キリストの体である教会のために 2025年9月28日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

キリストの体である教会のために

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コロサイの信徒への手紙 1章21節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:21 あなたがたも、かつては神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
1:22 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死を通してあなたがたをご自分と和解させ、聖なる、傷のない、とがめるところのない者として御前に立たせてくださいました。
1:23 ですから、あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となったのです。
1:24 今私は、あなたがたのために喜んで苦しみを受けており、キリストの体である教会のために、キリストの苦難の欠けたところを、身をもって満たしています。
1:25 私は、自分に与えられた神の計画に従って、教会に仕える者となりました。あなたがたに神の言葉を余すところなく伝えるためです。コロサイの信徒への手紙 1章21節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 およそ1か月前の8月31日の礼拝において、私たちは第1章15節から20節より、御子イエス・キリストが万物の造り主であり、万物の贖い主であることを学びました。神様は万物を御子において、御子によって、御子のために造られました。また、神様は万物を御子の十字架の血によって、ご自分と和解させられました。その万物の中に、コロサイの信徒たちや私たちも含まれています。私たちも御子において、御子によって、御子のために造られました。また、私たちも御子の十字架の血によって神様と和解させていただいたのです。今朝はその続きである21節から25節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 21節と22節を読みます。

 あなたがたも、かつては神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死を通してあなたがたをご自分と和解させ、聖なる、傷のない、とがめるところのない者として御前に立たせてくださいました。

 ここでパウロは、コロサイの信徒たちのかつて(過去)と今(現在)について記しています。イエス・キリストを信じて洗礼を受ける前、コロサイの信徒たちは神様から離れ、悪い行いによって心の中で神様に敵対していました。同じことが、私たちにも言えます。私たちもイエス・キリストを信じる前は、神様から離れ、悪い行いによって心の中で神様に敵対していたのです。このように聞くと、不思議に思うかも知れません。と言いますのも、神様は万物を御子において、御子によって、御子のために造られたからです。そうであれば、私たちは、神様との親しい交わりの中で、良い行いによって心の中で神様に従順であったはずです。しかし、イエス・キリストを信じる前、私たちは神様から離れ、悪い行いによって心の中で神様に敵対していたのです。なぜ、そうなってしまったのでしょうか?それは、エデンの園において、はじめの人アダムが禁じられていた善悪の知識の木から取って食べてしまったからです。神様は、エデンの園において、はじめの人アダムに、「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」と言われていました(創世2:16、17)。しかし、はじめの人アダムは、蛇(悪魔)の言葉を女の口から聞いて、「神のようになりたい」という思いから禁じられていた木の実を食べてしまったのです。アダムの最初の違反によって、アダムから普通の仕方で生まれてくる全人類が、良き創造の状態から堕落してしまったのです。アダムの最初の違反によって、神様が造られた良き世界に、罪と死が入り込んできたのです。『創世記』の第1章27節によれば、神様は人間をご自分のかたちに似せて、ご自分との交わりに生る者としてお造りになりました。しかし、はじめの人アダムの罪によって、人間は神様から離れ、悪い行いによって心の中で神様に敵対する者となってしまったのです。

 アダムの子孫である私たちは神様から離れ、悪い行いによって心の中で神様に敵対していました。私たちの心の中にある神様に敵対する思いが、悪い行いとして表れ、神様から私たちを遠ざけていたのです。しかし、イエス・キリストを信じた今はそうではありません。神様は御子の肉の体において、その死を通して私たちをご自分と和解させ、聖なる、傷のない、とがめるところのない者として御前に立たせてくださるのです。私たちは神様に敵対して歩んでいましたが、神様は私たちを愛してくださり、御子の肉の体において、その死を通して、私たちをご自分と和解させてくださったのです。「和解する」ために必要なことは、罪を償うということです。しかし、心の中で神様に敵対している、罪を持って生まれてくる私たち人間が自分で罪を償うことはできません。その不可能なことを、神様は、御子イエス・キリストの肉の体において、その死を通して実現してくださったのです。イエス・キリストは、聖霊によっておとめマリアから、罪のないお方としてお生まれになりました(一ヨハネ3:5参照)。また、イエス・キリストは、そのご生涯において、何一つ罪を犯しませんでした(ヘブライ4:15参照)。それゆえ、イエス・キリストは、私たちの罪を担って、十字架の死を死ぬことにより、私たちを神様と和解させてくださったのです(二コリント5:20、21参照)。神様は、ご自分に敵対していた私たちと和解するために、愛する御子イエス・キリストを十字架の死へと引き渡されたのです(ヨハネ3:16参照)。

 神様が御子イエス・キリストの肉の体において、その死を通して、私たちをご自分と和解させてくださった目的は、私たちを聖なる、傷のない、とがめるところのない者として御前に立たせるためでした。ここで私たちは、パウロの手紙が礼拝において朗読されたこと、人々が立って礼拝をささげたことを思い起こしたいと思います。礼拝で起こっていることは、まさにこのことであるからです。かつて神様から離れ、悪い行いによって心の中で神様に敵対していた私たちが、なぜ、「天にまします我らの父よ」と祈ることができるのか?それは、神様が御子の肉の体において、その死を通して、私たちとご自分とを和解させてくださったからです。それゆえ、私たちは聖なる、傷のない、とがめるところのない者として、御前に礼拝をささげているのです。神様は、御子イエス・キリストにあって、私たちを聖なる、傷のない、とがめるところのない者として受け入れてくださいます。これは言わば、法的な立場としてです。実質として、私たちには罪が残っており、日々罪を犯してしまいます。しかし、神様は、御子イエス・キリストにあって、私たちを聖なる、傷のない、とがめるところのない者として受け入れてくださるのです。私たちは、御子イエス・キリストの死によって神様と和解させていただいた、聖なる、傷のない、とがめるところのない者として、神様の御前に立ち、礼拝をささげているのです。

