私は神に望みを置く 2025年11月23日(日曜 夕方の礼拝)

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私は神に望みを置く

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 39編1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

39:1 指揮者によって。エドトンの詩。賛歌。ダビデの詩。
39:2 私は言った/「舌で罪を犯さないように、私の道を守ろう。/悪しき者が私の前にいるうちは/口にくつわをはめておこう」と。
39:3 私は黙り込み、口を閉ざし/善いことについても沈黙した。/だが、私の苦痛は募り
39:4 私の内で心が熱くたぎった。/私の呻きで火は燃え上がり/私の舌で私は語った。
39:5 主よ、知らせてください、私の終わりを。/私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。/私は知りたい、いかに私がはかないかを。
39:6 そうです/あなたが私に与えたのは手の幅ほどの日々。/私の寿命など、あなたの前では無に等しい。/確かに立っているようでも/人間は皆空しい。〔セラ
39:7 人は影のように歩き回り/空しいことであくせくしている。/積み上げはするが、誰が集めるかを知らない。
39:8 今、私は何に望みを置きましょう。/わが主よ、私が待ち望むのはあなただけです。
39:9 背きの罪のすべてから私を助け出してください。/愚か者のそしりを/受けることのないようにしてください。
39:10 私は黙り込み、口を開きません。/あなたがそうなさったからです。
39:11 あなたによる病を私から退けてください。/あなたの手に打たれ/私は尽き果ててしまいました。
39:12 あなたは過ちを責めて人を懲らしめ/人の欲望を、虫が食うように溶かしてしまいます。/まことに、人間は皆空しい。〔セラ
39:13 主よ、私の祈りをお聞きください。/私の叫びに耳を傾けてください。/私の涙に黙していないでください。/私はあなたに身を寄せる者/すべての先祖と同じ宿り人。
39:14 私から目を離してください。/そうすれば、私は安らぎます/私が去って、いなくなる前に。詩編 39編1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度の夕べの礼拝では、『詩編』を読み進めています。今夕は『詩編』の第39編より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節に、「指揮者によって。エドトンの詩。賛歌。ダビデの詩」とあります。エドトンはダビデの宮廷の指揮者の一人でした(歴代誌上16:41、42参照)。ですから、新改訳2017は「指揮者エドトンのために。ダビデの賛美」と翻訳しています。第39編もダビデの詩編であるのです。そのことを前提にしてお話しします。

 2節から4節までを読みます。

 私は言った/「舌で罪を犯さないように、私の道を守ろう。悪しき者が私の前にいるうちは/口にくつわをはめておこう」と。私は黙り込み、口を閉ざし/善いことについても沈黙した。だが、私の苦痛は募り/私の内で心が熱くたぎった。私の呻きで火は燃え上がり/私の舌で私は語った。

 ダビデの前には悪しき者がいます。その悪しき者と言葉を交わすことによって、舌で罪を犯すことがないように、口にくつわをはめておこうと言うのです。ダビデは黙り込み、口を閉ざし、善いことについても沈黙しました。ここでの「善いこと」とは、正当な自己弁護の言葉であると思います。悪しき者のダビデをあざける言葉、ダビデを罪に定める言葉を聞いても、ダビデは沈黙していたのです。しかし、ダビデの苦痛は募り、心が熱くたぎりました。ダビデの呻きの火は燃え上がり、ダビデは舌で語りだすのです。しかし、ダビデは悪しき者に対して語りだすのではありません。イスラエルの神である主、ヤハウェに語りだすのです。

 5節から7節までを読みます。

 主よ、知らせてください、私の終わりを。私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。私は知りたい、いかに私がはかないかを。そうです/あなたが私に与えたのは手の幅ほどの日々。私の寿命など、あなたの前では無に等しい。確かに立っているようでも/人間は皆空しい。人は影のように歩き回り/空しいことであくせくしている。積み上げはするが、誰が集めるかを知らない。

 少し先の11節に「あなたによる病を私から退けてください」とあります。また、12節に「あなたは過ちを責めて人を懲らしめ」とあります。ですから、ダビデは病を患っており、その病の原因が自分の過ちにあると考えていたようです。そのダビデが5節で、「主よ、知らせください。私の終わりを。私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。私は知りたい、いかに私がはかないかを」と言うのです。ダビデの病状は悪く、ダビデは自分の死を身近に感じているのです。ダビデは、「主よ、知らせてください」と問うています。これは一つの修辞法(レトリック)であります。と言いますのも、続く6節と7節で、ダビデは自分で答えているからです。ダビデは、主が与えてくださった日々は手の幅(四本の指の幅)ほどのものであり、自分の寿命など、主なる神の前では無に等しいことを知っています。また、確かに立っているようでも、人間は皆空しいこと。人は影のように歩き回り、あくせくして富を積み上げても、空しいことをダビデは知っているのです。

 8節から12節までを読みます。

 今、私は何に望みを置きましょう。わが主よ、私が待ち望むのはあなただけです。背きの罪のすべてから私を助け出してください。愚か者のそしりを/受けることのないようにしてください。私は黙り込み、口を開きません。あなたがそうなさったからです。あなたによる病を私から退けてください。あなたの手に打たれ/私は尽き果ててしまいました。あなたは過ちを責めて人を懲らしめ/人の欲望を、虫が食うように溶かしてしまいます。まことに、人間は皆、空しい。

