しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ(奨励題) 2025年11月16日(日曜 朝の礼拝)
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しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ(奨励題)
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イザヤ書 40章1節~11節
聖書の言葉
40:1 「慰めよ、慰めよ、私の民を」/と、あなたがたの神は言われる。
40:2 「エルサレムに優しく語りかけ/これに呼びかけよ。/その苦役の時は満ち/その過ちは償われた。/そのすべての罪に倍するものを/主の手から受けた」と。
40:3 呼びかける声がする。/「荒れ野に主の道を備えよ。/私たちの神のために/荒れ地に大路をまっすぐに通せ。
40:4 谷はすべて高くされ、山と丘はみな低くなり/起伏のある地は平らに、険しい地は平地となれ。
40:5 こうして主の栄光が現れ/すべての肉なる者は共に見る。/主の口が語られたのである。」
40:6 「呼びかけよ」と言う声がする。/私は言った。「何と呼びかけたらよいでしょうか。」/「すべての肉なる者は草/その栄えはみな野の花のようだ。
40:7 草は枯れ、花はしぼむ。/主の風がその上に吹いたからだ。/まさしくこの民は草だ。
40:8 草は枯れ、花はしぼむ。/しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」
40:9 高い山に登れ/シオンに良い知らせを伝える者よ。/力の限り声を上げよ/エルサレムに良い知らせを伝える者よ。/声を上げよ、恐れるな。/ユダの各地の町に言え。/「見よ、あなたがたの神を。」
40:10 見よ、主なる神は力を帯びて来られ/御腕によって統治される。/見よ、その報いは主と共にあり/その報酬は御前にある。
40:11 主は羊飼いのようにその群れを飼い/その腕に小羊を集めて、懐に抱き/乳を飲ませる羊を導く。イザヤ書 40章1節~11節
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イザヤ書40章8節「草は枯れ、花はしぼむ。 しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」 この言葉がどのような呼びかけの中で語られているのか、民がどのような状況にあった時に語られたのかを、イザヤ書40章の1-11節の箇所から読み取ろうと思います。そうしてこの言葉が私たち語っていることを聞き取りたいと思います。
はじめに 「慰めよ」と呼びかけられる民
バビロニア帝国の王ネブカドネツァルによってエルサレムを破壊され、国を失ったイスラエルの民は、遠くバビロニアに移されました。捕囚となった民はバビロニアの繁栄のための労役に服すことになります。捕囚となった民の中には、解放される時は遠くないと期待した者もいたようです。しかし、2世代目、3世代目と捕囚は続きました。イスラエルの民は、我々は神に見放されているという思いを次第に深くしていったようです。40章27節に次のような言葉があります。「私の道は主から隠されており 私の訴えは私の神に見過ごされている」。 主の道は示されず、我々はどこに向かって歩めばよいのかわからなくなっている。そんな民の姿がこの言葉にうかがえます。孤児になって、弱り果て疲れ果てた民の姿と言えましょう。
1.主なる神からの呼びかけ
「慰めよ、慰めよ、私の民を」と、あなたがたの神は言われる。「エルサレムに優しく語りかけ/これに呼びかけよ。その苦役の時は満ち/その過ちは償われた。そのすべての罪に倍するものを/主の手から受けた」と。(1-2節)
「慰めよ、慰めよ、私の民を」という言葉は、夜明け前の暗闇と寒さで縮こまるところに朝日が差し込んでくるような呼びかけでしょうか。ここで言っている「慰めよ」というのは、ただ安心を与えるだけの言葉がけではありません。このあと預言者が伝えるのは、主がなさろうとする救いの計画から出てくる呼びかけの言葉であります。主の救いのご意志を受けとめて、イスラエルは慰められよと言っているのです。
