酒に見とれるな 2025年10月08日(水曜 聖書と祈りの会)

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酒に見とれるな

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 23章29節~35節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:29 惨めな者は誰か、悲しむ者は誰か/争う者は誰か、嘆く者は誰か/理由もなく傷だらけになっているのは誰か/濁った目をしているのは誰か。
23:30 それは酒を飲んで夜更かしする者/混ぜ合わせた酒を試しに行く者。
23:31 酒に見とれるな。/酒は赤く、杯の中で輝き、滑らかに喉を下り
23:32 ついには蛇のようにかみ/コブラのように刺す。
23:33 あなたの目は怪しげなものを見/あなたの心は歪曲したことを語る。
23:34 海の真ん中で横たわる者のように/帆先で横たわる者のようになって
23:35 「誰かが私を打ったが、痛くなかった。/誰かが叩いたが、感じなかった。/いつ酔いがさめてしまうのか。/もっと酒を求めよう」と言う。箴言 23章29節~35節

原稿のアイコンメッセージ

 『箴言』の第22章17節から第24章34節には、ソロモンとは別の「知恵ある人の言葉」が記されています。第22章17節から21節までを読みます。

 耳を傾けて、知恵ある人の言葉を聞け。私の知識に心を向けよ。これらを体の中に納め/一つ残らず唇に備えるのは甘美なことだから。あなたが主に信頼する者となるため/私は今日、特にあなたに知らせる。私の判断と知識による三十句を/あなたのために書かないことなどありえようか。それは真実の言葉が信頼できることを/あなたに知らせ/真実の言葉をあなたの使者に持ち帰らせるため。

 このように、知恵ある人は、自分の判断と知識による真実の言葉を書き始めます。この知恵ある人の言葉は、エジプトの知恵文学である「アメンエムオペの教訓」に由来すると考えられています。知恵文学は国際的、インターナショナルであるのです。知恵ある人は、エジプトの知恵文学である「アメンエムオペの教訓」をイスラエルの宗教に合わせて記したと考えられているのです。知恵のある人の箴言は、ソロモンの箴言に比べると長いですね。ソロモンの箴言は2行でしたが、知恵のある人の箴言は4行以上あります。また、その内容も、将来、知事や官僚になる若者に対する教えとなっています。

 さて、今朝、私が選びました箴言は、第23章29節から35節です。

 惨めな者は誰か、悲しむ者は誰か/争う者は誰か、嘆く者は誰か/理由もなく傷だらけになっているのは誰か/濁った目をしているのは誰か。それは酒を飲んで夜更かしする者/混ぜ合わせた酒を試しに行く者。酒に見とれるな。酒は赤く、杯の中で輝き、滑らかに喉を下り/ついには蛇のようにかみ/コブラのように刺す。あなたの目は怪しげなものを見/あなたの心は歪曲したことを語る。海の真ん中で横たわる者のように/帆先で横たわる者のようになって/「誰かが私を打ったが、痛くなかった。誰かが叩いたが、感じなかった。いつ酔いがさめてしまうのか。もっと酒を求めよう」と言う。

 ここには、謎かけと答えと警告が記されています。「惨(みじ)めな者は誰か、悲しむ者は誰か、争う者は誰か、嘆く者は誰か、理由もなく傷だらけになっているのは誰か、濁った目をしているのは誰か」。ここまでは謎かけです。私たちは答えを知っているのですが、もし答えを知らなければ、なかなか難しい謎かけですね。その答えは、「それは酒を飲んで夜更かしする者、混ぜ合わせた酒を試しに行く者」であります。この答えを受けて、31節からは警告の言葉が記されています。「酒に見とれるな。酒は赤く、杯の中で輝き、滑らかに喉を下り、ついには蛇のようにかみ/コブラのように刺す」。酒には、体と心を麻痺させる蛇の毒のような作用があるのです。酒を飲み過ぎると、目は怪しげなものを見、心は歪曲したことを語ります。酒に酔っ払うと普段は言わないような言葉や言ってはいけない言葉を語るようになるわけです。また、泥酔してしまうと立って歩けなくなり、海の真ん中に横たわる者のようになってしまうのです。地面がぐらぐら揺れているように感じてしまうのです。35節に、酒に酔った人の言葉が記されていますが、この人は酔いを求めて、もっと酒を求めます。これではアルコール依存症になってしまいます。そうならないように、知恵ある人は、「酒に見とれるな」と言うのです。『箴言』は、これまでにも酒について記してきました。第20章1節にはこう記されています。「ぶどう酒は嘲り、麦の酒は騒ぎ/これに迷わされる者が知恵を得ることはない」。第21章17節にはこう記されています。「快楽を愛する者は貧しくなり/酒と香油を愛する者は富むことがない」。このように、ソロモンも酒については否定的であるのです。では、聖書は、私たちに禁酒を命じているのかと言えば、そうではありません。と言いますのも、イエス様は徴税人や罪人たちと食べたり飲んだりしました。イエス様は酒の席を楽しまれたのです(ヨハネ2章のカナの婚宴の奇跡も参照)。また、主の晩餐では、ぶどう酒を飲みます。私たちの教会ではぶどうジュースですが、本来はぶどう酒です。使徒パウロは、愛する子テモテに、こう書き送っています。「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる痛みのために、少量のぶどう酒を用いなさい」(一テモテ5:23)。このように、聖書は必ずしも禁酒を命じていないのです。では、お酒を飲むことを勧めているかと言えば、そうとも言えません。パウロは、『エフェソの信徒への手紙』の第5章18節と19節でこう記しています。「酒に酔ってはなりません。それは身を持ち崩す元です。むしろ、霊に満たされ、互いに詩と賛歌と霊の歌を唱え、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい」。パウロは、「酒に酔ってはなりません。それは身を持ち崩す元です」と記します。パウロも酒に酔うことによってもたらされる危険を知っていたのです。それゆえ、パウロは、監督(長老)と奉仕者(執事)の資格の一つに「酒に溺れず」と記すのです(一テモテ3:3、8)。

 聖書によれば、ぶどう畑を作り始めたのはノアでした(創世9:20参照)。ノアとは「慰め」という意味ですが、このことは、ノアがぶどう酒を作ったことと関係しています。ノアの父であるレメクは、その子をノア(慰め)と名付けてこう言いました。「この子は、主が土を呪われたゆえの、私たちの手の働きと労苦から、私たちを慰めてくれるであろう」(創世5:29)。このレメクの言葉は、ノアがぶどう畑を作り始め、ぶどう酒をもたらしたことによって実現したわけです。ぶどう酒は、私たちの手の働きと労苦から私たちを慰めてくれる物であるのです(コヘレト10:19「食事を整えるのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる」参照)。しかし、飲み過ぎて酔っ払ってしまうと醜態を晒すことになるわけです。神の目に適ったノアでさえ、酔っ払って、天幕の中で裸になったと聖書は記しています(創世9:21参照)。

 このように、酒は、私たちの手の働きと労苦から、私たちを慰めてくれる物ですが、飲みすぎて酔っ払ってしまうと心と体を麻痺させて、さまざまな災い(飲酒運転による交通事故や家庭内暴力や児童虐待など)やさまざまな害(肝臓障害や睡眠の質の低下やアルコール依存症など)を私たちにもたらすのです。それゆえ、知恵ある人は、「酒に見とれるな」と警告するのです。

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