神の秘義であるキリスト 2025年11月30日(日曜 朝の礼拝)
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神の秘義であるキリスト
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- 村田寿和 牧師
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コロサイの信徒への手紙 2章1節~5節
聖書の言葉
2:1 あなたがたとラオディキアにいる人々のため、また、私とまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、私がどれほど苦闘しているか、知ってほしい。
2:2 それは、彼らの心が励まされ、愛によって結び合わされ、溢れるほど豊かな洞察を得て、神の秘義であるキリストを深く知るようになるためです。
2:3 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています。
2:4 私がこう言うのは、あなたがたが誰にも巧みな議論でだまされないようにするためです。
2:5 私は、体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます。コロサイの信徒への手紙 2章1節~5節
メッセージ
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およそ1か月前の10月26日の礼拝において、第1章26節から29節より、「栄光に満ちた神の秘義」という題でお話ししました。今朝はその振り返りから始めたいと思います。第1章26節と27節を読みます。
永遠の昔から幾世代にもわたって隠されてきた秘義が、今や、神の聖なる者たちに明かにされたのです。神は彼らに、この秘義が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようとされました。この秘義とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です。
ここで「秘義」と訳されている言葉は「ミステーリオン」というギリシャ語です(英語のミステリーの元となった言葉)。新共同訳聖書は「秘められた計画」と訳していました。新改訳2017は、「奧義」と訳しています。ちなみに、「秘義」とは「奥深く秘められた教え。奧義」のことです(広辞苑)。「今や、神の聖なる者たちに明かにされた秘義」「異邦人の間で栄光に満ちた秘義」とは何でしょうか。それは、ユダヤ人ではない異邦人(外国人)であっても、主イエス・キリストを信じるのであれば、聖霊を与えられて神の民とされ、神の国の祝福にあずかることができるという秘められた教えのことです(使徒11章参照)。そして、この秘義は、私たちの内におられるキリストにおいて実現しているのです。イエス・キリストは、ご自分の名によって集まる礼拝のただ中に御言葉と聖霊においていてくださいます(マタイ18:20参照)。私たちは、私たちのただ中におられるキリストにおいて、神の栄光にあずかっているのです。それゆえ、私たちの内におられるキリストこそ、栄光の希望であるのです。
28節と29節を読みます。
このキリストを、私たちは宣べ伝え、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。それは、すべての人を、キリストにある完全な者として立たせるためです。このために、私は労苦し、私の内に力強く働くキリストの力によって闘っているのです。
聖書協会共同訳は訳出していませんが、「教えています」の前にも「すべての人を」と記されています(新改訳2017参照)。「このキリストを、私たちは宣べ伝え、知恵を尽くしてすべての人を諭し、すべての人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある完全な者として立たせるためです」。このようにパウロは、「すべての人を」と三度記して、強調しています。この「すべての人」の中に、コロサイにいる人々とラオディキアにいる人々も含まれているのです。パウロは、コロサイにいる人々とラオディキアにいる人々のために労苦し、パウロの内に力強く働くキリストの力によって闘っていたのです。
ここまでは、前回のお話しの振り返りです。今朝は、その続きである第2章1節から5節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節と2節を読みます。
あなたがたとラオディキアにいる人々のため、また、私とまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、私がどれほど苦闘しているか、知ってほしい。それは、彼らの心が励まされ、愛によって結び合わされ、溢れるほど豊かな洞察を得て、神の秘義であるキリストを深く知るようになるためです。
以前にも申しましたが、パウロは、この手紙を牢獄の中で記しています。第4章2節と3節にこう記されています。新約の364ページです。「たゆまず祈りなさい。感謝のうちに、目を覚まして祈りなさい。同時に、私たちのためにも祈ってください。神の御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘義を語ることができますように。私は、このために牢につながれているのです」。このように、パウロは牢につながれていました。しかし、パウロは手紙を書き送ることによって、キリストの秘義を語っていたのです。第4章15節にこう記されています。「ラオディキアのきょうだいたち、および、ニンファと彼女の家にある教会によろしく。この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるようにしてください。また、あなたがたもラオディキアから回って来る手紙を読んでください」。ラオディキアは、コロサイに近い町で、エパフラスによって福音が宣べ伝えられたようです。そのラオディキアの教会にも、パウロは牢獄から手紙を書き送っていたのです。そのようなパウロが、今朝の御言葉の第2章1節で、「あなたがたとラオディキアにいる人々のため、…私がどれほど苦闘しているか、知ってほしい」と記すのです。パウロは牢獄の中で、どのような苦闘(苦しい闘い)をしていたのでしょうか?それは、キリストの秘義を語るための苦しい闘いです。先程、第4章2節と3節を読みましたが、続く4節にはこう記されています。「また、私が語るべきしかたで語って、この秘義を明らかにすることができるように祈ってください」。パウロは牢につながれていても、兵士たちに神の秘義であるキリストを宣べ伝えました(フィリピ1:12~14参照)。また、コロサイやラオディキアにある教会に手紙を書き送って、神の秘義であるキリストを宣べ伝えたのです。私たちが読み進めている『コロサイの信徒への手紙』は、パウロの苦しい闘いによって生みだされた手紙であるのです。現代の私たちに引き寄せると、ここでの苦しい闘いは、説教者の苦しい闘いであると言えます。説教者である私も、皆さんの祈りに支えられて、神の秘義であるキリストを語るという苦しい闘いを続けているのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の362ページです。
