子よ、主と王を畏れよ 2025年10月15日(水曜 聖書と祈りの会)

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子よ、主と王を畏れよ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 24章21節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

24:21 子よ、主と王を畏れよ。/反逆する者らと交わるな。
24:22 彼らへの災いは突然に起こる。/主と王が下す災難を誰が知りえよう。箴言 24章21節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 『箴言』の第22章17節から第24章34節までは、ソロモンとは別の「知恵ある人の言葉」が記されています。前回も申しましたが、「知恵ある人の言葉」は、エジプトの知恵文学である「アメンエムオペの教訓」に由来すると考えられています。知恵ある人は、エジプトの知恵文学である「アメンエムオペの教訓」をイスラエルの社会に合わせて、箴言を記したのです。今朝は、第24章21節と22節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 子よ、主と王を畏れよ。反逆する者らと交わるな。彼らへの災いは突然に起こる。主と王が下す災難を誰が知りえよう。

 知恵のある人は、「子よ、主と王を畏れよ」と言います。「子よ」とは、知恵の教師からの生徒への呼びかけの言葉です。「子よ」という呼びかけは、『箴言』が官僚の息子たちを教育するために記された書物であることを私たちに思い起こさせます。第1章7節に「主を畏れることは知識の初め」とありましたが、ここでは、「主と王を畏れよ」と記されています。「主」とは、イスラエルの神、ヤハウェのことです。また、「王」とは、主によって油を注がれた人のことです。「イスラエルの神である主と、その主によって油を注がれた王を畏れよ」と知恵ある人は言うのです。このことは、『詩編』の第2編が教えていることでもあります。旧約の820ページです。第2編の全体を読みます。

 なぜ、国々は騒ぎ立ち/諸国民の民は空しいことをつぶやくのか。なぜ、地上の王たちは立ち上がり/君主らは共に謀って/主と、主が油を注がれた方に逆らうのか。「彼らの枷を壊し/その縄を投げ捨てよう」と。天にいます方は笑う。わが主は彼らを嘲る。怒りに燃えて彼らに語り/憤りに任せて彼らをおののかせる。「私が聖なる山シオンで/わが王を立てた」と。私は主の掟を語り告げよう。主は私に言われた。「あなたは私の子。私は今日、あなたを生んだ。求めよ。私は国々をあなたの相続地とし/地の果てまで、あなたの土地としよう。あなたは彼らを鉄の杖で打ち砕く/陶工が器を叩きつけるように。」王たちよ、今こそ悟れ。地上の裁き人らよ、諭しを受けよ。畏れつつ、主に仕えよ。震えつつ、喜び躍れ。子に口づけせよ。さもなければ、主の怒りがたちまち燃え上がり/あなたがたは道を失うだろう。幸いな者、すべて主のもとに逃れる人は。

 2節に、「なぜ、…主と、主が油を注がれた方に逆らうのか」とあるように、主と、主が油を注がれた王が一体的に記されています。7節で、主はご自分が油を注いだ王に、「あなたは私の子。私は今日、あなたを生んだ」と言われます。そして、11節と12節で、「畏れつつ、主に仕えよ」「子に口づけせよ」と、主に仕えることと、その子である王に従うことが一体的に記されています。主を畏れることは、主によって油を注がれて、神の子とされた王を畏れることと一体的な関係にあるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の1007ページです。

 子よ、主と王を畏れよ。反逆する者らと交わるな。彼らへの災いは突然に起こる。主と王が下す災難を誰が知りえよう。

 知恵の教師が「子よ、主と王を畏れよ」と言うとき、その「王」は、主によって油を注がれたイスラエルの王だけでなく、外国人(異邦人)の王も含みます。そのことは、『ダニエル書』が教えていることです。バビロンに連れて来られたダニエルと三人の友人は、バビロンの王に誠実に従いました。それは、イスラエルの神である主がバビロンの王を立てられたと信じていたからです(ダニエル5:20、21参照)。しかし、ダニエルと三人の友人は、王の命令であれば、何でも従ったわけではありません。三人の友人は、金の像を拝めという王の命令にしたがいませんでした。また、ダニエルは、「今から30日間、いかなる神にも祈ってはならない」という禁令を知りながら、いつものように、エルサレムに向かって窓を明け、ひざまずき、神に祈りをささげました。ダニエルと三人の友人は、バビロンの王の命令がイスラエルの神の命令に反するとき、イスラエルの神の命令に従ったのです。

 「子よ、主と王を畏れよ」。このことは、使徒ペトロが、小アジアのキリスト者たちに命じていることでもあります。『ペトロの手紙一』の第2章13節から17節までを読みます。新約の420ページです。

 すべて人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい。それが、統治者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し、善を行う者を褒めるために、王が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな人々の無知な発言を封じることが、神の御心だからです。自由人として行動しなさい。しかし、その自由を、悪を行う口実とせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、きょうだいを愛し、神を畏れ、王を敬いなさい。

 ペトロが「王に従いなさい」と命じる理由は、「主のゆえ」であります。どのような制度であっても、主によって立てられているのです。開きませんが、使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第13章で、「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです」と記しています。当時のローマ皇帝による支配も、現代の日本の議会制民主主義も、主によって立てられた制度であり、権力であるのです。それゆえ、私たちは主イエス・キリストのゆえに、上に立つ権力に従うべきであるのです。しかし、上に立つ権力、国家権力に何でも従うことが命じられているのではありません。『ヨハネの黙示録』はそのことを私たちに教えています。『ヨハネの黙示録』は紀元90年代、ローマ皇帝ドミティアヌスの時代に記されてました。皇帝ドミティアヌスは、自分を神とし、自分の像を拝むように命じました。しかし、あるキリスト者たちは、皇帝ドミティアヌスを神とせず、その像を拝みませんでした。それは、主が禁じられた偶像礼拝であったからです(出エジプト20:3、4「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。あなたは自分のために彫像を造ってはならない」参照)。そして、そのことは、主なる神と王なるイエスの御心に適うことであったのです。今朝の箴言、「子よ、主と王を畏れよ。反逆する者らと交わるな。彼らへの災いは突然に起こる。主と王が下す災難を誰が知り得よう」とは、私たちにとって、「神の子として、主なる神と王なるイエスを畏れよ」ということであるのです。獣の像を拝まない者は、社会的な不利益を被ったり、命を奪われました。しかし、最後は、主イエス・キリストの正しい裁きが行われます。獣の像を拝んでいた者は燃える火の池に投げ込まれます。他方、獣の像を拝まずに、主イエス・キリストに従った者たちは、新しい天と新しい地を受け継ぎ、新しいエルサレムに迎え入れられるのです。このように、今朝の箴言は、世の終わりの裁きの先取りとして、読むことができるのです。

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