弱い者を思いやる人は幸いである 2026年1月11日(日曜 夕方の礼拝)
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弱い者を思いやる人は幸いである
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- 村田寿和 牧師
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詩編 41章1節~14節
聖書の言葉
41:1 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
41:2 幸いな者、弱い者を思いやる人は。/災いの日に、主はその人を救い出してくださる。
41:3 主が守り、生かし/彼はその地で幸いな人と呼ばれる。/その人を敵の思いのままにさせないでください。
41:4 主は彼が病の床にあっても支えてくださる。/その人が病気のとき/あなたはその床を新たに変えてくださる。
41:5 私は言いました/「主よ、私を憐れみ、魂を癒やしてください。/私はあなたに罪を犯しました」と。
41:6 敵は私に悪意をもって言います/「いつ彼は死に、その名は滅びるか」と。
41:7 見舞いに来ても、その者の心は空しいことを語り/悪事を集め、外に出ては言い触らします。
41:8 私を憎む者は皆、私のことでささやき合い/私に悪をたくらみます。
41:9 「不吉なことが彼に起こっている。/彼は倒れ伏して/もう立ち上がることはできない」と。
41:10 私が信頼していた友さえも/私のパンを食べながら/威張って私を足蹴にします。
41:11 しかし主よ、あなたは私を憐れみ/立ち上がらせてください。/私は彼らに報います。
41:12 このことで、私は知りました/あなたが私を喜びとされていることを/敵は私に勝ち誇れないことを。
41:13 あなたは私を全き者として支え/とこしえまでもあなたの前に/立たせてくださいました。
41:14 イスラエルの神、主をたたえよ/いにしえからとこしえまで。/アーメン、アーメン。
詩編 41章1節~14節
メッセージ
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今年も夕べの礼拝では、『詩編』を読み進めていきます。今夕は第41編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。1節に、「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩」とあるように、第41編は、イスラエルの王ダビデの詩編であります。そのことを前提にしてお話しいたします。
2節から4節までをお読みします。
幸いな者、弱い者を思いやる人は。災いの日に、主はその人を救い出してくださる。主が守り、生かし/彼はその地で幸いな人と呼ばれる。その人を敵の思いのままにさせないでください。主は彼が病の床にあっても支えてくださる。その人が病気のとき/あなたはその床を新たに変えてくださる。
ダビデは、「幸いな者、弱い者を思いやる人は」と言います。主イエスは山上の説教において、「憐れみ深い人々は、幸いである/その人たちは憐れみを受ける」と言われました(マタイ5:7)。その主イエスの御言葉と同じ響きをここに聞き取ることができます。「幸いな者、弱い者を思いやる人は」。このダビデの言葉は、ダビデ自身が弱い者を思いやる人であることを前提にしています。ダビデは弱い者を思いやる憐れみ深い人でした(詩35:13、14「彼らが病のとき/私は粗布をまとって断食し、自らを苦しめ/胸の内に祈りを繰り返した。私は友のように、兄弟のように歩き回り/母の喪に服する子のように/打ちひしがれて、うずくまった」参照)。しかし、ダビデが弱くなったときに、思いやってくれる人はいなかったのです。5節以下に、ダビデが病を患って弱くなったことが記されています。ダビデが弱くなったとき、ダビデを思いやってくれる人はいませんでした。ダビデの周りには悪意を持つ敵ばかりがいたのです。ダビデは、信頼していた友にさえ裏切られたのです。そのような体験を踏まえて、ダビデは、「幸いな者、弱い者を思いやる人は」と言うのです。なぜ、弱い者を思いやる人は幸いなのでしょうか?それは、災いの日に、主がその人を救い出してくださるからです。主イエスが「憐れみ深い人々は憐れみを受ける」と言われたように、弱い者を思いやる人は、自分が弱ったときに、主が救い出してくださるのです。弱い者に代わって、弱い者を造られた主がその人に報いてくださるのです。しかし、そのことは、弱い者を思いやる人が敵に悩まされない、病の床に就かないということではありません。弱い者を思いやる人も敵に悩まされます。しかし、主は弱い者を思いやる人を敵の悪意から守ってくださるのです。また、弱い者を思いやる人も病の床に就きます。しかし、主は弱い者を思いやる人を病の床にあって支えてくださるのです。「その人が病気のとき/あなたはその床を新たに変えてくださる」とあるように、主はその人の病を癒やしてくださるのです。
5節から10節までをお読みします。
私は言いました。「主よ、私を憐れみ、魂を癒やしてください。私はあなたに罪を犯しました」と。敵は私に悪意をもって言います「いつ彼は死に、その名は滅びるか」と。見舞いに来ても、その者の心は空しいことを語り/悪事を集め、外に出ては言い触らします。私を憎む者は皆、私のことでささやき合い/私に悪をたくらみます。「不吉なことが彼に起こっている。彼は倒れ伏して/もう立ち上がることはできない」と。私が信頼していた友さえも/私のパンを食べながら/威張って私を足蹴にします。