 23節を読みます。

 ですから、あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰にふみとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となったのです。

 神様は私たちにできないことをしてくださいました。神様は、御子イエス・キリストの肉の体において、その死を通して、私たちをご自分と和解させ、私たちを聖なる、傷のない、とがめるところのない者としてくださいました。これは神様が一方的にしてくださった恵みであります。では、私たちは何もしなくてよいかと言えばそうではありません。私たちは神の恵みから落ちることがないように、揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまらなくてはならないのです。ここでの「信仰」は「神の恵みを受け取る手」と言えます。ですから、「揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまる」とは、「揺るぐことなく、しっかりと神の恵みにとどまる」ことです。また、パウロは、「あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」と言います。「福音の希望」とは、22節の御言葉そのものですね。「神様は御子の肉の体において、その死を通して私たちをご自分と和解させ、聖なる、傷のない、とがめるところのない者として御前に立たせてくださっている。そして、イエス・キリストが天から再び来られる終わりの日に、私たちを実質的にも、聖なる、傷のない、とがめるところのない者として御前に立たせてくださる(復活させてくださる)」。この福音の希望から離れてはならない。私たちは、主の日の礼拝ごとに、この福音の希望を聞き続けなくてはならないのです。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている福音であります。私たちが聞いて、信じた福音は、全世界の国々の人々に宣べ伝えられている福音であるのです。その福音に、私たちも仕える者とされているのです。

 24節と25節を読みます。

 今私は、あなたがたのために喜んで苦しみを受けており、キリストの体である教会のために、キリストの苦難の欠けたところを、身をもって満たしています。私は、自分に与えられた神の計画に従って、教会に仕える者となりました。あなたがたに神の言葉をあますところなく伝えるためです。

 ここで、パウロは自分の今(現在)について記しています。パウロは、自分のかつて(過去)について記していませんが、かつてパウロは「神の教会を徹底的に迫害し、破壊しようとしていました」(ガラテヤ1:13)。そのことは、『使徒言行録』の第9章に記されています。新約の225ページです。第9章1節から9節まで読みます。

 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、迫害しようと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、旅の途中、ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが告げられる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、誰の姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

 かつてのパウロ(サウロ)は、主に仕えているつもりでイエスの弟子たちを迫害していました。しかし、天からの光の中で、パウロに示されたことは、自分が迫害しているイエスこそ、主であるということであったのです。パウロは主に仕えているつもりで、主に拳(こぶし)を振るう者であったのです。そのようなパウロを、主イエスは滅ぼさずに、福音を宣べ伝える者としてくださいました。主イエスは、弟子のアナニアに、パウロについてこう言われます。15節と16節です。

 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう。」

 このように、主イエス・キリストは、教会の迫害者であったパウロを、福音を宣べ伝える者としてくださいました。そして、これこそ、パウロがいただいた神の恵みであったのです。この神の恵みによって、パウロは他の使徒たちの誰よりも多く働いたのです(一コリント15:9、10参照)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の361ページです。

 かつて教会の迫害者であったパウロは、神の恵みによって、福音に仕える者となりました。パウロは、神の恵みによって、コロサイの信徒たちのために喜んで苦しみを受ける者となったのです。パウロは、「キリストの体である教会のために、キリストの苦難の欠けたところを、身をもって満たしています」と記します。教会がキリストの体であることは、ダマスコ途上において、パウロが主イエス・キリストから教えられたことです。イエスの弟子の群れである教会を迫害していたパウロに、主イエス・キリストは光の中からこう言われたのです。「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」。イエスの弟子の群れである教会を迫害することは、主イエス・キリストを迫害することであるのです。それゆえ、パウロは、「キリストの体である教会」と記すのです(一コリント12:27「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」参照)。パウロは、キリストの体である教会のために苦しむことを、キリストの苦難の欠けたところを、身をもって満たしていると言います。これは大胆な発言です。ここでの苦難は、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるための苦しみであり、イエス・キリストの体である教会を建てあげるための苦しみです(23節の「それ(福音)に仕える者」と25節の「教会に仕える者」を参照)。イエス・キリストの民である私たちには、イエス・キリストに代わって、福音を宣べ伝えるための苦しみ、教会を建てあげるための苦しみが与えられているのです。それは私たちに与えられた神の計画によることです。神様は、私たちがイエス・キリストの福音を聞いて信じるだけではなく、イエス・キリストの福音をすべての人に宣べ伝えるよう定められたのです。そのために私たちは、キリストの体である教会を建てあげていかなければならないのです。そのようにして、私たちはキリストの苦しみを苦しむ者とされているのです。このことは、イエス・キリストを愛する私たちにとって光栄なこと、喜ばしいことであるのです(使徒5:41、ローマ8:17参照)。私たちは愛するイエス・キリストに代わって、愛するイエス・キリストのために苦しんでいるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す