溢れるばかりに感謝しなさい 2025年12月28日(日曜 朝の礼拝)
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溢れるばかりに感謝しなさい
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コロサイの信徒への手紙 2章6節~10節
聖書の言葉
2:6 あなたがたは、このように、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。
2:7 キリストの内に根を下ろし、その上に建てられ、教えられたとおり信仰によって強められ、溢れるばかりに感謝しなさい。
2:8 空しいだまし事の哲学によって、人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、人間の言い伝えに基づくもの、この世のもろもろの霊力に基づくものであり、キリストに基づくものではありません。
2:9 キリストの内には、満ち溢れる神性がことごとく、見える形をとって宿っており、
2:10 あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威の頭です。コロサイの信徒への手紙 2章6節~10節
メッセージ
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今朝は、羽生栄光教会伝道開始46周年を記念する礼拝であります。それで今朝は最初に、ホームページで公開している「羽生栄光教会の歩み」を読みたいと思います。
「羽生栄光教会は、改革派神学研修所で学んだ二人の信徒とその家族(のちに三家族)が牧師を招聘して、1980年元旦に伝道を開始しました。教会設立に至るまでの間、上福岡教会、東京教会、大宮教会の経済的援助を受けて成長し、1990年4月に教会設立しました。これまで、嘉成公悦牧師(1980~85年)、今井献牧師(1985~98年)、矢内昭二代理牧師(1998~2003年)が奉仕してくださいました。現在は村田寿和牧師(2003年~)が奉仕しています」。
私たち羽生栄光教会は信徒によって始められた開拓伝道というユニークな歴史を持っています。羽生栄光教会は、1980年1月1日の元旦礼拝をもって、伝道を開始しました。ですから、正確に言うと、2026年1月1日で伝道開始46周年を迎えるのですが、少し早くお祝いしているわけです。羽生栄光教会の歩みが46年間守られたことを、まず神様に感謝したいと思います。また、これまで羽生栄光教会のために奉仕してくださった牧師と長老と執事と信徒の皆さんに感謝したいと思います。そのような感謝の心をもって、今朝の御言葉に耳を傾けたいと願います。
『コロサイの信徒への手紙』の第2章6節と7節を読みます。
あなたがたは、このように、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストの内に根を下ろし、その上に建てられ、教えられたとおり信仰によって強められ、溢れるばかりに感謝しなさい。
パウロは、コロサイの信徒たちに、「あなたがたは、このように、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい」と言います。「このように、主キリスト・イエスを受け入れた」とありますから、これまでの教えが前提になっています。第1章15節から20節には、御子イエス・キリストが万物の造り主であり、万物の贖い主であることが記されていました。また、第1章27節には、キリストこそ神の秘義であると記されていました。キリストにおいて明らかにされた神の秘義とは、ユダヤ人だけではなく異邦人も、イエス・キリストを信じる者は、神の民とされ、永遠の命を持つことができるという秘められた教えでした。そのような御方として、コロサイの信徒たちは、主キリスト・イエスを受け入れたのです。「主キリスト・イエス」とは、「主なる神であり、キリスト(王)であるイエス」という意味です。コロサイの信徒たちは、イエス様を、主なる神として、また、キリスト(王)として受け入れました。ですから、パウロは、主なる神であり、王であるイエスの命と恵みの支配の下(もと)に歩みなさいと言うのです。「歩みなさい」とは「生活しなさい」ということです。ここでパウロが言っていることは、信仰と生活は一体的であるということです。主キリスト・イエスを受け入れた私たちは、キリストに結ばれて歩むべきであるのです。では、キリストにあって歩むとは、どのような生活を言うのでしょうか。パウロは続けて、こう記します。「キリストの内に根を下ろし、その上に建てられ、教えられたとおり信仰によって強められ、溢れるばかりに感謝しなさい」。これが、キリストにある生活ですね。ここで、パウロは、コロサイの信徒たちを、植物と建物にたとえています。木は土に根を下ろしますが、コロサイの信徒たちはキリストの内に根を下ろしました(完了形)。コロサイの信徒たちは、キリストから養分をいただいて成長しているのです。また、コロサイの信徒たちは、キリストという土台のうえに建てられています(現在形)。そのようなコロサイの信徒たちに、パウロは、「教えられたとおり信仰によって強められ、溢れるばかりに感謝しなさい」と言うのです。「教えられたとおりの信仰」とは、パウロの仲間であるエパフラスから教えられた信仰のことです(1:7参照)。エパフラスから教えられた主イエス・キリストへの信仰によって強められて、溢れるばかりに感謝しなさいと言うのです。ここでの感謝は言うまでもなく、神様への感謝であります。パウロは、第1章13節と14節でこう記していました。「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。私たちはこの御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」。このような教えによって、コロサイの信徒たちの信仰は強められ、父なる神に溢れるばかりに感謝することができるのです。主イエス・キリストにあって、神の恵みが溢れるばかりに注がれているゆえに、主イエス・キリストを通して溢れるばかりの感謝をささげることができるのです。キリスト者の生活は感謝の生活であると言われますが、その源には神の恵みがあるのです。私たちの感謝(ユーカリスティア)は、神の恵み(カリス)への正しい応答であるのです。