パウロは、コロサイの信徒たちやラオディキアの信徒たちだけではなく、「自分とまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために苦闘している」と記します。この言葉には、異邦人の使徒としてのパウロの自負心が表れています。私たちは、パウロと直接顔を合わせたことはありませんが、パウロは私たちのためにも苦闘してくれたのです
パウロが、自分の苦闘を知ってほしいと願うのは、コロサイの信徒たちに恩を着せるためではありません。それは、彼らの心が励まされ、愛によって結び合わされ、溢れるほど豊かな洞察を得て、神の秘義であるキリストを深く知るようになるためであるのです。パウロが、自分たちに神の秘義であるキリストを伝えようと苦闘していることを知るとき、私たちの心は励まされ、私たちは愛によって結び合わされ、私たちは溢れるほど豊かな洞察を得て、神の秘義であるキリストを深く知るようになるのです。このことは、牧師が語る説教においても当てはまると思います。牧師が自分たちに神の秘義であるキリストを宣べ伝えようと苦闘していることを知るとき、教会員の説教の聞き方が変わってくるわけです。牧師の語る説教によって、心が励まされ、愛によって結び合わされ、溢れるほど豊かな洞察を得て、神の秘義であるキリストを深く知ることができるようになるのです。そのとき、説教は、キリストの教会を建て上げるという本来の目的を果たすことができるのです。
3節と4節を読みます。
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています。私がこう言うのは、あなたがたが誰にも巧みな議論でだまされないようにするためです。
この「巧みな議論」については、少し先の8節にこう記されています。「空しいだまし事の哲学によって、人のとりこにされないように気をつけなさい。それは人間の言い伝えに基づくもの、この世のもろもろの霊力に基づくものであり、キリストに基づくものではありません」。このようにコロサイの信徒たちを巧みな議論でだまそうとする偽教師たちがいたのです。偽教師たちは、キリストの他に知恵と知識の宝があると教えていたようです。偽教師たちにとって、キリストはこの世のもろもろの霊力の一つであったのです。そのような偽教師たちの主張を念頭において、パウロは3節で、「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されている」と記すのです。私たちが知恵と知識を求めるのであれば、キリストのもとに行けばよいのです。なぜなら、知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されているからです。ここで「隠されている」と記されていることに注意したいと思います。キリストの内に隠されている知恵と知識の宝を得るには、神の霊によってあらわにしていただかなくてはならないのです。このことは、パウロが『コリントの信徒への手紙一』の第2章で記していることです。新約の296ページです。第2章6節から12節までを読みます。
しかし、私たちは、成熟した人たちの間では、知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の無力な支配者たちの知恵でもありません。私たちが語るのは、隠された秘義としての神の知恵であって、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちは誰一人、この知恵を悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。こう書いてあるとおりです。「目が見もせず、耳が聞きもせず/人の心に思い浮かびもしなかったことを/神はご自分を愛する者たちに準備された。」私たちには、神は霊を通してこのことを啓示してくださったのです。霊はあらゆることを、神の深みさえも究めるからです。人の内にある霊以外に、一体誰が人のことを知るでしょう。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。私たちは世の霊ではなく、神の霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
ここには、隠された秘義としての神の知恵を知るには、神の霊の働きが必要であることが記されています。隠された秘義である神の知恵を知るには、神の霊である聖霊によって、あらわにしていただかねばならないのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の362ページです。
パウロが「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています」と言うとき、その「知恵」とは「神を畏れる知恵」です(新共同訳の箴言1:7「主を畏れることは知恵の初め」参照)。また、その「知識」とは「神を知る知識」のことです。私たちは、聖霊のお働きによってキリストを深く知るとき、神を畏れる知恵と神を知る知識に豊かにあずかることができるのです。それは9節にあるように、「キリストの内には、満ち溢れる神性(神の性質)がことごとく、見える形をとって宿って」いるからです。キリストを抜きにして、私たちは神を畏れることも、神を知ることもできません。私たちは、イエス・キリストを深く知ることによって、神を正しく畏れ、神を正しく知ることができるのです。そのようにして、私たちは巧みな議論にだまされることがないようになるのです(本ものを知る人は偽ものを見抜くことができる)。
5節を読みます。
私は、体で離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます。
このパウロの言葉から推測すると、コロサイの信徒たちは、偽教師たちの巧みな議論にだまされていなかったようです。パウロは、エパフラスからコロサイの信徒たちのことを聞いていました(1:7、8参照)。そのことを根拠にして、パウロは、あたかも自分が見たかのように記します。パウロは、牢につながれていますが、霊ではコロサイの信徒たちと共にいると言うのです。パウロの心にはいつもコロサイの信徒たちがいたのです(1:3参照)。コロサイの教会は秩序とキリストに対する堅い信仰をもって歩んでいました。私たち羽生栄光教会も秩序とキリストに対する堅い信仰をもって歩んでいます。そのような互いの姿を見て、私たちも喜びたいと願います。