 人生のはかなさ、人間の空しさを悟ったダビデは、「今、私は何に望みを置きましょう。わが主よ、私が待ち望むのはあなただけです」と言います。ダビデは、自分の主である神に望みを置くのです。ダビデは、主なる神に、「背きの罪のすべてから私を助け出してください。愚か者のそしり(悪口)を/受けることのないようにしてください」と願います。このダビデの願いは、ダビデが病を患っていること。そして、その病を自分の罪に対する神様からの懲らしめであると考えていたことを背景にしています。おそらく、ダビデの前にいる悪しき者や愚かな者も、そのように考えて、ダビデに悪口を言っていたのでしょう。このようなダビデの状況は、ヨブが置かれていた状況に似ています。ただし、ヨブは自分が潔白であると主張したのに対して、ダビデは自分の罪を認めて、「背きの罪のすべてから私を助け出してください」、「あなたによる病を私から退けてください」と祈るのです。病と罪の関係についてはこれまでもお話ししてきました。聖書は必ずしも、病の原因がその人の罪にあるとは教えていません(ヨハネ9章参照)。しかし、私たちが病を患ったとき、自分の生活を振り返り、悔い改めに導かれることはあると思います。それゆえ、イエス・キリストを信じる私たちは病を、父なる神からの訓練として受け止めるのです。12節で、ダビデはこう言います。「あなたは過ちを責めて人を懲らしめ/人の欲望を、虫が食うように溶かしてしまいます」。欲望は、人が生きていくための原動力ですが、しばしば過ちを犯すことにつながります。過ちの背後には悪しき欲望があるわけです。しかし、人を懲らしめる神様は、その人の欲望を、虫が食うように溶かしてしまうのです。そのようにして、神様は「人間は皆、空しい」ことを悟らせてくださるのです。さらに言えば、人間が望みを置くべきは、主なる神であることを悟らせてくださるのです。

 13節と14節を読みます。

 主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないでください。私はあなたに身を寄せる者/すべての先祖と同じ宿り人。私から目を離してください。そうすれば、私は安らぎます。私が去って、いなくなる前に。

 ダビデは、再び、主の御名を呼びます(5節参照)。主、ヤハウェとは、その昔、モーセに示された神のお名前で、「私はあなたと共にいる」という約束を含んでいます(出エジプト3:12参照)。その主の御名を呼んで、「私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないでください」と願うのです。ダビデの祈り、それは9節の「背きの罪のすべてから私を助け出してください」という祈りであり、11節の「あなたによる病を私から退けてください」という祈りです。このダビデの祈りは叶えられるのでしょうか。ダビデは病を癒やされて、主に感謝の祈りをささげてこの詩編を閉じるのでしょうか。そうではありません。ダビデは、「私から目を離してください。そうすれば、私は安らぎます。私が去って、いなくなる前に」と記して、この詩編を閉じるのです。ダビデは、「主よ、私の祈りを聞いてくださらないのであれば、せめて、私から目を離してください」と願うのです。このことは、私たちに、神様が共にいてくださることが必ずしも望ましいことではないことを教えています。私たちの過ちを責め、懲らしめる神様がいつも共にいることは、私たちにとって耐えがたい苦しみであるのです。しかし、私たちを背きの罪から助け出してくださる神様がいつも共にいるのであれば、私たちにとってこれほど幸いなことはないのです。

 さて、私たちといつも共にいてくださる神様は、どのような神様でしょうか。私たちの過ちを責めて、懲らしめる神様でしょうか。それとも、私たちをすべての罪から助け出してくださる神様でしょうか。私たちといつも共にいてくださる神様は、私たちをすべての罪から助け出してくださる神様です。なぜなら、神様は、イエス・キリストにあって、いつも私たちと共にいてくださるからです。また、イエス・キリストは、私たちをすべての罪から救ってくださる救い主であるからです。イエス・キリストは、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださいました。そして、イエス・キリストは、私たちを正しい者とするために栄光の体で復活してくださいました(ローマ4:25参照)。このイエス・キリストにあって、神様は私たちと共にいてくださるのです。それゆえ、イエス・キリストを信じる私たちにとって、神様がいつも共におられることは祝福であり幸いであるのです。ダビデは、「私から目を離してください。そうすれば、私は安らぎます」と言いました。それは、ダビデにとって、神様が罪を赦してくださらない御方のように思えたからです。しかし、私たちは、主イエス・キリストにあって共にいてくださる神様が、私たちをすべての罪から救ってくださる慈しみ深い御方であることを知っています。それゆえ、私たちは神様が目を向けてくださっていることに、安らぎを得ることができるのです。それは、聖霊の御業である義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る神の平安であるのです(ウェストミンスター小教理問36参照)。

 「私が去って、いなくなる前に」とあるように、ダビデの思いは、この地上の生涯に向けられていました。ダビデは、死ぬ前に、自分の罪を責め、懲らしめる神様から離れて、平安を得たいと願うのです。しかし、私たちは、イエス・キリストを信じる者は、死んでも生きる永遠の命を与えられることを知っています。なぜなら、イエス・キリストは私たちの初穂(最初の実り、保証)として復活したからです。復活したイエス・キリストが御言葉と聖霊において私たちと共にいてくださるからです。

 ダビデが嘆いているように、人間の人生ははかなく、空しいものです。しかし、主イエス・キリストを信じる人は慈しみ深い神様と共にとこしえに生きることができます。イエス・キリストを信じる人も肉体の死を経験します。しかし、イエス・キリストを信じる人は、イエス・キリストが天から再び来られる終わりの日に、確かに立つことができるのです(6節の「確かに立っているようでも/人間は皆空しい」参照)。イエス・キリストと同じ栄光の体で復活することができるのです。ダビデは8節と9節前半で、「今、私は何に望みを置きましょう。わが主よ、私が待ち望むのはあなただけです。背きのすべてから私を助け出してください」と祈りました。私たちが希望を置いて、待ち望んでいる御方、私たちをすべての罪から救い出してくださる御方こそ、私たちの主イエス・キリストであるのです。私たちは、この主イエス・キリストに希望を置いて、今週も歩んでいきたいと願います。

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