2節、「エルサレムに優しく語りかけ」というのは、子を引き離されて傷つく母の心に届けるような意味で優しく語りかけよと言っています。民を捕らえ移され、傷いた都市、母なるエルサレムをいたわる語りかけです。イスラエルの民を、擬人化したエルサレムで代表させています。この句の後に、「その」という代名詞が続きますが、これはエルサレムを指しています。エルサレムの服役は終わり、エルサレムの過ちは償われた、ということです。しかし、長い間苦役に服していた民の耳には降ってわいたような語りかけで、受けとめきれない言葉だったかもしれません。それを裏付けるように、次の言葉が呼びかけられます。「そのすべての罪に倍するものを 主の手から受けた」。 エルサレムのすべての罪に倍するもの、それはエルサレムが受けるべき咎めあるいは処罰の二倍ということです。主の手から受けたと言いますので、エルサレムのすべての罪の二倍にあたる咎めをすでに受けたと言っています。受けたのは預言者か他の誰かという問題がありますが、何を受けたかというのは、エルサレムの罪を肩代わりするように、その2倍の処罰を受けたということです。「エルサレムのすべての罪に倍するもの」をすでに受けて、エルサレムの服役を終わらせ、その過ちを償ったと言っているのではないかと思います。エルサレムの罪の咎めに倍する憐みを主の手から受けたという意味にもなります。それゆえ、「その苦役の時は満ち、その過ちは償われた」と言うことができるのです。
呼びかける声がする。「荒れ野に主の道を備えよ。私たちの神のために/荒れ地に大路をまっすぐに通せ。谷はすべて高くされ、山と丘はみな低くなり起伏のある地は平らに、険しい地は平地となれ。こうして主の栄光が現れ/すべての肉なる者は共に見る。主の口が語られたのである。」(3-5節)
「呼びかける声がする」というのは、主の使いたちが呼びかける声です。6節では、そこに預言者がいて聞いています。民に呼びかけるようにと、預言者は促されています。ここでの呼びかけは、直接的には荒れ野に命じています。荒れ地の険しさをなくして平らにせよ、そこに大路をまっすぐに通せ。そうしてエルサレムへの主の道を備えよと。バビロンからエルサレムへ至る道は荒野の長い道のりです。首都バビロンと、少し下流側にあるニップルという町が、捕囚とされた民がいたおもな町だったようです。そこからエルサレムに向かうには、ユーフラテス川に沿って遡り、反時計回りにアラビア砂漠を迂回しなければなりません。そしてシリアを通って南下してカナンの地に至ります。エルサレムへ向かうには、この砂漠、荒野が立ちはだかります。この時、イスラエルの民は、長い年月を捕囚の身として過ごしていましたので、エルサレムへの期待は薄れ、あるいは諦めのうちに忘れるようにしていたのではないかと思います。つまり信仰的な忘却、主の救いの望みへの諦めが、地理的、物理的な荒野以上に、民の中に立ちはだかるものとしてあったと言えましょう。この呼びかけは、民の心に広がる荒れ野に主の通る大路を用意せよ、という呼びかけでもあったのです。
3節から5節の「神のためのまっすぐな大路」とか、「栄光が現れ」る、などという言葉は、バビロンで行われていた祭典が意識されているようです。首都バビロンの北面には「イシュタルの門」という立派な門がありました。その門から舗装された大路がまっすぐ町の中央を通っています。新年にあたる春に、神殿へ向かう神々の行進がその大路で催されていました。神殿の中心はマルドゥクという神を祀った神殿です。バビロンの最盛期には、その祭りは2週間に及ぶ盛大なものでした。マルドゥク神というのはバビロニアの神々の中で中心となるもので、50もの称号が与えられていたと言われます。人々は平和と繁栄をもたらしてくれるバビロニア帝国とその守護神であるマルドゥク神をたたえ、栄光を帰していたのです。捕囚の民もこれを見ていたか、聞いていて、主なる神からの音沙汰が消えて久しくなっていた民には、その影響は少なくはなかったでしょう。荒れ野にエルサレムへ至る大路をまっすぐに通せ、主の道を備えよ、そういうことですから、期待することを忘れていたエルサレムとその栄光を民に思い起こさせる言葉であります。「主の道」は、主が民を先導してエルサレムに連れ帰る道です。それは、主なる神が民を救う勝利者であることを示します。それが「主の栄光が現れる」と言っていることです。しかも、勝利者としての主の栄光は、イスラエルの民だけが見るのではなく、バビロニアの民にも、諸国の民にも現わされ、そして、すべての人が共に見る、と言っています。主の救いの計画が表わされている言葉です。
