正義と慈しみを追い求める人 2025年9月24日(水曜 聖書と祈りの会)

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正義と慈しみを追い求める人

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 21章21節

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正義と慈しみを追い求める人は/命と正義と誉れを得る。箴言 21章21節

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 今朝は『箴言』の第21章21節を中心にして御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 正義と慈しみを追い求める人は/命と正義と誉れを得る。

 私が、この箴言を選んだのは、ここに、私たちの主イエス・キリストのことが書いてあると思ったからです。イエス様は、正義と慈しみを追い求める人でした。それゆえ、神様は、イエス様に命と正義と誉れをお与えになったのです。このことは、使徒パウロが『ローマの信徒への手紙』の第2章で記していることです。新約の269ページです。第2章1節から11節まで読みます。

 だから、すべての人を裁く者よ、弁解の余地はありません。あなたは他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めています。裁くあなたも同じことをしているからです。私たちは、神の裁きがこのようなことを行う者の上に正しく下ることを、知っています。このようなことを行う者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。それとも神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、この豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、怒りの日、すなわち、神の正しい裁きの現れる日に下される怒りを、自分のために蓄えています。神はおのおの行いに従ってお報いになります。耐え忍んで善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠の命をお与えになり、利己心に駆られ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みがあり、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和があります。神は人を分け隔てなさいません。

 ここでパウロは、神の裁きの基準について記しています。神は人をどのような基準で裁かれるのか。それは「行い」によってです。6節から8節。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。耐え忍んで善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠の命をお与えになり、利己心に駆られ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りを下されます」。7節の「耐え忍んで善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠の命をお与えにな」るは、今朝の御言葉、『箴言』の第21章21節、「正義と慈しみを追い求める人は/命と正義と誉れを得る」と重なります。イエス様は、耐え忍んで善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める御方でした。それゆえ、神様はイエス様に、永遠の命をお与えになったのです。私たちの主であるイエス・キリストは、耐え忍んで善を行うことによって、神の御前に正しい者とされ、栄光の体で復活させられ、天に上げられたのです。私たちは、そのイエス・キリストを信じる、信仰によって神様の御前に正しい者とされるのです。そして、世の終わりの日に、イエス・キリストと同じように栄光の体で復活させられ、イエス・キリストの栄光にあずかる者とされるのです。

 『ウェストミンスター小教理問答』に、「命の契約」と「恵みの契約」という言葉があります。「命の契約」という言葉は、小教理の問12に出てきます。

問12 創造された状態にあった人に対して、神は、どのような特別な摂理の行為をされましたか。

答 神は人を創造されたとき、完全な服従を条件として、人と命の契約に入られ、死を罰として、善悪の知識の木から食べることを禁じられました。

 「命の契約」と言われるのは、人が神に完全に服従すれば、命を与えられたからです。善悪の知識の木と並んで生えていた命の木は、そのことを教えていたのです。「命の契約」は「行いの契約」とも呼ばれます(ウェストミンスター信仰告白7:2参照)。それは、人が命を得るかどうかが、アダムの行いにかかっていたからです。神様は、はじめの人アダムが完全に服従するかどうかを知るために、「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」という掟を与えられました(創世2:16、17)。しかし、はじめの人アダムは、蛇(悪魔)の言葉を女の口から聞いて、善悪の知識の木から取って食べて、創造された状態から堕落してしまったのです。

 次に、恵みの契約ですが、「恵みの契約」という言葉は小教理の問20に出てきます。

問20 神は全人類を、罪と悲惨の状態のうちに滅びるままにしておかれましたか。

答 神は、ただご自身のよしとされるところにより、全くの永遠から、ある人々を永遠の命に選んでおられたので、ひとりの贖い主によって、彼らを罪と悲惨の状態から解放して救いの状態に入れるために、恵みの契約に入られました。

 「恵みの契約」の締結者は、神とひとりの贖い主(ぬし)イエス・キリストです。この契約が「恵みの契約」と呼ばれるのは、唯一の贖い主(ぬし)イエス・キリストを信じるだけで命を与えられる恵みのゆえです。神様は、御子イエス・キリストを遣わして私たちの救いを成し遂げ、聖霊を遣わして私たちにイエス・キリストを信じる信仰を与えてくださいました。恵みの契約の条件とされるイエス・キリストへの信仰さえも、聖霊によって与えられる神の賜物であるのです(ウェストミンスター信仰告白7:3参照)。ですから、私たちは自分の行いによってではなく、イエス・キリストへの信仰によって、神の恵みによって救われたのです。

 しかし、私たちが心に留めたいことは、恵みの契約の締結者であるイエス・キリストにとって、「恵みの契約」は「行いの契約」であったということです。イエス・キリストは、罪のない御方としてお生まれになり、その生涯において何一つ罪を犯すことなく、忍耐強く善を行われました。イエス・キリストは、その行いによって、正しい者とされ、命と誉れをあずかる者とされたのです。私たちは、そのイエス・キリストを信じるだけで、イエス・キリストと同じように、正しい者とされ、命と誉れにあずかることができるのです。これが、パウロが宣べ伝えたイエス・キリストの福音(良き知らせ)であります。そのことを確認して、今朝は終わりたいと思います。『ローマの信徒への手紙』の第3章21節から24節までを読みます。新約の272ページです。

 しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現わされました。神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現わされたのです。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって価なしに義とされるのです。

 イエス・キリストは、正義と慈しみを追い求めることにより、命と正義と誉れを得ました。それゆえ、イエス・キリストの民である私たちは、イエス・キリストへの信仰によって、神の恵みによって、命と正義と誉れを与えられるのです。

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