ダビデは、「主よ、私を憐れみ、魂を癒やしてください。私はあなたに罪を犯しました」と言います。ダビデは、重い病を患っていたようです。ダビデは、その病を自分の罪と結びつけて考えていました。それでダビデは、罪の赦しと病の癒やしを、主に祈り求めたのです。そのようなダビデの周りには、悪意をもつ敵がいました。彼らは、「いつ彼は死に、その名は滅びるか」と言っていたのです。敵たちはダビデが死ぬことを望んでいたのです。見舞いに来てくれる人も、心配そうな顔をしていますが、外に出れば、「不吉なことが彼に起こっている。彼は倒れ伏して、もう立ち上がることはできない」とささやき合っていたのです。ダビデは信頼していた友からも、軽んじられてしまうのです。ダビデが信頼していた友は、ダビデのパンを食べながら、威張ってダビデを足蹴にするのです。この友が誰であるのかは分かりませんが、一つの推測は、ダビデに反逆した息子アブシャロムに従ったアヒトフェルであると考えられています(サムエル下15:12「いけにえを献げるにあたって、アブシャロムは使いを送り、ダビデの相談役であるギロ人アヒトフェルを、彼の町ギロから迎えた。陰謀は着々と進み、アブシャロムにくみする民の数は増していった」参照)。また、10節は、主イエスが引用していることで有名な御言葉です。『ヨハネによる福音書』の第13章の御言葉をお読みします。新約の191ページです。第13章12節から19節までをお読みします。
こうしてイエスは弟子たちの足を洗うと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。よくよく言っておく。僕は主人にまさるものではなく、遣わされた者は遣わした者にまさるものではない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。私は、あなたがた皆について、こう言っているのではない。私は、自分が選んだ者を知っている。しかし、『私のパンを食べている者が、私を足蹴にした』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『私はある』ということを、あなたがたが信じるためである。」
イエス様が選んだ12弟子の中から、イエス様を裏切る者が出る。そのことをイエス様は、今夕の『詩編』第41編の御言葉、「私のパンを食べている者が、私を足蹴にした」という御言葉の実現であると言われます。そして、イエス様を足蹴にする、イエス様のパンを食べている者こそ、イスカリオテのユダであるのです。福音書記者ヨハネは、イスカリオテのユダがイエス様を裏切ったのは、聖書の御言葉が実現するためであり、その背後には神の敵であるサタンの働きがあったことを記すのです(ヨハネ13:27「ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。イエスは『しようとしていることを、今すぐするがよい』と言われた」参照)。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の859ページです。
11節から13節までをお読みします。
しかし、主よ、あなたは私を憐れみ/立ち上がらせてください。私は彼らに報います。このことで、私は知りました。あなたが私を喜びとされていることを/敵は私に勝ち誇れないことを。あなたは私を全き者として支え/とこしえまでもあなたの前に立たせてくださいました。
ダビデは、イスラエルの神、主に望みを置きます。敵にあざけられようとも、信頼していた友に裏切られようとも、ダビデは、主の御名を呼ぶのです。敵が「彼は倒れ伏して/もう立ち上がることはできない」とささやき合っても、「主よ、あなたは私を憐れみ/立ち上がらせてください」と祈るのです。そして、主はそのダビデの願いを聞いてくださり、ダビデを癒やし、立ち上がらせてくださったのです。そのことを通して、ダビデは、主が自分のことを喜びとされていることを知ったのです。敵は自分に勝ち誇れないことを。主が自分を全き者として支え、とこしえまでも主の御前に立たせてくださることを知ったのです。今夕の詩編の背景に、息子アブシャロムの反逆があるならば、主はダビデを再びエルサレムに帰してくださり、王座に着かせてくださったのです(サムエル下19:10~44参照)。そのような自分の体験から、ダビデは、2節から4節で、「幸いな者、弱い者を思いやる人は。災いの日に、主はその人を救い出してくださる。主が守り、生かし/彼はその地で幸いな人と呼ばれる。その人を敵の思いのままにさせないでください。主は彼が病の床にあっても支えてくださる。その人が病気のとき/あなたはその床を新たに変えてくださる」と言うことができたのです。
先程、『ヨハネによる福音書』から確認したように、主イエスは、10節の御言葉、「私が信頼していた友さえも/私のパンを食べながら/威張って私を足蹴にします」という御言葉を御自分の身に起こる預言として引用しました。そうであれば、主イエスは、13節の御言葉をも御自分の身に起こる預言として理解していたと思います。すなわち、「あなたは私を全き者として支え/とこしえまでもあなたの前に立たせてくださいました」という御言葉は、イエス様が栄光の体で復活させられ、永遠の王座に着くことによって実現したのです。そして、このことは、主イエス・キリストの民である私たちにとって、イスラエルの神、主をほめたたえるべき出来事であるのです。14節に、「イスラエルの神、主をたたえよ/いにしえからとこしえまで。アーメン。アーメン」とありますが、私たちも「アーメン」「そのとおりである」と声を合わせたいと願います。