8節を読みます。
空しいだまし事の哲学によって、人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、人間の言い伝えに基づくもの、この世のもろもろの霊力に基づくものであり、キリストに基づくものではありません。
コロサイの信徒たちは、偽教師たちに惑わされる危険がありました。パウロは、偽教師たちの教えを「空しいだまし事の哲学」と言います。ここでの哲学は、宗教を含んだ広い意味で用いられています。偽教師たちは、「この世のもろもろの霊が人に力を及ぼしている。キリストはもろもろの霊の一つである」と教えていました。このような偽教師たちの教えを念頭において、パウロは、第1章15節と16節でこう記しました。「御子は、見えない神のかたちであり/すべてのものが造られる前に/最初に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも/見えるものも見えないものも/王座も主権も/支配も権威も/万物は御子において造られたからです。万物は御子によって、御子のために造られたのです」。ここでの「王座」「主権」「支配」「権威」は、この世のもろもろの霊の名前です。王座や主権といったもろもろの霊も、御子において造られたとパウロは言います。キリストはもろもろの霊の一つではなく、もろもろの霊を造られた神であるのです。
また、偽教師たちは、「神と人との仲介者はもろもろの霊である。キリストはもろもろの霊の一つである」と教えていました。このような偽教師たちの教えを念頭において、パウロは、第1章19節と20節でこう記しました。「神は、御心のままに/満ち溢れるものを/余すところなく御子の内に宿らせ/その十字架の血によって平和を造り/地にあるものも/天にあるものも/万物を御子によって御自分と和解させてくださったのです」。パウロは、「御子イエス・キリストは、神ともろもろの霊を和解させてくださった仲介者である」と言うのです。
偽教師たちは、「もろもろの霊が人に力を及ぼしている。また、もろもろの霊が神と人との仲介者である。キリストはもろもろの霊の一つである」と教えていました。そのような偽教師たちの教えを、パウロは、「空しいだまし事の哲学」と呼ぶのです。現代の日本にも、空しいだまし事の哲学(宗教)があふれています。占いや心霊現象から神道や仏教といった歴史のある宗教まで、空しいだまし事の哲学であると言えます。もちろん、歴史のある宗教には相対的には良い教えがあり、人間の悪を抑制し、社会の秩序を維持する一般恩恵としての側面もあります。しかし、それらは人間の言い伝えやこの世のもろもろの霊力に基づくものであり、イエス・キリストに基づいていないゆえに、空しいだまし事の哲学であるのです。(人間のもろもろの宗教行為の背後には、この世のもろもろの霊の働きがある。一コリント10:19、20「私は何を言おうとしているのでしょう。偶像に献げた肉とは何であるとか、偶像とは何であるとか、言おうとしているのでしょうか。そうではなく、彼らが偶像に献げる物は、神ではなく悪霊に献げている、と言っているのです」参照)。イエス・キリストの啓示(イエス・キリストの御言葉と聖霊)に基づいていない教えは、空しいだまし事の哲学であり、私たちを人のとりこにしてしまうのです。そうならないように、私たちは主イエス・キリストにあって歩まなければならないのです。
9節と10節を読みます。
キリストの内には、満ち溢れる神性がことごとく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威の頭です。
パウロは、「キリストの内には、満ち溢れる神性がことごとく、見える形をとって宿っている」と言います。ここでのキリストは、神の永遠の御子が聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、人としてお生まれになったイエス・キリストのことです。私たちが『ルカによる福音書』で学んでいるイエス・キリストのことです。イエス・キリストはまことの神であり、まことの人であるゆえに、その内には満ち溢れる神性(神の性質)がことごとく、見える形をとって宿っているのです。神様は御自分がどのような御方であるかを、人となられた神の御子イエス・キリストによって示してくださるのです(ヨハネ1:14「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子として栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」参照)。キリストの内には、満ち溢れる神性がことごとく、見える形をとって宿っている。そのキリストに結ばれているゆえに、私たちも満たされているのです。キリストの内にある神の命と恵みに私たちも満たされているのです。パウロは、第1章18節で、「御子はその体である教会の頭です」と記しました。私たちがキリストに結ばれて、命と恵みに満ち溢れるのは、キリストの教会として集まり、礼拝をささげている今、この時であるのです。キリストの内には、満ち溢れる神性がことごとく、見える形で宿っています。そのキリストは、父なる神の右の座におられ、御言葉と聖霊において、私たちのただ中にいてくださるのです。そして、そのキリストはすべての支配と権威の頭であるのです。ここでの「支配」と「権威」も、この世のもろもろの霊のことです。イエス・キリストは、もろもろの霊の一つではなくて、もろもろの霊の頭、もろもろの霊を統べ治める神であるのです。日本に当てはめると、イエス・キリストは万物に宿る八百万(やおよろず)の神々の一つではなく、八百万の神々の頭であるのです。イエス・キリストは、八百万の神々の正体が「この世のもろもろの霊」であることを暴露して、統べ治められるまことの神であるのです。
今日は、羽生栄光教会伝道開始46周年をお祝いする礼拝であります。羽生栄光教会の46年の歩みを守ってくださったのは、教会の頭であり、すべての支配と権威の頭である主イエス・キリストであります。主イエス・キリストが牧師や長老や執事や信徒を用いて、羽生栄光教会の歩みを守り、導いてくださいました。その主イエス・キリストの恵みに応えて、私たちは溢れるばかりに感謝したいと願います。