「呼びかけよ」という声がする。私は言った。「なんと呼びかけたらよいでしょうか。」「すべての肉なる者は草/その栄えはみな野の花のようだ。草は枯れ、花はしぼむ。主の風がその上に吹いたからだ。まさしくこの民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」(6-8節)
6節の3行目の「すべての肉なる者」というのは、人が死すべき弱さをまとったもの、そのはかなさを言うとき「肉」と表現します。「その栄え」というのは、諸国民の繁栄、国の繁栄を言っています。人の存在とその栄え、国々の栄華は、乾燥した熱風が吹くとたちまち枯れ、しぼむ草や花と同じだと言っています。「主の風がその上に吹いたからだ」というのは、主のご意志が働くとそのようになるということです。勢いのある諸国の民も、輝かしいその栄華も、主の思い一つで変わる。それは、天と地を創造し、天と地を統べ治め、諸国とその民を治める神が誰であるかを語っています。
主の前にあっては、諸国の民とその国は草や花のような存在にすぎないと語りましたが、7節の最後の行で、「まさしくこの民は草だ」と言っています。6節で、「なんと呼びかけたらよいでしょうか」と預言者が問うていましたので、「この民」というのはイスラエルの民のことを言っています。かつては、神が前におられ、後ろ盾となって、万軍の主がおられました。イスラエルが草のように枯れ、花のようにしぼむ民であるとは考えられなかったことです。そのような神の民が、祖国喪失と異教の地での捕囚を経験して、我々も「肉なる者」であり、枯れる草、しぼむ花にかわりなかった、そのことに頷くほかはありません。かつて、災いは自分たちには下されない、我々は神の民だ、と言っていた自己認識を変える言葉であります。それはまた、イスラエルの神認識をも変えるものです。のちにパウロが、「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです、異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。」(ローマ3:29-30)と言っています。イスラエルの神から、イスラエルも含めたすべての諸国民にとって、ただひとりの神である、そういう神認識に至る言葉が、ここにあります。
しかし、それでもイスラエルの民は他の民と異なるところがあります。それは、主なる神が声をかけられる民であり、神の言葉が共有される民だということです。8節は、まさしくこの民は草であることを「草は枯れ、花はしぼむ」と念を押して言っていますが、それで終わりとせず、そのあとに「しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」と語られます。「私たちの神」と言っています。草や花にすぎない民が主なる神を選んで、私たちの神としているのではありません。そもそもは、神がアブラハムに声をかけられたところから、神と民との関わりが始まっています。民の方から声を上げたところもありますが、神と民との関わりは、基本的に神が声をかけられて民へ働きかけています。このような関わりで「私たちの神」であるのです。ここに一つの慰めが見出されます。
「神の言葉が立つ」というのは、ヘブライ語も「立つ」とか「立っている」とかいう普通に使われる言葉です。何かのモニュメント、オベリスクのように、その時の状況に関わりなく神の言葉は立っているというイメージになるかもしれませんが、「私たちの神の言葉」と言っていますので、民との関わりにおいて神の言葉は立つ、民と共に立つ、そういう意味合いを読み取りたいと思います。長い捕囚の期間に、主の民として立っていることが難しくなった民が、そこにあります。しかし私たちの神の言葉はとこしえに立つ、枯れることなく立ち続ける、そういうメッセージです。私たちの神の言葉は碑文のようにただ刻まれた言葉ではありません。枯れることなく、しぼむことのない、民の間で生きる言葉である、ということです。民が主の救いを見る希望の言葉となります。慰めとすることができる民への呼びかけの言葉です。
