですから、私たちも、かつての恵みの日々を思い起こして、また、嘲りの言葉を打ち消すために、さらには、神の救いを確信して、「私の魂よ、神を待ち望め。御顔こそ、わが救い」と、自分の魂に語りかけたいと思います。

 また、第43編3節に、「あなたの光とまことを遣わしてください。それらは私を導き/聖なる山、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう」とあります。この「光とまこと」こそ、イエス・キリストであります。イエス様は、「私は世の光である」と言われました(ヨハネ8:12)。また、「私は道であり、真理であり、命である」と言われました(ヨハネ14:6)。神が遣わしてくださった光とまこと(真理)こそ、イエス・キリストであるのです。イエス・キリストは、私たちに永遠の命を与えてくださいました。私たちは、イエス・キリストにあって、神の子とされ、父なる神との永遠の愛の交わりに生きる者とされています。そのようにして、イエス・キリストは、私たちの魂の渇きを癒やしてくださったのです(ヨハネ4:14「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」参照)。イエス・キリストは、御自分の名によって2人または3人が集まるその只中に御言葉と聖霊において臨在してくださいます。場所にとらわれない、霊と真理からなる礼拝(聖霊においてイエス・キリストを通してささげる礼拝)が実現しているのです(新共同訳 ヨハネ4:23「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」参照)。そして、イエス・キリストは、終わりの日に、天から再び来てくださり、私たちを新しい天と新しい地に、新しいエルサレムに導いてくださるのです。それゆえ、私たちは「主イエスよ、来たりませ」と祈りつつ、神をほめたたえているのです(黙22:20参照)。

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