品格は銀や金にまさる 2025年10月01日(水曜 聖書と祈りの会)

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品格は銀や金にまさる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 22章1節

聖句のアイコン聖書の言葉

名声は多くの富よりも望ましく/品格は銀や金にまさる。箴言 22章1節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『箴言』の第22章1節を中心にしてお話しします。箴言の特徴は、二つの文を並べて、一つの思想を表すパラレリズム、並行法です。今朝の第22章1節は、「富」と「銀や金」という同じ意味の言葉を並べる同意並行法であると言えます。

 名声は多くの富よりも望ましく/品格は銀や金にまさる。

 ここで「名声」と訳されている言葉(シェム)は直訳すると「名」となります。「名声」とは「ほまれ、よい評判」のことです(広辞苑)。「社会的なよい評判は、富よりも望ましい」。このことはよく分かることであります。社会的なよい評判そのものが富(財産)であると言えるのです。

 「名声は多くの富よりも望ましい」。これと同じようなことが、『コヘレトの言葉』の第7章1節に記されています。旧約の1026ページです。

 名声は良質の香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。

 「良質の香油」は高価なものであり、多くの富の象徴であると言えます。コヘレトも「名声は多くの富にまさる」と言うのです。ただし、コヘレトが「名声は多くの富にまさる」と言うとき、続く「死ぬ日は生まれる日にまさる」との繋がりから考えると、それは死んだ後も名が残るからであるようです。私たちがこの地上に残すことができるのは、名前だけであるのです。ですから、私たちは墓誌に故人の名前を刻むのです。しかし、ここで思い起こしたいことは、私たちにはキリスト者という名(名声)を与えられているということです(使徒11:26参照)。そして、キリスト者である私たちの名は、天に書き記されているということです(ルカ10:20参照)。キリスト者という名声を与えられた私たちの名は、小羊の命の書(しょ)に書き記されています。それゆえ、私たちは栄光の主イエス・キリストが天から来られるとき、復活して、新しいエルサレムに入ることができるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の1002ページです。

 第22章1節の後半に、「品格は銀や金にまさる」とあります。「まさる」とは「より良い」(トーブ)ということです。「品格」とは「その人から感じられる品のよさ。品位」のことです(明鏡国語辞典)。「品格は銀や金にまさる」という御言葉を聞いて、私が思い浮かべるのは、『ペトロの手紙一』の第3章の御言葉です。新約の421ページです。第3章1節から4節までを読みます。

 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえみ言葉に従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって、神のものとされるようになるためです。神を畏れ敬うあなたがたの清い振る舞いを見るからです。あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りを身に着けたり、衣服を着飾ったりするような外面的なものではなく、柔和で穏やかな霊という朽ちないものを心の内に秘めた人でありなさい。これこそ、神の前でまことに価値があることです。

 使徒ペトロは、神の前でまことに価値があるのは、金の飾りを身に着けたりするような外面的なものではなく、柔和で穏やかな霊という朽ちないものを心の内に秘めた品格であると記します。「柔和で穏やかな霊」とは、イエス・キリストから与えられた聖霊のことです。私たちは柔和で穏やかな霊である聖霊によって、神の前にまことに価値がある品格を持つ者へと変えられていくのです。イエス・キリストの聖霊を与えられている私たちは、イエス・キリストに似た者へと造り変えられていくのです(二コリント3:18参照)。そのキリスト者の品格とは何でしょうか?それは、信仰、希望、愛であります。今朝は、そのことを確認して終わりたいと思います。『コリントの信徒への手紙一』の第13章です。新約の311ページです。第12章31節の後半から第13章13節までを読みます。

 そこで、私は、最も優れた道をあなたがたに示します。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を喜ぶ。すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れます。幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていました。大人になったとき、幼子のような在り方はやめました。私たちは、今は一部しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。

 ここでパウロは、キリスト者の徳、品格について教えています。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります」とあるように、私たちには信仰と希望と愛という徳、品格が与えられているのです。私たちキリスト者は、イエス・キリストの聖霊を与えられて、神を信じる者、神を望む者、神を愛する者としていただいたのです。信仰と希望と愛、この三つのキリスト者の品格は、キリスト教の三要文(さんようもん)と結びつけて考えられてきました。教会は、信仰を使徒信条に、希望を主の祈りに、愛を十戒に結びつけて教えてきたのです。私たちが信仰、希望、愛に生きるとは、使徒信条を告白し、主の祈りを祈り、十戒を守ることであるのです。そのようにして、私たちの内に、銀や金にまさるキリスト者の品格が形づくられていくのです。私たちは、月に一度、第一主日の礼拝において、使徒信条を告白し、十戒を朗読し、主の祈りを祈っています。そのとき、ぜひ、信仰、愛、希望というキリスト者の三つの徳、品格のことを思い起こしていただきたいと思います。 

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