高い山に登れ/シオンに良い知らせを伝える者よ。力の限り声を上げよ/エルサレムに良い知らせを伝える者よ。声を上げよ、恐れるな。ユダの各地の町に言え。「見よ、あなたがたの神を。」見よ、主なる神は力を帯びて来られ/御腕によって統治される。見よ、その報いは主と共にあり/その報酬は御前にある。主は羊飼いのようにその群れを飼い/その腕に小羊を集めて、懐に抱き/乳を飲ませる羊を導く。(9-11節)
知らせを伝える者に、高い山に登れ、力の限り声を上げよと呼びかけ、恐れるこよなく声を上げよと奮い立たせます。先に、荒れ野に主の道を備えよと命じましたので、ここでは、主がいよいよエルサレムに来られる、その良い知らせをエルサレムとユダ各地の町に至るまで、あまねく知らせよ、と告げています。「良い知らせ」は、主なる神が力を帯びて来られるという喜ばしい音信、便りです。エルサレムはこの時すでに、神殿もろとも破壊され、民は捕らえ移されて国を失っていますので、諸国の民から見ればイスラエルの神の敗北です。イスラエルも捕囚の身になっていましたので、そのように受けとめていたと思います。そこに、「主なる神は力を帯びて来られる」という知らせは、主がエルサレムに凱旋される、勝利の帰還のイメージを起こさせるものとなります。
民と共に帰還した主が民を御腕によって統治される、その様子が描かれています。バビロンにおける報酬は苦役でありました。主が御腕によって統治される報酬は、主と共にある喜びの報酬、民が主と分かち合う報酬です。その統治は、よい羊飼いとその羊に喩えられています。民を慈しむようになさる主の統治です。そのようなあなたがたの神を見よ、と繰り返して強く促しています。「見よ、あなたがたの神を」、と。
2.しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ
エルサレムへの帰還は、ペルシアがバビロンに攻め入り、翌年の紀元前538年にキュロス王の帰還命令が出て、実現することになります。民は帰還を果たしましたが、その後は、しかし、民はなお抱える課題に向き合わなければなりませんでした。イザヤ書40章の、民に慰めと救いを伝える神の言葉には、捕囚からの解放とエルサレム帰還では完了しない、主のご計画と意志がなお秘められていたと言えましょう。一つの例を挙げれば、シメオンという人の言葉で知ることができます。ルカ福音書は2章22節から、マリアとヨセフが幼子イエスを連れてエルサレムの神殿に上り、規定に従って幼子を主に献げた時のことを記しています。「その時、エルサレムにシメオンと言う人がいた。この人は正しい人で信仰あつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」(ルカ2:25) 捕囚から500年あまりたったときにあって、シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望んでいたと言うのです。幼子イエスを目にしてこう言っています。「主よ、今こそあなたはお言葉通り/この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」(ルカ2:29-30) さらに、「これは万民の前に備えられた救いで/異邦人を照らす啓示の光/あなたの民イスラエルの栄光です。」(ルカ2:31-32)と神をほめたたえて言っています。捕囚の民に呼びかけられた主の言葉が、主イエス・キリストによって、慰めの言葉となり、すべての民の救いの言葉となったのです。
捕囚の民にとって、しかし、イザヤ書40章の言葉は、その価値が小さくなるわけではありません。主の慰めの言葉であり、救いの言葉として語られたからです。それはまた、主の栄光をすべての者が見る約束の言葉であり、すべての民に希望をもたらす言葉であります。
「草は枯れ、花はしぼむ」という現実を、今の世にも、そして私たち自身においても認めたうえで、「しかし」と語られていることを受けとめたいと思います。そして、「しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」という言葉が、救いの言葉であり、慰めの言葉であることを、私たちが生きる中で見出していきたいと思います。